第122話 【12月31日】

 急きょ大阪で一泊。特に意図はない。ただ疲れていた。勿論ホテルは予約がいっぱいで、仕方なく長兄の関西事務所に泊らせてもらった。

 Jと再会した。その事実だけがボクの胸の中で浮遊する。見知らぬ土地の密閉された空気の中でボクはただ浮かんでくる思いを一つ一つ点呼していく。

 西へ向かう新幹線に改めて乗る。座れたのはラッキーだった。しかも窓際。すぐに相席の客が現れたが、特に気にすることはない。相手の男も熱心に雑誌を読んでいる。この人も故郷に帰るんだろうか?ここからなら岡山、広島、途中で乗り換えて山陰も考えられる。山陰か。Jと行った日本海の青が思い出される。そう云えば元恋人はどうしたろう?彼女には思いがけなくJとの仲介役をしてもらった形だが、彼女にとっては案外気晴らしになったかも。とにかく帰ったら一度連絡をしよう。

 漫画家のことも気になる。新作を描くと聞いたきり何の音沙汰もない。考えてみればボクと彼との関係も不思議なものだ。正直云って彼を恋愛の対象に考えたことは一度もない。むしろそういった実際的な関係を避けてきた。それは彼も同じだと思ってきたが、本当のところはどうなのだろう?

 さっきトイレに行ったとき鏡に映った自分の姿にちょっと驚いた。細くなっていた。この3ヶ月必死に、それこそひたむきに挑んできたのだから当然だが、やはり結果には心が動く。実際は目標の体重に一歩及ばなかった。体脂肪率もだ。しかし満足感はある。何より自分は変わることができたと思う。

 変わる?一体何が変わったのだろう?ボクは雑誌を読みふける三十路男の横で考える。プールで泳いでいる時、ボクは自分が本来の生き物としての姿を取り戻そうとしている錯覚に陥ることがあった。泳ぐことはきつい。しんどい。筋トレだって毎日毎日鬱陶しさを感じながらも、そこに楽しみを見出そうと自分なりに工夫しつつやってきた。それでも水に浸かって、体を動かし、毎日の仕事をこなしていると不意に根底から虚しさと不安が突き上げてくることがある。その過程でほんの束の間理屈や結果を超えた充足を感じることがあるのだ。ボクは「自分探しなんてクソ食らえ」という人間だ。日常の幸福がそんなもので解決できるとは考えもしないが、ボクらは普段地べたを徘徊しながらその道行きでふと感じるものがある。気づきと云ってもいい。

「空飛ぶ自警団」はどうなったのだろう?彼はもう飛ばないのだろうか?噺家の老人には悪いが彼が夜空を飛ぶ姿は決して悪くなかった。「一人だけズルい」と云う気もするが、彼が本当に志を秘めたヒーローだとしたらそれも許せる。ボクはこれからも夜空を跳ねる彼のシルエットを忘れることはないだろう。

 携帯が鳴っている。メールだ。Jかと思ったが、結局彼女とは電話番号を教えあっただけだった。見ると母親からだった。「何時ごろ着く?駅まで迎えに行くから」とあった。座席を離れデッキで返信を打つ。ああ、今年も終わるな。窓から見える見知らぬ町の風景を見ながら思った。劇的なことなんて特に何もなかった一年。いや、あったといえばあったのだろうが、気がつけばその特別なこともいつの間にか日常になっている。それが生活というものだろう。

 座席に戻ると隣の男は今度は女性雑誌のファッション欄を眺めている。一体何の仕事をしている人なのだろう?隣り合わせるのも一つの縁だ。もしかしたらボクの故郷のすぐ近くの人だったりして…。まさかそこまでの偶然、あるわけがないか。

次の瞬間ボクの目が釘付けになった。その男の人が読んでいる雑誌のページに。そこに写っていたのは自分だった。いつか仕事の昼休みに写された「読者モデル」の写真。でもあの雑誌はもうふた月近くも前のことだったはず。今更どうして?隣の男が明らかに不審な顔をしてボクの方を見ている。

