美慧の怒り


「トモエ、だよね?」


「あ……」


「絶対そうだ。入院してるんじゃ、なかったのか……!?」


 数年ぶりに見る伊織は、立派な男性に成長していた。

 柔らかな栗色の髪と、優しげな目元は昔のままだ。

 線が細く、中性的な美しさを持つ彼は、帝都でも女性たちに人気なのだという。


「ああ、こんなに美しくなっていたなんて……!」


「……」


(なんだろう……)


 トモエは胸に奇妙な違和感を覚えた。

 入院していた時、よくお見舞いに来てくれて、コムギと一緒に遊んでくれた。その時の記憶の伊織と重ね合わそうとしても、何かが引っかかって、完全には一致しない。


 小さな棘のような違和感の正体を探りたかったが、それよりもコムギを失ってしまったショックの方が大きくて、うまく頭が働かなかった。

 涙がはらはらと止まらない。

 伊織がこちらに来ようとしたところで、鋭い声が聞こえてきた。


「そこで何をしているの?」


「!」


 言葉を失っていると、伊織の背後から美慧がやってきているのが見えた。部屋から出ないようにときつく言いつけられていたことをすっかり忘れていた。


「ご、ごめんなさい……!」


「! あ、待ってよ、トモエ!」


 トモエは涙を拭うと、慌ててその場から逃げ去った。


    *


 ――ぱしん、と乾いた音が、薄暗い座敷に響いた。


「いい加減にして!」


 いっぱく遅れて、トモエの頬に激しい痛みがやってくる。

 美慧は紅い唇を歪め、叫んだ。


「伊織さんを誘惑しようとするなんて、この汚らわしい売女がっ……!」


 トモエは驚いていた。

 いつもひどいことを言われるが、ここまでのことをされたことはなかったからだ。

 

 なぜこうも、美慧はトモエを恨むのだろう。

 養子に入ったのが邪魔だったのか。本家の娘であることが羨ましかったのか。そのどれもがしっくりとこない。


「ちが……そんなこと、してな……」


「嘘をおっしゃい!」


 美慧はトモエの黒髪を掴み、ぐいと引き倒す。

 白い頬が畳に打ちつけられ、トモエの小さな呻きが零れた。


「昔からずっとそう! 姉さんが、姉さんだけが……!」


(私だけが、何?)


 痛みの中でトモエは美慧を見上げた。

 美慧は今にも泣き出しそうだった。


「美慧、伊織さんと、藤宮家のご当主様が読んでいらっしゃるわよ。今夜は宴なのだから、早くきて頂戴」


 また叩かれる。

 そう思ったが、養母の声がして、美慧の手がゆっくりと離れていった。


 養母はちら、と引き倒されたトモエを見た。

 どこか、暗い目をしている。

 けれど何も言わず、美慧に早く部屋に来るように伝えて、去ってしまう。

 いつも通り、見て見ぬふりだ。


「……あーあ、伊織さんがいなかったら、もっと折檻してやったのに」


 ギリ、と美慧は歯をかんだ。

 

「まあでも、明日からは、あなたの旦那様がかわりに折檻してくれるわ?」


 美慧はそう言って、にんまりと笑った。


「女中たちが噂をしていたの。暴力や暴言をふるうって、もっぱらの噂なのよ。それで何人もの婚約者候補がお屋敷から逃げ出したらしいわ」


「……」


 華奢な美慧にぶたれただけでもこんなに痛いのにと、トモエは青くなった。


「噂によると、そのせいでだーれも花嫁がきてくれなくなったんですって! さすが山育ちの野蛮人よね」


 トモエが震ええていると、追い討ちをかけるように、美慧が言った。


「ねえ、お父様がこの結婚のこと、なんて言ってたか知ってる? トモエ姉さんが向こうで死ねば、責任もまるごと投げられるって。これまでのことも、ぜーんぶ水に流せるの。それであんな大金がもらえるのだから、運がいいって」


(ああ、やっぱり……)


 トモエは絶望してしまった。

 この結婚は、トモエを虐げてきたことを隠蔽するためのものでもあるのだろう。この家でトモエが死ねば、本家の娘を殺したと、疑いがかけられてもおかしくはない。

 けれど鬼道家で死ねば、その責任はすべて鬼道に押し付けられる。

 鬼道冬夜は、冷酷な男なのだという。

 きっとトモエの言い分など、何も聞いてはくれない。


「せいぜい苦しんで、長生きして頂戴。鬼道様もお気の毒だわ。姉さんはあと数ヶ月も持つか分からないのに」


 そう言って美慧はキャラキャラと笑った。

 それから、戻らなきゃ、と部屋を出ていく。

 去り際、トモエを見て、吐き捨てるように言う。


「ああ、お葬式には呼ばなくていいからね」


     *


 翌日、トモエは寝不足とひどい体調不良の中、身支度を終えた。

 昨晩は顔も知らない結婚相手のことを考えて、一睡もできなかった。

 青白い顔を隠すように白粉をはたかれ、紅をさされる。

 桜狐家の娘がみずほらしい姿を晒すわけにはいかないから、と上等な着物を用意されていた。それも美慧のおさがりだ。


 最低限の身支度をしてもらったはいいものの、久しぶりの正装は、トモエを疲労させた。いつも安物の着物を着ていたが、軽くてあたたかくて、病人にとってはそちらの方が嬉しかった。

 美しく着飾っても、トモエにはおしゃれを楽しむ心の余裕すらなかった。


(座っているのも辛いわ)


 本日、昼頃に迎えをよこすと先方からは伝えられているという。

 しかし待てども待てども、迎えは来ない。

 とうとうなんの連絡もないまま、時刻は夕方になってしまった。


(やっぱり、妻はいらなくなっちゃったのかしら……)


 本当のことがバレた?

 もう嫌われてしまったとか?


 嫌な考えばかりが頭に浮かぶ。

 どうしたものかと悩んでいると、玄関に来るようにと養母に呼ばれた。


     *


「向こうの駅に迎えの車を用意しているそうです。電車に乗って、駅までお行きなさい」


 トモエは戸惑った。

 聞けば、鬼道邸は桜狐家からかなり離れているし、郊外だ。

 トモエは一人で家の外を歩いたことがなかったし、外出するといえば、近所の病院にいく時くらいだ。

 行ったこともない場所に電車で行くのかと、不安になる。


 外の世界をほとんど知らないトモエが、一人で訪ねていけるだろうか。


「駅までは使用人をつけますから、とにかく急いで行きなさい」


 養母もさすがに一人で行かせるわけには行かないと思ったらしい。

 養母はそう言うと、トモエの顔も見ず、さっさと部屋を出ていってしまった。


 こうしてトモエは見送りのひとつもなく、長年育った桜狐家を後にすることになったのだった。


 

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