第1章:西アジア、これも等しく大東亜
2020年5月18日
シリア
クネイトラ県
錆び付くフェンスで囲まれたクネイトラ空軍基地には満州国旗が掲げられていた。大東亜共栄圏の緊急展開軍として派遣された彼等はロシア軍とドイツ軍、イスラム武装勢力とシリア政府軍が陣取り合戦を繰り広げるこの地で人道支援の為の平和維持軍として駐屯している。
「1中隊、グラウンドに集合です!」
将校からの伝言を叫ぶ兵士の声を聞き、川上は煙草の火を半長靴の裏に押し付けて消した。予定では休養日であり、自由時間を過ごせる筈だった。喫煙所からグラウンドまでの200mを駆ける頭上を飛行第4戦隊の襲撃機が見下す様に飛び抜けて行く。砂塵を浴びながら集合位置に向かうと小隊長の黒羽は既に部隊を集めており、川上も何食わぬ顔で駆け込み列中に加わった。
「整頓、なおれ休め」
「えー、中隊長、間もなくいらっしゃいます」
先任の声を聴きながら安めの姿勢で待機する。戦闘服に戦闘帽、半長靴。休養日と言ってもこの恰好で過ごすしか無かった。体育服装は規則上認められているが、この地にわざわざ持ち込む者も居ない。規定より1着多く支給された戦闘服を着回し休養日に纏めて洗濯をする日課に於いて、グラウンドへの集合は良くない兆候だ。恐らく仕事だ。
「何か聞いてるか?」
「ロシアの傭兵が集結してるとか、多分その話しかと」
中隊の面々は各々噂話を囁いた。中にはスマートフォンでSNSを眺めて情報収集を勝手に行う将兵も居て、自身の運命を推測する足しにしていた。ロシアは複数の民間軍事企業を創設し、あくまで自国軍では無いという体裁での介入を続けている。卑怯者め、正々堂々軍人らしくしろと憤る彼等を満州国旗が祝福する。めいめい小声で話す中で、関東軍出身の中隊長が早歩きで隊伍の前へと現れた。先任は即座に気を付けを掛け、空軍基地全域に響く号令を見せる。
「中隊長に敬礼!」
「かしらーぁ、中!」
各小隊長の指揮により部隊での敬礼を行い、中隊長の答礼を受ける。捜索第12連隊で最も尊敬を集める中隊長である城田中佐は小柄で穏やかな細身の体躯と風格であるが、部隊の誰もが城田以上の中隊長など居ない事を理解していた。
「休め。休養日中申し訳ない、敵の活動が確認された。1中隊は戦闘前哨として敵の先遣部隊を阻止する。1400前進開始出来るが如く準備する様に」
将兵は黙って聞きながら武器搬出と装備着装の段取りを思案した。長々した訓示
らしい物は不要という性格で早々に城田は話しを切り上げる。前任者には無かった配慮だ。
「それでは各小隊、爾後の行動」
「爾後の行動に掛かります」
指揮官の敬礼で解散し、各小隊長はこれも手短に武器搬出、通信搬出と車輛準備の段取りを進める。建制順で武器搬出となり、川上は軍曹として兵卒を率いて武器搬出へと向かった。戦闘地帯だが、休養日は武器庫としている宿舎に南京錠付きで武器を預けている。脚を用い互い違いに詰めて並べられる89式小銃の用心金を通すチェーンから南京錠を外し、火器軍曹は帳簿片手に搬出を確認する。
「弾倉6本、そっちは1小隊だから勝手に持ってけ」
不愛想な火器軍曹が丸太の様な腕で兵卒を急かす。
「川上軍曹、通信搬出を任せる!」
「了解! 斎藤、木村、仁科は通信搬出、他の人間は装具準備!」
川上は24歳の若者だが、それ以前に彼は軍曹だ。示された者以外は個人装具を隊舎に取りに行き、川上は通信器材を受領しに向かう。単眼の暗視装置V8と携帯無線機だ、他小隊は熱映像装置のV9も搬出するが1小隊のそれは故障中だ。P24も不要とされ、折り畳みコンテナにぎっしり詰まったV8収納袋と小隊長、各班長分の携帯無線機を両肩に背負い搬出する。
「また俺が予備電池持ちかよ」
そう愚痴を溢す兵士を大柄な軍曹が胸倉を掴み持ち上げた。張り手だか掌底だか判断に苦しむ加撃を与え指導する。恐怖した謝罪を上回る速度で放たれる指導は一瞬見惚れる激しさだ。こうして育てられた世代であるが故に彼は、体罰に手加減が必要だと感じている。
「川上軍曹、弾帯です」
