キャッチボール

南沼

●●●

「公園に行こうか」

 武田の言葉に息子の優斗ゆうとは満面の笑みで「うん! 行く!」と答えて、軽やかな足音と共に玄関に駆けてゆく。年子の姉である愛華まなかは、一人でぬいぐるみ遊びに熱中している。

 目元のあたりは妻の綾子そっくりで、孫馬鹿の義母に言わせれば『揃って綾子の小さいころに生き写し』の姉弟だが、性格や好みはそれぞれまるで違った。「愛華も行く?」とそっと声を掛けたが、黙って首を振ってまた手元に熱中するばかり。

 なら、2人で出掛けてしまおう。

「靴下も履いて」

「はーい!」

「お母さんに何て言うの」

「行ってきまーす!」

 4歳になる優斗は幼稚園の年中さんで、桃組の中では一番のだった。言葉を覚えるのも、周りに比べて幾分遅い。

 子供の成長を促すのは適度な運動と旨い食事だと信じてやまない武田は、だから休みのたびに近所の公園に優斗を連れ出す。ブランコに滑り台、鉄棒や雲梯。子供が夢中になれる遊具は、昔も今も変わらずそこにあった。

 もうひとつ大事なものは、ボールだ。

 武田が片手で握れるぐらいの柔らかなシリコンゴムのボールを優斗は両手で身体の前で抱え、半ば地面に落とすようにしか投げることが出来ない。

 それでもボールが手を離れ地面に跳ねるたび優斗は一層嬉しそうに笑い、武田もそれにつられる。

「上手上手。すごいね」

 それでいいと武田は思う。まだほんの10センチぐらいしか前に投げられないボールも、少しずつその飛距離を伸ばして、いずれは真っすぐ自分の手元に届くようになる筈だからだ。

 息子にキャッチボールを教えるのは、父親の役目なのだ。


 ポケットの中で、スマホが短く振動した。アプリの着信通知だろうとスマホを取り出す。

 メッセージアプリのトーク画面に表示された翠からのメッセージは、極めて簡潔なものだった。

『できました』

 そして、妊娠検査キットの画像。覗き窓に、赤い線。

 本当におれの子か。他に誰かと寝たのか。そんな逃げ口上が頭をよぎったが、『わかりました。婦人科を受診してください』と返信した。

 間違いなく、自分の種だという確信があった。


 2歳年下の綾子が優斗の出産を経てからこちら、もうかれこれ5年以上ずっとセックスレスが続いている。

 理由は定かではない。ただ、妊娠が発覚してしばらく綾子を抱かないうちに、すっかり彼女を性愛の対象として見ることが出来なくなってしまった。妊娠中期まではペッティングはしばしば交わされたし、綾子も手や口で慰めてくれた。しかしそれも腹の大きさが目立つようになってからは、ふっつりと途絶えた。母としての役割を大きくその身に担う彼女の姿が目に入る度に、陰茎は硬度を失い萎びた。

 愛情はあった。間違いなく。武田はそれだけは胸を張って言える。家庭を守り、妻を愛し、子を育てる。それで満足のはずだった。

 だが、そこからセックスだけが永遠に失われた。原因はわからなくとも、それは確かに武田の側にあった。夫婦の寝室で綾子が枕もとに隠していた女性向けのアダルトグッズを見付けた時、武田の胸の裡に湧いたのは不憫さと罪悪感と、生理的な嫌悪だった。理不尽なのは自分でも分かっていた。

 そして、性欲が消えた訳でもなかった。自身の陰茎をしごくだけでは決して解消されない、粘度の高い欲望が武田の腹の底にどろりと溜まり、その重さと悪臭に、ついに武田は耐えきれなくなった。


 翠に出会ったのはその頃だった。出会い系アプリを使って、手頃な女を探していた。手頃というのは、日々のストレスに倦み、行きずりの男とのセックスをその解消に充てるような手合いだ。年齢や見た目など問うつもりはなかったが、いざマッチングしたのは一回りも年下の年若い娘で、それが翠だった。

 都会の生活に疲れ、実家のあるこの街へ出戻ってきたのだという。

「えっと、で大丈夫ですか……?」

「勿論。こちらこそでも良い?」

 待ち合わせ場所に指定した夜の駅前のロータリーで交わした会話だ。小柄な、夜目にも黒髪の艶やかな娘だった。

 すぐにタクシーを呼び止め、ホテルに向かった。


 身体の相性は、無二のそれだった。二人とも、あっという間にお互いの身体に溺れた。武田が果てる前に2度、3度と翠は気を遣り、武田もそれに応えるように何度でも硬度を取り戻した。

