鬼道家へ


 ──いっそこのまま、逃げ出してしまおうか。


 ガタゴトと電車に揺られながら、トモエはそんなことを考えた。

 窓の外は、禍々しいほどの赤い夕日の光で溢れている。

 タバコの煙が肺をかすめて、トモエはせきこんだ。電車の中では、男性たちがあちこちで新聞を読みながらタバコをふかしていた。


(無理ね。こんな体じゃ……)


 熱で頭がぼんやりとする頭で、そんなことを考えた。

 逃げたって、その先で野垂れ死ぬのは見えている。

 抱えた荷物を一人抱きしめた。

 使用人とは駅で別れてしまったため、ひとりぼっちだ。

 コムギがここにいたらどんなにいいかと考えて、トモエはあやうく泣きそうになった。


(きっとあっちのお屋敷にいったら、それこそ滅されてしまうわ)


 美慧も言っていた。

 暴力をふるう男なのだと。

 そんなことをされるくらいなら、あれでよかったのだと、トモエは必死に自分に言い聞かせた。


     *


 熱でうとうとしている間に、電車は目的地についていた。

 外はすっかり日が沈み、あたりは薄暗い闇に包まれている。

 ガス灯のあかりに、蛾が群がっているのが見えた。

 指定されていた場所に赴いたが、そこには車はおろか、馬車の一台すらも止まっていなかった。


(なんだか、おかしな感じ……。本当に鬼道様のお屋敷は、この辺りにあるの……?)


 市街地からほんのわずかに離れた場所だった。

 しかし目を凝らしてみると、これから向かう先の景色は、畑や田んぼが広がっており、奥には森まで広がっていた。

 郊外に出ると、こんな田舎のような景色が残っていたのかと、トモエは少し驚いた。


(大きな駅なのに、誰もいないわ)


 熱が上がってきたのか、立っているのが辛い。

 少しベンチに座って休憩していると、見知らぬ男に声をかけられた。


「おやおや。こんな時間に綺麗な娘さんが一人で、どうしたのかな?」


「え、えっと……」


「もしかして、お金に困っているとか?」


 ニヤニヤと下卑た笑顔を浮かべる男に、トモエは震え上がった。

 舌がもつれて、声が出ない。

 望んだわけではないが、病弱で家から出られなかった箱入り娘のトモエにとって、このような男は魔性よりもずっと恐ろしく感じられた。


「な、なんでも、ありません……ひ、人を待っておりますので」


 トモエはやっとの思いで声を絞り出して、立ち上がった。

 それから、弾かれたように走り出す。


(怖い、怖い、怖い!)


 途中、すれ違った人がトモエに声をかけたが、トモエは恐ろしくて話を聞かなかった。


「おい、そっちにいっちゃいけないよ! そっちは今──」


     *


「あっ!」


 石に足を引っ掛けて、トモエは盛大に転んでしまった。

 呼吸が苦しくて、立ち上がる気になれない。

 数年ぶりにこんなに走った。と思ったのだが、振り返れば、まだ駅の光はすぐそこに見えていた。ちっとも進んでいないことに、トモエは絶望してしまう。


 道にへたり込んで、トモエは呼吸を整えた。

 擦りむいた手から、血が出ている。着物もすっかり汚れてしまった。


(どうしよう……ここ、どこ?)