米軍のLC2に倣った弾帯サスペンダーを受け取り、川上はそれを手早く身に着ける。身体に丁度良く調整された古の装具は快適では無いが、結局ここに落ち着くのだ。大柄とは言えない川上は弾帯パッドで使えるベルトのコマ数を水増ししている。米軍規格のMOLLEを採用したベルトパッドは米軍が生み出したマルチカム迷彩柄で、世代が世代なら非国民装具と揶揄される代物だ。しかし川上にとって、使えれば何でも良い。太平洋の一定の軍縮により日米も融和ムードが漂う時勢だ。新兵が持って来た装具を身に着け、鉄帽も受け取る。内地に居た時は使用した都度消臭スプレーを吹いたものだが、今ではせいぜいが天日干しだ。久しくプレスしていない戦闘服はよく嗅げば悪臭を纏うが、ここで人と嗅ぎ合う事は無い。素面では。
「弾倉寄越せ……何番でも良いよ、早くしろ」
弾倉を若番順に渡そうとしまごつく後輩を急かして弾倉を受け取る。要領が悪い新兵だ。川上は誰が直上の先輩だったか思い起こしつつ、小銃の負い紐を首に掛ける。留め具をブラテで固定した官給品の3点式負い紐に不満は有ったが、私物を買ったところで壊せば支給されるのは官品だ。これが趣味なら幾らでも気に入った物を購入するのだが。小隊員はそれぞれ装備を整え、前進開始に備える。遊撃教育を受けた強面の軍曹達が兵士を指揮して車輛に荷物を積載する中で、川上は最後の用意を済ませに歩く。
「小便だ」
トイレは1中隊員で渋滞を起こしていた。シリア大統領の甥が勤務していたこの空軍基地には洋式水洗便器と小便器が全てのトイレに備えられている。しかし反面、軍務に女性が就く事を歓迎しない彼の性格により男子トイレしか存在しない。気休め程度に一番奥の個室に貼られた女性用という貼り紙に何の説得力も無い様子であるが、事実その個室だけは男性兵士でごった返す中でも空いていた。通るぞ、どけ ……そう言いながら押し進む声には覚えが有った。
「お疲れ様です」
一部の若い、年齢では無く序列下位の兵士が挨拶をし道を空ける中を彼女は歩み進む。半長靴が立てる足音に女性らしさは無く、ショートヘアが戦闘帽から姿を見せていなければ民間人には男性兵士と認識されても不思議ではない。それでも一切
化粧をしない彼女が可愛く、人によっては格好よく見えるその風貌は女性特有のものだ。童顔な川上が宴会芸で女装した時もここまで見れる風貌にはならなかった。
「良いよ挨拶は、どけ」
捜索第12連隊第2中隊に所属する彼女、福島彩香は斥候軍曹として勤務しており全隊員が注目する存在であった。男社会に馴染み、色恋沙汰で不祥事や事案を起こさず、何より強い。体力検定は常に一級を保ち、小柄な背丈では想像出来ない程度に背嚢等の重量物も運搬して見せる。彼女の様な模範的な、裏を返せば軍にとって便利な女性兵士が何人存在するだろうか。個室のドアを乱雑に閉め、躊躇う事無く女性特有の大きな放尿音を響かせる。本人は何とも気にしていない様子で、露骨に聞き耳を立てる兵士も居れば不快感を隠さない兵士も居る。川上は何食わぬ顔で平静そのもの、脈打ちながら静かに包皮の中から自己主張を試みる自分自身を下着に押し込む。
「川上軍曹。自分、もう死んでも良いっすわ」
「童貞は死なないらしいぞ、映画で言ってた」
大して仲良く接した記憶も無いのに妙に馴れ馴れしい後輩一等兵を励ましつつ、川上はパーク地区へと歩く。排泄音で鼻の下を伸ばすとは何事か、と指導出来る立場に無い自覚は有る。隊舎から出てパークに戻ると、まだ前進開始までは時間が有るのを良いことに軽装甲機動車の後部ハッチ横に備わる梯子でヒューマンフラッグに挑む同期を見た。上半身はアメリカ映画俳優よろしく逆三角形で、脱毛と日焼けの作用により独特の筋トレ趣味者らしさが香っている。横に長し、戦闘帽に収まれば短髪に見える規定スレスレの頭髪と明らかに規定違反のサングラスが許されているのは彼しか居ない。
「渋谷、今から筋トレしてどうするんだよ」
「あ? ヒューマンフラッグ出来れば女にモテるだろうが」
