唯識心理想

江渡瀬 太良

第1話

『四月五日、朝のニュースのお時間です。日本最後の神社である結〆むすじめ神社の取り壊しが政府の政策により決定されましたが、未だ座り込みによる作業妨害が続いています』


 朝から不穏な日本の情勢を頭の片隅にインプットされる。


「ふふっふぅー、あぁやってやる、やってやるぜこうなっちまったら戦争しか道はねぇってこった」


 世間も不穏だが洗面所にいる男もまた不穏な顔を鏡に反射させながら不敵な笑みを浮かべていた。


「さぁこれがラストチャンスだ。お前ももう諦めてお縄に着けってことよ」


 首に微調整を加えながら位置調整を施す。


「三度目.......これが三度目のぉ、正直だぁぁぁ‼︎」


 首に巻かれた布の結び目が首元までスライドアップ。


「くっ......くそぉ! なんたってこんなに難しいんだよ、全然上手く結べねえじゃん、さすがに初日から遅刻なんてシャレになんねえってのにいーっ!」


 神我かんがすぎは洗面所に置かれた鏡の前で、これまで一度も着けたことのないネクタイに苦戦していた。


 正直しょうじきネクタイなんて靴紐くつひもを結ぶ程度だと、そう思っていた神我かんがにとって、ネクタイ如きに十分も浪費した結果が、一度目に首を絞めすぎて、二度目に大剣ブレイドが長くなり、再三さいさん三度目に小剣スモールチップが長くなるなんて、思ってもみなかったことなのだ。


「はぁー、誰かコツとか教えてくれよ」


 式典に出席するには、侮辱的なネクタイの結び方だ。


「ねえお兄ちゃん、お兄ちゃんはなんでここにいるの?」


 隣を見ると、家で飼っているペンギンのドロップを抱えた妹が————そこにいた。

 神我かんがあい、実年齢は若干じゃっかん十五歳の中学三年生。

 その証拠に、数ヶ月前に着ていた、いまはもう着ることのなくなった制服を身につけている。


 そして俺は、そんな彼女に呆れ口調でこう返す。


「あのなぁ妹よ、俺は確かに義務教育というコンテンツを走り切ったのでそういう観点では居候いそうろうという立場にならなくもないかもしれないが、まだ未成年の、十六歳のピチピチ高校生に対してそんっな辛辣しんらつな言葉を投げかけるのは、いかがなものかと兄思う」

「むぅぅぅ」


 すると妹は、これでもかというぐらい、つま先に力を加え、頬を膨らませ、茶色の髪が鼻先にあたるかというほど顔を近づけながら、上目遣いで睨んできた。

 足がプルプルと震えながらも、不満を強調するその姿勢に、俺はつい————


「......どしたの?」


 なんて言葉を返してしまった。

 それは妹の不満を、膨らんだ頬では表現できないほど膨れ上がらせてしまうことだと知りつつも。


「ねえ! 妹って呼ぶの辞めてっていつも言ってるよね‼︎」


 妹は、何故か妹と呼ばれるのを嫌がっているというか、兄弟として接するのを嫌がっている。

 頻繁に実家へ帰り、両親と食事をするという親孝行者の優等生という側面を持ちながら、神我杉の前では、反抗期という氷河期に突入するのは何故だろう。


「悪かったよあい————でもお前、家ではお兄ちゃんって呼んでんじゃん」

「私はいいの!」


 愛は地団駄じだんだを踏み、その揺れでドロップは羽をパタパタと仰いでいる。


「グァ?」


 ちなみにドロップという名前は俺が命名したのだが、その名前を呼ぶ度に嫌な思い出を呼び起こし、無性に気分が落ち込んでしまう。

 あれは——数ヶ月前の出来事だ。

 家族旅行inローマからの帰り道。

 その日の天気は————晴れ後ペンギン。

 そう、俺の頭上からペンギンが落ちてきた。

 鳥とぶつかったのかもしれないし、飛び方を忘れたのかもしれないし、ないし落ちてきた事実というのは確かなもので、そして俺の頭にぶつかった事実というのも確かな出来事なのだ。

 というわけで、空からドロップして俺の頭にドロップキックをかましたペンギンには、恨みを込めてドロップという名前がお似合いというのは、全米に納得してもらえる理由ではなかろうか。