「あれ?」

 まさか写真の主がボクと気づくなんてことはあるまい。でも…。

「…失礼ですけど。間違ってたらごめんなさい。もしかしてモリカワさん?」

 ボクは動転の連続で意識の水平を取り損ないそうになる。

「ええ、そうですけど」

「ああ、やっぱり。僕太田です。ほら、小、中と一緒だった」

 今度はボクが相手を見る番だった。太田?ええっと?頭の中で卒業文集の写真欄が高速でスライドしていき、その結果一つの顔に行き当たる。

「ああ、太田くん!」

 ボクは言った。確か小学校の4年頃に引っ越してきて家は文房具屋だった。当時ボクには毎週読みたい少女マンガ雑誌があったが、コンビニもない時代、彼の実家がその唯一の購入口だった。

「お母さん、元気?」ようやく緊張を解いたボクは昔の同級生に聞いた。

「うん、元気だよ。最近急に耳が遠くなったって言ってるけど、こっちが聞かれたくないことに限って良い耳してるよ」

 ボクは彼の母親の、その人慣れしきれない物腰を久々に思い出していた。

「森川さんも同窓会出るんでしょ」

 太田君から不意に振られてボクは言葉に詰まる。

「ああ、同窓会…」

「あれ、出ないの?小学校卒業以来でしょ。今回は特別に学校の教室借りてんだって」

 確か幹事は…。あのいじめっ子の木村君。

「そう云えば森川さんは今どこに住んでるの?東京?」

「ううん。ちょっと離れたところ」

「そう。僕は今、東京。もうだいぶなるな」

 彼も故郷は久しぶりなのか。浮き立つ気持ちがこちらにも伝わってくる。

「ホント、同窓会おいでよ。幹事には僕から連絡とってもいいからさ。今からでも大丈夫だよ」

 意外な気持ちがした。思えば小学校のボクの思い出は一連のいじめのイメージしかなく、人から優しくされたり、何か働きかけられたりした覚えがまったくない。

「うん。いいよ、いいよ。自分で連絡取るから」

「そっか」太田君はボクがそう言うとさっぱりと笑った。


 新幹線はそのうち終点に着き、ボクは太田君と別れ乗り換えが来るまで駅の構内をぶらぶらと歩く。大みそかの夕刻。誰しもが今日と明日の境を生きている。ボクは妙な気分に襲われる。

 元々自分は地球(ここ)とは違う別の星にいて今とは全く違う生活をしていたのではないか。そしてその記憶だけを持って今はこの日本(くに)で暮らしている…。そんな夢想をしていると何もかもが幻のように思えてくる。Jとの事も、そして自分のこれまでの事さえも…。この星ではさして良いことはないが、物事は巡り巡って然るべく収まるようにできている。そう考えると自分はずっとこの星の裏側ばかりに回り込んでいたのかも知れない。

 ふと気がつく。太田君が見ていた雑誌、まだ店頭に並んでいるのだろうか?書店を探してみた。あった。年末の特集号。ボクは読者モデルの年間OL部門の欄に映っていた。不思議な違和感がページから沸き上がる。これが自分なのか?なんだか可笑しくも哀しく、それでいて腑に落ちる感覚。まるで古いチャップリンの映画を見ているような気持ち。その写真のボクはまだダイエットを始めてちょうどふた月めあたり。2キロ少々やせてはいたが、まだ大柄な体に肉厚な印象が拭えていない感じ。雑誌の担当者はどうしてこんな写真を載せる気になったのだろう?