「もう無理、休ませて」と肩越しに哀願するのを尻を叩いて黙らせ、全ての欲望を吐き出してようやく萎えつつある男根を容赦なく口内深くまでねじ込んだ。翠の身体は跳ね、再び腰のあたりが痙攣した。そういうセックスを好む娘だった。

 避妊を疎かにしたつもりはなかったが、ある日過ちを悟った。いつものように翠の尻を掴んで思い切り腰を打ち付け吐精した後に抜いてみると、ゴムが破れていた。陰茎の根本に残ったゴムの輪と切れ端が空々しく濡れ光るのは、悪夢のような光景だった。

「……生理、終わったのいつだっけ」

「1週間くらい前だと思いますけど……」

 これ以上ない危険日だった。やってしまったと落ち込む武田を、「大丈夫ですって」と根拠なく慰める翠の健気な姿が、印象に残っている。

 スマホで近所の婦人科を探し、アフターピルを処方してもらうよう言い含めて費用を渡し、その日は別れた。

 結局、何一つ大丈夫ではなかった訳だが。


「どうしたい?」

「どうしたいって……私、子供は欲しくないので」

 その言葉に、心底安堵した。

 頼むから気が変わらないでくれ、そう祈るような数週間が過ぎ、いよいよ堕胎手術の日。武田は出勤する素振りで家を出てそのまま病院へと向かい、処置代をへそくりから払った。

 麻酔の影響か、まだどこかぼんやりした様子の翠の身体を気遣い丁重にアパートまで送り届け、その後何事もなかったかのように夕刻帰宅した後、アプリを開き連絡先をブロックした。住所などの個人情報を最後まで伏せていてたのは、本当に幸いだった。


 優斗が小学校に入学し最後の七五三を終える頃には、運動音痴の優斗も何とか山なりのボールを放ることが出来るようになってきた。

「ほらほら、前見て投げなきゃ」

 硬球の見た目を模したゴムボールが、親子の間を行き来する。今日は愛華も公園に一緒に遊びに来ているが、わざわざぬいぐるみを持ってきてベンチで一人おままごとをしているようだった。

「お父さん、今日の晩御飯なに?」優斗が元気いっぱいの大声で尋ねる。晩秋の空は晴れ上がり美しい青に澄んでいて、少しばかり風が強い。

「何だっけ、帰ったらお母さんに訊いてみよう」

 大した広さのない公園で夕方までひとしきり遊び、5時を告げる無線チャイムを聴いてから帰途に就いた。

 夕焼け小焼けに日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る。武田が子供の頃から変わらないメロディー。もう随分日が落ちるのが早くなったなと、茜空を見上げて思う。

「ぼく、先に帰ってもいい?」

 一人だけ自転車に乗ってきていた優斗は、言うが早いか既にサドルに跨っている。頬は上気し髪は汗でぺったりと張り付いているのに、まだ元気は尽きないようだった。

「いいよ、ちゃんと右左見てな」

「はーい」

 そのまま、あっという間に立ち漕ぎで走り去っていく。

「愛華も、帰ろう」

「うん」

 既に人影の消えた公園を、娘と手を繋いで立ち去る。

「晩御飯、なんて言ってたっけ」と訊くと、「餃子だよ」と愛華が言う。

 ああ、そうだった。今日は家族揃って、餃子を包みホットプレートで焼くのだ。


 美央は、生活に疲れたシングルマザーだった。口を開けば、思春期を迎えようとする一人娘を養いながらの生活の苦労への愚痴が、いくらでも飛び出た。私学にやるための学費の準備や、年頃の娘ならではの潔癖さと向き合うことに必要な気力と辛抱強さ、それらすべては武田にとって全く興味のない話だった。水商売の女じみて濃い化粧や、調子の外れたように自分のことだけを話し続ける癖、その際に発する腐臭を連想するほどきつい口臭すら。

 更年期を迎えむっちりと肉の詰まった身体、とりわけ容易い刺激で濡れそぼっては小刻みに指や陰茎を締め付ける膣肉こそが、武田に必要なものだった。

 毎回ファストフード店で待ち合わせ、生活の苦労を親身に聞く振りをしながら紙カップから焼けた香りのするブラックコーヒーを啜り、薄っぺらく据わりの悪いステンレス製の灰皿に煙草の灰を落とした。その後は、勿論ホテルに直行した。