 羽が治って数ヶ月も経つというのに、未だ神我家から飛び立たないでいるかといえば、無償むしょうで飯を食えるからだろう、味を占めたのだ。


「で、なんのご用でございましょうか?」

「いやさ、お兄ちゃんはなんで登校時刻を過ぎたのに家にいるのかなー、っと! 思ってさ」

「登校時刻? 入学式の開始時刻は十一時だぞ」

「うん、それは知ってるけどさ」


 首を傾げる。


「保護者用は開始時刻から記載されてるけどさ、お兄ちゃんは生徒だよね?」


 まだ首を傾げた状態を維持している。


「入学式が始まる前にさ、なにかするよね、説明とかさ、もしかすると自己紹介とかさ」


 言われてみれば確かに、十一時に集合してそのまま入学式が始まるとは思えない。

 修学旅行だって数十分のインターバルがあるというのに、入学式にそれがないのは異常だ。

 いや、異常なのは俺の頭のほうなのかもしれない。

 俺は急いで自室へ向かい、数週間前に青洲桜花せいしゅうおうか高等学校——通称、青花せいか校から届いた封筒を開き、逆さにして中身を床へとばら撒く。

 床に散らばった数枚のプリントの中から、『入学式時刻表』と書かれた一枚を拾い上げ、上からなぞる様に確認する。


『厳守‼︎ 新入生は九時集合』


 神我はブレザーの下から飛び出しているネクタイの端をズボンへと捩じ込み、家を出た。

 家を出た時刻は十時三十分。

 もう遅刻確定の大戦犯なのだが、唯一の救いは両親が来ないことだろう。

 父からは『そんな公務執行妨害行事に行けるわけないだろ、逮捕するぞ!』と、言われた。

 息子の晴れ舞台より公務が大事らしい。

 全く、迷惑をこうむるぜ。

 母は『忙しく来れない』とだけ言われ、代わりに愛を派遣するそうだ。

 おい! 学校はどうした、学校は‼︎


「っと! あぶねえ‼︎」


 本来いけないことなのだが、俺は入学式当日から自転車通学を開始した。

 イケる男はいけないことをする、なんて悪漢あっかん思想のヤンチャっ子ではないので、これは仕方のないことだと自分に言い聞かせなければ実行に移すことができない。

 しかし、学校関係者に見られたら、本当に洒落しゃれにならないな。

 もしこれで事故を起こそうものなら、きっと学校は庇ってはくれないし、なんなら退学という形で見捨てられてしまいそうだ。


 なんてことを思いつつ、つい一時停止を怠ってしまった。


 綱引きで急に手を離された時の、フワッとした感覚が、全身を巡ったその瞬間——俺は地面に倒れ伏していた。


 一瞬何が起こったのかわからず、しかしとにかく起きあがろうと地面に手をつき力を加えるが、一向に起き上がることができない。

 ぼやけた視界で捉えたものは、地面に垂れた赤い液体と、急ブレーキによって生まれた慣性で捲れたスカートの中のスクール水着。

 なんでだよ、いま四月だぞ。


「君大丈夫!?」


 その時、自分は轢かれたのだと理解した。

 しかし入学式に曲がり角でぶつかるというイベントは、食パンを加えながら『いっけなーい、遅刻遅刻!』と言いながらの出会い系イベントのはずなのだが、出会い系イベントなんてハッピーなものではなく、ただの事故だ。


 まずいな。

 傷が————ではなく、いまから起こる出来事を見られるのが。


「救急車を呼ぶからね!」


 そう言い、女の子は電話をしようと携帯を取り出し——地面に落とした。


 正常な反応だ。

 少女が見たものとは、体というフラスコからこぼれ落ちた血液が、砂粒ほどの粉微塵となり、破損した体に戻ってゆく光景。

 傷など始めからなかったかのような姿。


 数秒の沈黙が支配して、初めに口を開いたのは彼女だった。


「えっと、一件落着? 大丈夫?」

「まぁ」

「——そっか......よかったー、大事になったらまた停学くらうとこだったよーっ、て君青花校の生徒? できれば内緒にしてくれないかなー」

「——えっえぇ、まあ俺も入学式に自転車通学がバレるとまずいんで」

「ほんと!? ありがとー、君はいい人だね! ほんっと、都合のいい人だよー」


 超常現象を前にして『君は都合がいい人だね!』なんて言葉を吐く人がこの世に存在するとは、俺よりもよっぽど超人ではないか。


「じゃあ、君も急ぎなよ!」


 ひと一人を轢いておいて「じゃあ」で完結させるとは————


き慣れてるな、絶対」


 きっとあのバイクは俺を轢く前から事故車両なのだと決めつけながら、負け劣る我がママチャリを見つけると、それはもう悲惨な鉄屑てつくずへと早変わりしていた。

 まさにビフォーアフター、残念ながら自転車に保証という名のアフターケアは付属していない。


「どうすんだよ......まじで」

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