 でもやはり不思議と悪い気はしない。3ヶ月前の自分。そしてその姿を思いがけなく見ている今の自分。この4ヶ月間自分でもわけが分からぬまま、ただひたすらにダイエットをしてきた。きっかけはふと自分の体型を鏡で見た時のやりきれない無残な気持ちからだった。でも考えてみればボクはそのずっと前から自分を嫌い続けてきたのかも知れない。体型とかファッションなどではない、自分という素の存在を。

「自分は変わったか?」ボクはこの4ヶ月間ずっとそればかり考えてきた。もしかすると仕事よりも気持ちは優先していた。「自分は変わったか?」でもそれは実は違う質問だったのかもしれない。

「自分は今、どういう姿で生きているのか?」

 思えば生きるために変化する事を半強制的に求められる時代。でも気がついたら次々に課題ばかり与えられ、何を求め、どう生きたいのか、さっぱり分からなくなっている自分がいる。

 モラトリアムと銘打つほど大層なことではない。ただ感じていたい。そして考えていたい。自分のことを、世界のことを。ボクにはそうする責任と権利があると思うのだ。ただ一度きりの、自分の人生だから。


 故郷へ向かう快速列車。ボクは通勤の時とは違う心地良い揺れの中でふと来年のことが頭に浮かぶ。窓からは遠くまで田園風景が見える。多分ボクは来年もいろいろトラブルや出会いや厄介ごとを抱えて、それをどうにかこうにか乗り越えていくだろう。これまでもそれを当たり前のことのように考えてきたけれど、それはそれで満更な事でもないのかも知れない。そうやってボクらは成長していく。少しずつ。

小一時間してボクは見慣れた駅に着く。見慣れた駅も今は不思議と気恥ずかしさの混じった人息切れに浮かれているようだ。

「おーい」次兄の声がして、そっちの方を見ると果たしてそこに彼がいた。

「何だ、兄ちゃん。迎えに来てくれたん?」

「遅かったな」そう言う次兄が何だかいつもと違う人に見えた。それはきっとこざっぱりした髪型のせいだけではないだろう。

「ほら、うちの嫁」思いがけなく指差された先に、少し背の高い深い顔立ちの女性がいた。

「あ」

「初めまして。エマ・マルーンと云います」彼女はゆっくり近づいて来て厚着した上着からにっこりとボクに笑いかけた。

「はい。あの、兄の妹の千尋です」

「何だよ。『兄の妹の』って当たり前じゃん。変なの」次兄はボクの挨拶をからかった。

「変じゃないよ。あなたがいて、妹さんがいて、私もここにいるんだから」エマは言った。

「お、でた。エマの微妙に深い話」兄はまた笑った。「さ、行こうぜ。車は向こう」

ボクたちは車まで歩く。

「日本語、上手ですね」

「はい。いっぱい勉強しました。とっても難しかったけど、日本語には本当に美しい言葉が沢山ありますね。私好きです」

「こいつ俺より言葉知ってるんだよ。変だろ?」

「そうでもないよ。自分のことって意外と放ったらかしなんだよ」

「あなた良いこと言いますね。本当にそうですよ。でもだから私日本来てよかった。貴方にも会えたしね」

 次兄が自分のことを言われてわざとらしく口笛を吹いて流している。

「あれ、お前さ。ちょっと痩せた?」

「そう?」

「うん、なんか今日の服もいい感じじゃん」

「兄ちゃんは口だけは上手いからねえ」

 私がそう言うとエマが不思議そうな顔をしてこちらを見ている。

 ボクたちは車を走らせる。生きてることって不思議だ。何が起こるか本当に分からない。この先にもきっといろんなことが待っているだろう。

「今朝親父がエマと餅をついたんだ」

 次兄の言葉がボクにそれを語っている。  

 工事中の道で車が一度小さく軋んだ。次兄はギアを切り替えアクセルを吹かす。

「あんまりスピード、ダメよ」エマが言った。

「分かってるよ、ベイビー」

 車が心地良く加速する。家はもうすぐだ。

                                 ( 了 )

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『 軋み 』  桂英太郎 @0348

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