一章
思い返すと間違いだらけの人生でした。
そもそも今の私には、生存せられてしまったことが最大の間違いだったように思われてなりません。成人の頃に父から聞かされた話では、母が「子供はできない」と言い張っていたために肉体の交渉を毎晩のように繰り返していたところ私が出来てしまったようで、父は「もちろん堕ろすだろう」と、母に言ったそうです。しかし何度言っても母が「絶対産む」と譲らなかったそうで、父も仕方なく折れ、結果的に、あの忌まわしい九十年代の中頃の、秋の彼岸に、父が仕事から帰ると産まれていたそうです。もちろん、両親にとっての長男としてです。母からは何度もその日の話を聞かされて育ちました。私の未だ治らざる悪癖ですが、私は幼少時何度もその話を母にねだって確認を繰り返したことをはっきり覚えています。母は再三のアンコールにも応えてくれました。私の幼少の記憶としては、確かに、母と出掛ける車中では決まってオフコースの楽曲が掛けられていましたし、「言葉にできない」という楽曲を「自己ベスト」と覚え込んでおりました。私にとって、存在、というのはそれくらい軽薄と重厚の両義性を持った裂け目なのです。しかし、言葉にできないことを言葉にしないと欠乏を覚えるこの習癖が、後年に至って私を苛むことになるのです。そういえば両親ともに私に何度も、なにかと有意味に語っていたこととして、父方の祖父母が最初に私を見たときの感想が、私の髪がストレートであったことだ、というものです。というのも、父方は皆天然パーマで、母方がストレートなのです。そのことから、私の容姿に関して、私は、比較的猫顔で横型の輪郭であった母に似ず、誰譲りとも知れない長い下顎はコンプレックスですが、この髪質は非常な誇りなのです。
両親は、年齢差は4年ほどありましたが、ともに地元の同じ商業高校の出身で、学はありませんでした。私が2歳の頃に弟が産まれましたが、その記憶が私の最古層の記憶かと思われます。ちょうどその頃に、母方の祖父が、肺がんで肺を切除した後、にわかに自殺しました。その記憶は不思議と想起できません。
いやな記憶なのですが、青年期に至り母が私に語ったところによると、3歳の頃から両親の間に喧嘩が絶えなくなり、私は、夜の寝室で母を殴打し続ける父に対して、母を身を挺してかばっていたそうです。母は、だからあなたは本当は優しい、と主張しておりましたが、私にはどうも依存体質のなせる業としてしか解釈できません。だいたいその頃から私は保育園に預けられ始めましたが、その頃の記憶として強固に、表象として想起されるのは、大きなものが二つです。一つは、職に復帰する母が玄関を出る際に泣き叫ぶ私、もう一つは、保育園で皆帰っていったのに自分だけ母の迎えが遅く、先生に宥められながらも泣き続ける私です。だから、私にはとうていその不安型の習性を回避型に転換することで自己防衛を図ろうなどというありふれた無意識の機制は、ついにはたらかなかったようです。
保育園から幼稚園に移り、そこで私は社会を知りましたが、私はとうていギャングのような集団には馴染めず、1歳の頃より習わされていた絵本や図鑑を読むということで時間を凌いでいました。『いないいないばあ』という絵本がとても印象に残っています。その頃もやはり分離不安の強さは言うまでもなく、福岡県の春日の方に母の免許関係の泊まり込みのために弟と一緒に連れられた際、弟とともに大勢の子供たちの中に預けられることになったのですが、他の子供たちや弟が平静と引き取られていく中、私は母に縋り付いて泣きました。見かねた職員の方が付きっきりで散歩をしてくれて、おしゃべりをしながら歩き回っているとようやく落ち着いてきたことを今も覚えており、この特定の一人とのおしゃべりという誤魔化しは、どうやら今も泣き叫び続ける私の内的な私を、その間中だけ慰めてくれるようです。狭いんです。私にはついに集団への帰属という共同性の意識がわからずじまいなようです。私には、仲間との活動ではなく、仲間の中から特定の親友をえらび出して、その関係性だけを後生大事にするという、そうした、いわゆる対幻想への引きこもりの傾向がみられます。
幼稚園も年長になる頃には、私はいじめられていました。私には友情というものがわかりませんでしたから、友達も仲間もおらず、ひたすら逃げるか追いかけるかしておりました。逃げる、というのは、気性の荒い級友たちから逃げていたのですが、追いかける、というのは、「おんなつかまえ」と称して女の子たちを追いかけるという趣味でもない女好きの道化に徹していたのですが、基本的に私は純粋な意味で女の子と遊びたかったようです。だから、楽しかった記憶といえば、女の子たちとのごっこ遊びで炊事の真似事をしていたことです。或いは外で遊ぶにしてもいつも一人で狭い空間に閉じこもったり、または園庭の隅で飼われていたインコに黙って餌をやっていました。
ある日の記憶です。後で知ったのですが、その頃私は母に月に一度のペースで自閉症の療育に連れられており、その日は幼稚園の日だったのですが、母が迎えに来たので途中で組を抜け、時間があったのか園庭で母のそばで遊んでいたところ、組のベランダから級友たちがこちらを見て野次を飛ばしましたところ、組の先生が「たけしくんは違うから」などと言いますので、私は非常な恥辱の感を覚えたものです。きっと、この記憶に象徴される劣等感が、現在に至るまで私の実存を規定している節があります。類似した記憶で言えば、小学一年生の頃に、学校の玄関で、同級生の女子とダウン症の同級生について噂し合っており私が間違えて「自閉症」と言ったところ、「それはお前だろ」などと言われ、私は当時告知されておりませんでしたから、非常な不安を覚えて聞き返しました。どうやらこのようなことが続いたことが、私のこの「他者だけが自分のことも含めて物事をよく知っており、私だけが認識すべきことを認識していない」というこの認識への焦燥感を掻き立てたのかもしれないと思っております。私は、あのルソーの、他人たちが共同して自分のことを知りつつ陰謀を張り巡らしているという、迫害妄想は、私のこの経験に類似していると思い、それを一時期は「Das Esからの疎外」と表現しておりました。
ところで年長の頃、5~6歳頃というのは、私にとって思い出深い時期であり、というのは、両親の不仲で母が私と弟を連れて母子寮というシェルターに転居していた時期にあたります。私はそこで自慰行為を覚えました。覚えた、というよりも、母に教わりました。母子寮というところで5~6歳の時期に、母に自慰行為を教わった、という、なにか意味ありげな経験は、今に至って思うところがあるもので、精神分析に詳しい仲間にふと話してみたところ、母との交わりは原則失敗することが前提だと言いますので、不吉な警告に思えてならないのです。しかし、私はこの頃から自慰の虜になりました。この頃から通わされ始めた個人のピアノ教室でも、幼稚園のお遊戯室の舞台袖でも、隙さえあれば下着に両手を突っ込んで揉むように自慰に耽りました。だから、私にとって、自慰、という単語の構成は、この頃ますますよく了解されるのです。自慰、という甘美な響きが、それ自体一つの慰めだと思っております。
不到 てると @aichi_the_east
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