 避妊具は着けない。それはセックスによってのみ満たされるある種の自己肯定感をひどく曇らせるものだと感じていた。翠とのことがあってからすぐに、綾子に黙って遠くの個人クリニックでパイプカット手術を受け、精管は切除している。

 安ホテルの一室に籠って早数時間、2人揃って獣のように声を上げ同時に絶頂に昇りつめようという時に、枕元のスマホが振動した。振動のパターンから通話の着信だと武田の脳の冷静な部分が判断したが、勿論取る余裕はない。

 みっしりと重い身体で仰向けになった武田に馬乗りになり大振りなマッサージ機にも似た玩具で自らを刺激しながら、引き絞るような叫び声と共に美央が果てた。漏れ出た温かい液体が武田の下半身とシーツを濡らすと同時、最奥に思い切り吐精した。

 陰茎を締め付ける強い痙攣が終わり、女体が大きく傾いで崩れ落ちるのを見届ける頃、もう一度着信があった。今度も通話のそれで、しかも長い。虚ろな目でベッドに力なく四肢を投げ出し大きく胸を上下させる美央をよそに、スマホを取り上げた。

 綾子からだった。逡巡する内に着信は途切れたが、1分もしないうちにみたびの通話着信が始まった。さすがに出ない訳にはいかない。洗面所へと向かった。

「もしもし」

「あの、ごめんなさい、お仕事なのに」

 泣きそうな、綾子の第一声だった。家族には、休日を跨いだ出張だと偽って家を空けたのだ。

「優斗が、車に……」


 外傷性脳損傷、と優斗の主治医となった脳外科医は説明してくれた。

「いわゆる脳挫傷です」

 吉原という名の、妙に日に焼けて健康そうな中年医師だった。結婚指輪はしていない。歳は武田と同じか少し上ぐらいだろうが、さぞかしモテるのだろうという思いがこんな時だというのに武田の脳裏をよぎった。

 武田と綾子、そして吉原が真剣に見つめるパソコンのデュアルディスプレイの片面に、MRIの画像が大きく映し出されている。頭の鉢のあたりで輪切りにしたようなモノトーンの画像の中、左の側頭部に妙に白っぽい領域があった。

「ブローカ野という部分になりますが、ここに出血と損傷が見られます」

 早急な手術が必要です、そう吉原は言う。

「放っておけば失語症などのリスクがあります」

「失語症って」

綾子の顔は最早蒼白だった。

「自分の考えを言葉などで表現することに困難が生じる、ということですね」

 どの程度のリスクなのか、それは手術で軽減されるのか、そうなったとして果たして治るのか……吉原が懇切丁寧に説明してくれているのはよく分かったが、武田はどこか上の空、地に足のつかないような心地で聞いていた。

 近所の公園へと自転車で遊びに行った、その帰りだったという。見通しの悪い住宅地の十字路をろくに減速せず直進したミニバンとまともにぶつかった、らしい。

 いつもなら、武田が一緒に付き添っていたはずだ。

『ちゃんと右左見てな』

 そう言って、不注意を窘めたはずだった。

 どれだけ悔やんでも悔やみきれない。

 ストレッチャーで手術室に搬送される優斗を見送りながら、武田は今にも泣き崩れそうな綾子の肩に手を置いた。


 手術は、3時間ほどで終わった。手術着のまま出てきた吉原はさほど疲れた風でもなさそうに「無事に終わりましたよ」と微笑みすら浮かべて言った。

「ありがとうございます」

 武田と綾子が、揃って頭を下げた。

「あの、意識はいつ頃戻りますか」

「麻酔はじきに覚めますが、目が覚めるのは恐らく明日以降かと」

 既に、真夜中に近い時間帯だった。麻酔が切れても、呼吸や血圧が安定するまではしばらく手術室に留まる必要があるというのは、手術前に説明を受けたところだ。

「ご両親も、ひとまずは帰って休まれてください」

 立ち去る吉原の背に向け、2人はもう一度頭を下げた。


 吉原の言葉の通り、優斗の意識が戻ったのは翌日の昼頃だった。更に面会が可能と判断されるまでもう1日待って、武田は綾子と愛華を連れ立って病棟に出かけた。

 ノックをして個室に入ると優斗は既に目を覚ましていて、泣き笑いのような顔をした。よほど心細かったのだろう。身体を起こすのはまだ辛そうだったし、頭にきつく幾重にも巻かれた包帯が痛々しかった。