渋谷大輔軍曹、入隊してからの初級斥候過程でベッドバディとなって以来、この男が筋トレを欠かす事は無かった。泥酔したまま腕立て伏せをして吐瀉物に塗れた姿、体力検定前日に追い込み過ぎて検定不合格となり小隊軍曹から往復ビンタを賜った日、そして今から実戦だと言うのに一貫している様子に感心以外の感情は殆ど沸かない。後部ハッチから荷物を積もうとする兵卒がその様子を見て出直す姿を尻目に体力錬成も程ほどに、と当たり障りのない言葉を残して川上は喫煙所へと向かう。
「お疲れ様です」
「おっす」
スキンヘッドの軍曹に挨拶し、煙草を咥える。遊撃、格闘指導官、恐怖の徽章を胸に並べる彼は33歳にして暴力じみた風格を纏う屈強な軍曹だ。彫りが深い西洋人風の顔立ちに目深に被った戦闘帽、立ち姿は軍人というより暴力団員である彼は1中隊でも高名な根岸軍曹である。正に帝国陸軍の暴力の権化といった風体だが、川上は尊敬する上官の名に常に彼を挙げる。戦闘服で着痩せする気配の無い殺気と風格だ。
「ネギ、小隊長が呼んでるから行ってこい」
「うっす」
根岸をネギ呼ばわり出来るのは限られた古参の将校と下士官のみである。宴会芸のモノマネでネギ呼びして蹴り倒された後輩の姿が川上の脳裏にちらついた。根岸は吸い切った煙草を煙缶に捨て、急ぎ足で向かって行った。入れ替わりに喫煙所へ現れた住吉少尉に敬礼し、答礼を受ける。根岸より2年先輩だが、アホにこき使われるのは癪という理由で住吉は将校への道を選んだ。これもかつては営内で流血を伴う激烈指導をしていた古強者であり、結婚と少尉任官を機に多少丸くなったと言われる。
「あいつ相変わらずチンピラみてぇな見た目してるよな」
そう言う住吉も細眼鏡と精悍な顔付き、全く色気を出さない短髪のおかげで人相の悪さに拍車が掛かっているのだが。川上は煙草の煙を程々大気に吐き出し、それなりに相槌を打つ。あなたもヤクザみたいですよと言ったらどんな結果を招くか、噂では聞きかじっている。試す価値は無い。先端の灰を落とし、雑談を続けながら腕時計を一瞥し2本目の煙草に火を点ける。慌てて準備する割に待機時間が長い事が軍隊の長所だ。
「川上は、彼女は? 相変わらず童貞か」
2本目に火を点けた事を後悔しながら上手にはぐらかす努力をする。生まれ持って恋愛が苦手な川上は未使用新品梱包済みであり、その前途を多くの諸先輩から親しまれ、玩具にされている。
「一皮むけた男になれよ、物理的にも」
「あざっす、努力します……いや、起てば剥けますよ?」
それはそうと、と住吉は話を切り替えた。ドイツ帝国を首領とする欧州同盟の活動に関する注意であった。シリアに展開していると言われる彼等だが、今までその姿を見た記憶は無い。
「武装親衛隊の特殊部隊がダルアー県で確認された。目的は不明だが、うちの特殊が支援する自由シリア軍と交戦したらしい」
「迷惑な……ロシア人とテキトーに潰し合ってくれれば良いのに」
川上の言葉に頷きながら住吉は話を続けた。ドイツ帝国の武力部門である武装親衛隊は国防軍に任せられない任務を帯びており、徹底した情報の秘匿でその詳細を隠しシリアで活動している。白人至上主義により1960年代に決別したかつての同盟国は冷戦構造の中で生き抜いており、現在も各国で影響力確保に努めていた。川上は2本目の煙草を煙缶に捨て、住吉の話を純粋に聞いている。
「交戦規定ではドイツ軍との戦闘は自衛を除き禁止されているが、そんな事はやってから政治家が考えれば良い。敵対する奴はぶっ殺せ」
「了解」
川上は頷き自身の車輛へと向かった。WAPCこと96式装輪装甲車はこの砂漠でも故障せずよく動いている。後部の大型ハッチを下げ、レーションとヒートパックが入った段ボール箱や水缶を積載する後輩達に声を掛ける。既に汗が染みる戦闘服であり、彼らが密閉空間の車内でどの様な悪臭を放つかは知っていた。
「準備、良いか?」
「あと弾薬積めば終わりです」