 もう立ち上がる気力もなかった。

 今すぐここで横になって眠りこんでしまいたい。

 しかし周りは、閑静な住宅街で、休憩できるような場所はない。道にぽつりと、トモエの影が落ちていた。


 不意に、トモエは違和感を感じた。

 奇妙なほどに、音が聞こえないのだ。

 どうしてこんなにも人がいないのだろう。


「なに……?」


 暗闇が揺らいで気がして、トモエの腕に鳥肌がたった。

 闇の中で、何かが揺らいだ。ひそひそと、何か誰かの話すような声が聞こえてくる。


『ちのにおいだ。それもいっとうあまい』


『かんびなかおりだ。こんなかおりはかいだことがない』


 男の声がした。

 誰か人がきたのかと、そう思った。

 けれど闇の中から現れたのは、奇妙なほどに背が高く、それでいてバキボキとあちこちがひしゃげた、人は言えぬものだった。


 ──魔性だ。それも人型に近い。


 魔性の強さは形で決まる。

 形なきもの。小さなもの。動物。そして、人の形。

 人に近いほど知能が高く、より凶悪で、人の血肉を強く欲するようになると言う。


 厚い雲が、月を隠していてよかった。

 そうでなければ、トモエはこの人の形をしているともいいきれぬ魔性の姿を直に見て、気絶していただろう。


『かわいいね。かわいいね。あめをあげるからこっちにおいで』


『かわいいね、かわいいね、かわいいね』


 ──おいしそうだね。


「ひ……!」


 トモエが思わず後ずさった跡に、何かがざくりと刺さった。

 刀だ。

 この魔性は、道具を使うのだ。

 トモエは嫌でも恐ろしいことに気付かされた。

 刀はすでに血で濡れていた。刃には、何か名前のようなものが彫ってあった。この刀はきっと、この魔性のものではなかったはずだ。


 ──では、この刀は、誰から奪ったの?


 トモエの前に、この魔性はすでに人を斬っていたのだろう。

 眼窩は空っぽで、黒く塗りつぶされているのも関わらず、魔性はトモエをじいっと見つめている。


『ああ、あまいあまい』


『かわいいねぇ』


『たべちゃおうねぇ』


 魔性の手が刀に伸びた。

 地面から刀を引き抜いたあと、トモエに向かって大きく振り下ろす。

 トモエは目を瞑った。


(もう、だめ……!)


 トモエはいずれやってくるその時を、受け入れたと思っていた。

 もう死について考えるのは慣れているものだと。

 それでも死は、あまりにも恐ろしかった。

 

 ──ここで、死ぬのか。


 しかし予想していた痛みはやってこない。


「!」


 変わりに、鋭い金属音が鳴り響いた。

 一撃、二撃と激しい音が鳴った後、夜闇に不愉快な絶叫が響き渡った。まるで黒板を爪でひっかいたかのような気色の悪い悲鳴に、トモエの全身に鳥肌が立つ。


「やかましいな」


 うんざりしたような男の声が、トモエの耳に届いた。

 今度はちゃんと、人の声だ。

 深みのあるその声は、トモエの心を落ち着かせた。


 トモエがゆっくりと目をあけると、目の前に一人の男の背が見えた。

 夜の闇でよく見えないが、軍装をしている。

 黒い外套が、夜風にたなびいていた。

 その手に握られた刀を見て、トモエはとっさに、彼が陸軍の独立特務隊であることを理解した。


「甘い甘いうるっせえんだよ。蟻かテメェは」


 男はそう吐き捨てたのち、刀を鞘に納めた。

 それからこちらを振り返る。

 厚くかかっていた雲が割れ、柔らかな月光が、男の顔を照らした。


(え……?)


 その美しい顔に、トモエは息をのんだ。

 よく日に焼けた小麦色の肌に、猛獣のように釣り上がった鋭い瞳。そのわりに鼻と唇は華奢で、どこか軽薄な印象もある。


 それは中世的な美しさではない。

 男らしい、力強い美しさだった。


 けれどトモエが驚いたのはそこではない。

 男の目が、血のように赤かったのだ。

 真紅の瞳。


 ──人か、魔性か。


 トモエは判断に迷った。

 けれどはっとしたときには、男の目は髪と同じ漆黒になっていた。


 それから、男の目が驚愕に見開かれる。


「トモエ……!?」


 頭がクラクラした。


(どうして、私の名前を……)


 礼を言いたかった。

 けれどもう限界だ。

 今朝から酷使した体は、もういうことを聞かない。

 視界がぼんやりと滲んで、やがてすべてが遠くなっていく。


 トモエの意識は、そこでふつりと途切れた。

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