「おはよう」

「まだ、痛むか?」

 綾子と武田の言葉に何かを答えようと口を開くが、言葉が出てこない様子だった。

『失語症のリスク』吉原の言葉が脳裏に翻る。

 無力感と惨めさ故か、優斗はついに顔を歪めて涙を零した。まだ小学校2年生、笑う時も泣く時も大騒ぎの優斗が鼻水を啜りながらいっそ静かに泣く姿に、綾子は一緒に泣き出した。武田は目をつぶり、口を堅く引き絞った。涙は出てこなかった。


 幸いにも、失語症は一時的なものだった。1週間の入院と数か月のリハビリを経て、優斗は言葉を取り戻していった。

 ただ、以前と同じようにとは、いかなかった。

「おはよう」

「お、お、おは、おはよう」

 吃音症。どれだけゆっくり喋ろうとしても、必ずつっかえるようにどもってしまう。

「珍しいケースです」

 術後半年の検診で、吉原は慎重に言葉を選ぶような口ぶりだった。

「例がないわけではないのですが」

「治りますか……?」

「断言は出来かねます」

 渋面を作りながらも、吉原は正直にそう言った。吃音症に、確立された治療法や治療薬はないのだという。

「私も専門という訳ではないので……ただ、紹介状を書くことは出来ます」

 武田は藁にも縋る思いで「お願いします」と頭を下げた。


 四十路をいくつも過ぎ、よりにもよって手を出したのは、綾子の旧友だった。妃奈子という綾子の大学の後輩で、今までも何度か家に遊びに来てくれたことがある。

 美央とは、もうとっくに連絡は途絶えていた。優斗のことがあってしばらく連絡を差し控えている間にブロックされたようだった。心境か生活に何か変化があったのかもしれないが、さして未練もない。

 それでも煮えたぎるような欲望は再び武田の中で音を立て溜まってゆき、そんな折に食事へと誘ったのが、妃奈子だ。年の頃はまだ30代の前半、いかにも自分に自信のありそうな美人だった。

 大衆居酒屋で優斗のことを大いに嘆いて同情を誘い、2軒目に選んだ照明の暗いスパニッシュバルでそれとなしに綾子とのセックスレスを話題に出した。

「奇遇ですね」と妃奈子は言った。

「私もレスなんですよ」

 妃奈子もまた既婚者だった。しかし結婚指輪は着けていない。

「料理作るときとか、ほら、気になるじゃないですか」

 武田さんだって、と囁くように言いながら、カウンターの上に置いた左手をつついてくる。


 飲み込まれるままに、手首までを女陰に突き入れていた。

 妃奈子は元が細い目を限界まで見開きながら虚空を見つめ、おご、おう、という言葉にならない叫び声を上げている。

「もう無理、ほんとうに」

 死ぬ、壊れる、そんな言葉を聞き流してベッドに胡坐をかきながら、拳を包む粘膜と肉の圧迫感に愉悦を感じていた。陰茎は痛いほど固く勃起していたが、亀頭はシーツから持ち上がろうとはしない。もう、武田も若くはなかった。

 事が終わり枕を並べてひと時の休みに息をつき、もう一回ぐらいはできるだろうかとぼんやり考えていたところ、シャッター音がした。

 振り返ると妃奈子が、こちらにスマホのカメラを向けていた。

「なに、何の写真?」

「記念撮影」

 悪戯っぽく妃奈子が笑う。

「やめとけよ。見つかったらどうするんだ」

「そういうの、怖くなっちゃいます?」

 小皺の寄る目尻に、確かな挑発のニュアンスを感じた。

 気が付けば、妃奈子の首を絞めていた。絞めながらもう片方の手で下をまさぐり、挿入する。みるみると顔を赤黒く充血させながら、妃奈子は確かに濡れていた。


 思春期になれば、成長期を経れば、息子さんの吃音は治るかもしれません。

 主治医の言葉に縋りつき、理学療法士のリハビリを受け時には綾子がどこかから見つけてきた怪しげなセミナーに通いつめたりもしたが、いっかな効果は見られなかった。

 中学生まではよかった。だが高校生になったあたりから徐々に塞ぎ込むことが増え、ついにはまともに登校することが出来なくなってしまった。本人は何も言わないし綾子もただおろおろするばかりだったが、いじめかそれに近しい行為を受けていたのではないかと武田は疑っている。