89式小銃でも長く見える小柄で丸々とした上等兵がそう答えた。柔道耳の彼が帯びる丸みは脂肪に非ず、無反動砲手としての役職を任され1年になる。無反動砲弾のファイバーケースや機関銃の弾薬箱を山の様に積み込み、弾を食らったら終わりだなと笑い合う。前進開始までの短い時間は車輛の影で鉄帽を取り待機した。下ネタや猥談、性事情の話など多様な話題で盛り上がるひと時は不意に終わりを迎えた。各小隊長が指揮所から出て来る様子に、各人は鉄帽を被り武器を取る。諦めの時だ。
「乗車用意、乗車!」
黒羽の命令一下、小隊員はWAPCに乗り込む。最後に乗車した一等兵が車内のボタンを押し込み後部ハッチを閉める。小銃分隊長のハッチにWAPCの車長が乗り組む。この方が装甲帽と車載無線機を繋ぐカールコードの取り回しが良く楽だからだ。黒羽は車体の天板に座り込む事を好み、川上もこれに倣っていた。
「ヒトマル各車速度30、SM3。前進準備、良ければ報告」
「ヒトヨン良し」
「ヒトゴー」
「ヒトロク良し」
各車からの報告を受けながら、車内で待機する兵士達はこの時点で寝入る態勢に入っていた。黒羽は僚車の車長を目視し確認する。手信号で合図する者も居れば無線で報せる者も居るが、ともあれ黒羽は各車の前進準備完了を確認した。捜索連隊を増強する74式戦車の小隊も前進準備を進めており、甲高いディーゼルの音色が響く。ドイツ人ご自慢のレオパルト戦車になぞらえて砲身にはカタカナでレオパルトと書き込まれている。熱映像装置を搭載し後退ギアを2速まで備えたG型だが、そんな事は乗員かマニアにしか判らないだろう。
「サウス、前進準備完了」
小隊長が南山という苗字である事からサウスを呼称する戦車小隊、彼らが居るからシリア軍やロシア軍も迂闊に手を出さないのだろう。兵士がどんなに鍛えても、時速40㎞で走ることも105㎜砲弾を超音速で投げる事も出来ないのだ。戦車乗員と毛色は合わないが、彼ら無くして戦争は出来ない。川上は89式小銃を膝に乗せ、戦闘保護眼鏡を目に掛けた。
「死ぬのは御免だぞ」
川上はそう呟き、地平線と空際線に目をやる。両目とも視力1,5だが、彼はこの視力で女性下着やその内側を見たいと思いながらこの歳を迎えている。定年まで軍務に服すか悩むが、他に思い当たる職業も無い。帝国陸軍での訓練は日常生活の役には立たないのだから。既に同期や後輩、先輩の何人かは命を落としていた。戦死も居れば、飲酒運転での交通事故死も。最初こそ嫌だったが、今では軍隊以外に身の置き所は無い気がする。体罰も年々規制され、昔は過酷だった営内環境も戦地に比べればマシだろう。
「ヒトマル前進用意、前へ」
「ニーマル続行」
WAPCの力強くもどこか悲し気なエンジン音が開け放たれた上部ハッチから車内に響く。車内では89式小銃や軽機関銃を両足の間に立てた兵士らが睡眠時間の確保に務めている。砂塵を巻き上げて速度を増す車列に於いて、快適さだけが先頭車輛の取柄だ。黒羽は装甲帽の耳当て部分に有る小さなレバーを操作し車内通話と車輛間無線を切り替える。車内通話を入れたまま雑音を垂れ流す車長は嫌われるが、そこは小まめに確認して切っている。
「敵弾食らったら降りろよ!」
「了解! 三点支持で安全に下車します!」
川上の冗談に黒羽は満面の笑みで中指を立てる。川上は屈託ない笑顔を返しながら再び周囲の警戒に目を向け耳を傾けた。WAPCはイージス艦では無い。不整地での走行は尻が浮きそうになるが、慣れればそのまま座って居られるものだ。安全上の理由から規則で禁止されている車上への座り込みだが、現場では現場の理論が適用される。90mの車間距離を保って走行する車列は生き物の様だ。戦車小隊は縦隊で後続しており、分進点まではこの隊形の予定だ。
「魔の4922、よく平気で操縦出来るな」
「長い付き合いなんで」
黒羽の言う通り、原因不明のミッションオイル漏れに悩まされる車番25-4922を捜索第12連隊はそう呼んでいた。操縦手の伍長が何故ATF塗れにならないのかは、想像すればするほどオカルトの域である。
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