「一番辛いのは息子さんですから、ご両親もきちんと向き合ってあげてください」

 主治医に言われるまでもなく、そうするつもりだった。

「キャッチボール、するか」

 未だに、休日にはグローブを片手に優斗を誘う。優斗もこの時だけは笑って着いてきてくれた。

 公園の広場で芝生を踏みしめ、硬球を山なりに投げる。返ってきた球をグローブで受け止める。使い込んで色褪せ、ぺたりと平たくなったグローブがたてる小気味の良い音、硬球の重み。ただそれだけが、ひたすらに楽しい。

 しかし、

「おい、どうした」

 ボールを投げようとしたところで、急に優斗が俯き、グローブを前屈みに隠すような素振りを見せた。そのままの姿勢で、小走りに駆けよってくる。

「どうしたんだ」

「か、か、かえ、帰る」

 優斗が何度も振り返る方に、男子高校生と思しき集団がいた。スケートボードを手に持っていて、これからライドスペースに向かうようだった。こちらに気付いた様子はない。

「学校の……知り合いか?」

 優斗が、黙って頷いた。


 人並みに出来ることの何もない息子への不甲斐なさに、怒鳴り付け手を上げることが増えた。

 学校へ行け。

 挨拶をしろ。

 返事はどうした。

 教育のつもりだったが、殴る度に心のどこかに溜まった霧が少しずつ晴れていくような感覚があり、同時に自分がどうしようもなく後戻りできない道に歩を進めていることを自覚した。優斗は怒鳴りつけられている間中何も言わず上目遣いに武田を睨み上げ、その姿に反抗心を認めた武田はさらに激高した。綾子はもう許してあげてと泣いて縋り、愛華は我関せずといった態度で自室に戻る。それが、武田家の日常となった。


「ねえ、今月、有給って取ってたっけ」

 暗い声で綾子に問われ、ぎくりとした。

「いや、どうだったかな」と言いながら記憶を巡らせる。出勤と偽って休みを取り、女を抱きに行くような遊びは、ここのところ控えていたはずだった。

「休んでないよ」

「嘘」

 電話台の傍、フローリングに胡坐をかきながら、綾子は手許の紙を覗き込んでいる。先月分の武田の給与明細だろうが、有給取得日数の欄はゼロになっているはずだ。

「休んでないと思うんだけど、何かの間違いじゃないか」

 努めて穏やかに声を掛けるが、綾子は「嘘、会社なんか全然行かないで、どこで何してるの」と譲らない。

 いったい何を見ているのかと、手許を覗き込む。

 それは、くしゃくしゃになったスーパーのレシートだった。

「綾子……?」

 綾子が、がばりと顔を上げる。

「仕事サボって女の人のとこ行って! 皆して私のこと笑いものにしてるんでしょ!」

「何言ってるんだ」

「今日も聞こえてた! 死ねばいいって! あなたもあの女も、皆が家の周りで!」

 眼を見開き口角泡を飛ばすその形相は、武田がついぞ見たことのないものだった。

 勿論、そんなこと武田はしていない。

「死んでやる! そんなに死んで欲しけりゃ、今死んでやる!」

「落ち着いて、頼むから」

「うるさい!」

 武田の手を振り払い、綾子は恐ろしい勢いで階段を駆け上がっていく。止める間もない。

 2階の寝室の窓を開け放つ音、そして庭の玉砂利に何か重いものが落ちる音がして、静かになった。


 右中足骨不完全骨折、同じく右足関節捻挫、下腿部挫傷。失神こそしたが、それだけで済んだのは幸いだった。手術の必要もないらしい。

 ただ、もうひとつの方が問題だった。

 陽性症状を伴う中等度の統合失調症。

 そのような診断が下り、自傷の恐れありということから速やかに医療保護入院が決まった。

「まずは3カ月、それで様子を観ましょう」と初老に差し掛かった精神科医は言った。

「はあ……」

「勿論、症状が落ち着けば、もっと退院時期は早まりますが」

「あの、面会なんかは」

「ご家族であれば可能ですよ」

 患者さんご本人の意思にもよりますが、とわざわざ付け加えたのは、綾子の診察で何かを聞いたのだろう。


 専業主婦の綾子がいなくなってから、武田家は荒れ放題になった。優斗はやはり自室に籠りきりで、愛華もろくにリビングに顔を見せない。

 食事は武田が用意するものの、店屋物の総菜ばかりを適当に買ってきてはダイニングテーブルの上にパックのまま乱雑に放っておくか、冷蔵庫に詰め込むだけだ。誰も洗い物などしない。

 洗濯もゴミ捨ても思い出したようにしかしないものだから、リビングの床などはひどい有様だった。誇張や比喩でなく、家の中はいつも暗い。

 武田の女遊びも再燃した。かつて遊んだ女たちに片端から連絡を取り、時にはアプリを使って行きずりの女に金を払って。

 こんな家に、誰が帰りたがるものか。


 キャッチボールしよう、そう誘っても優斗が返事すらしなくなって、どれくらい経っただろう。

 かつて子供が生まれる前は爽やかな木の香りが漂い、白く清潔な壁紙が家族の行く先を言祝いでいた新築の家。それも今やゴミ袋や洗い物が野放図に床に溢れかえり、壁紙は薄汚れて所々へこんでいる。

 珍しく固定電話が鳴った。溜息をついてソファから立ち上がり、電話台に辿り着くまでにいくつものゴミ袋を足蹴にした。

「はい、武田です」

 病院からの電話だった。受話器越しにも憔悴が伝わる声だったが、数度顔を合わせたことのある年かさの看護師長だと分かった。

「はい、はい……」

 すぐに伺います、そう言って受話器を置く。

 暗澹たる思いで、しばらくそのまま立ち尽くしていた。

 2階から、のそのそと階段を下りる足音がした。優斗だ。冷蔵庫の飲み物を取りに来たのだろう。

 リビングに姿を現した優斗の方を見もせずに、武田は告げた。

「母さんが、亡くなった」

 病院からの電話は、綾子の訃報を告げるそれだった。どうやってか手に入れ隠し持っていた靴ひもで、首を吊ったのだという。

 優斗は応えない。一瞬だけは足を止めたものの、電話台の前にいる武田を迂回して、キッチンに向かう。

「母さんが、死んだんだぞ」

 武田は語気を強めるが、優斗は知らんふりで冷蔵庫の扉を開ける。

 生白くだらしのない身体つきに、表情筋の弛んだ下膨れの顔。黒かびのような無精髭。不潔な部屋着。かつてだれもが愛らしい子供だとお世辞抜きで誉めそやした面影は、そのどこにもない。

 おい、と呼び止めようとしたところに、声がした。

「全部パパのせいなのに、どうして優斗に怒るの」

 耳元で、囁く声。

 誰の声。それは、愛華の。

「ママね、言ってたよ」

愛華の声。舌足らずな、幼い声。何故。愛華は優斗のひとつ年上の。

「全部知ってたって」

 違う。違う、違う。

 。綾子との間にできた子供は、優斗だけ。ずっと、3人家族だった。子供部屋のひとつも、ずっと物置として使っていた。

「だってあたしが、教えてあげたから」

 少女が言う。武田が写真でしか知らない、幼い綾子に瓜二つの少女の姿をした何かが。

 お前は誰だ。

「あたしは愛華」

 違う。お前は誰だ。

「あたしは翠」

 お前は誰だ。

「あたしは美央」

 お前は誰だ。

「あたしは妃奈子」

 あたしは美穂。

 あたしは澄香。

 あたしは恵麻。

 あたしはすみれ。

 あたしは結衣。

 あたしは深雪……

 それら全ての名に、覚えがあった。

「お前は一体、誰なんだ」

「知らない。誰も名前なんて付けてくれなかったから」

 獣のような唸り声を上げて、武田が掴みかかった。

 床に押し倒して襟首を絞り、もう片方の手で何度も殴りつける。平手で、返す甲で。

 ばちん。

 ばちん。

 ばちん。

 その度に娘は泣きながら赦しを乞う。

 ごめんなさい。

 痛い。

 お父さん。

 やめて。

 パパ。

 殴らないで。

 あなた。

 何度も、何度も何度も何度も、殴る。いつしか頬は腫れあがり唇は捲れあがって、生まれたての赤子のように肉の盛り上がった顔が、言葉にならないうめき声を漏らす。

 ぶおう。

 ぶおう。

 ぶおう。

 その声が娘の口から漏れているのか、それとも自分の叫び声なのか、武田にはもう分らない。

 優斗が止めるでもなく胡乱な目でこちらを見ているのを、武田はどこか他人事のように知覚する。

 子は親の背を見て育つ。この、おれの背中を。

 武田ももう還暦間近で、随分と身体も衰えた。いつか武田との力の差が歴然となり優斗がそれに気付いた時、優斗は自分にもこうするだろう。

 それがおれにできる最後のことだ。教えてやれる、最後のことだ。

 武田は、その日を心待ちにすらしている自分に気づいた。

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キャッチボール 南沼 @Numa_ebi

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