第121話 【12月30日】

 京都には時間通りに着いた。ボクは現代的な京都駅の様子に見入りながら、連絡を入れておいた最寄のビジネスホテルへと向かう。さすがに師走も押し迫ってのことで安い宿を探すのは少し手間取った。深夜なだけに不安はあったが、駅前通りから五分位歩いたところにそのホテルはあった。

 フロントでチェックインしてエレベーターに入ると急に一人ぼっちの気分になった。部屋に入って荷物と服を放り投げてベッドに横になる。目は醒めており明くる朝からのことが頭を過ぎる。

 何も連絡を取らずに京都までやってきたが、Jには直接会えるだろうか?その前に手紙の住所にJはいるのか?いや、そもそも会って自分は何をJに話せばいいのか?グラグラと心細さが込み上げてくる。

 起き上がってカーテンを開けると京都のビル街が見えた。さして東京と変わらない。でもここに『空飛ぶ自警団』はいないだろう。あの老人のため息が聞こえてくるようだ。

「空飛んでまで何やろうってんだ?」

 その言葉は今はまるで自分のことのように思われる。寒くなったのでシャワーを浴びて床に就いた。


 曇った空はかえってボクの心には慰めだった。遠近感のぼやけた、その京都の空をホテルの食堂から眺めていると「まあ、なるようにしかならないよ」とひとりでに言葉が零れてきた。

 Jの家(?)を探して京都の街へ分け入っていくうちに時折見るからに観光客という外国人を見つけて思わず会釈する。Jはこんなところで今、どんな暮らしをしているのだろう?期待でも不安でもない、不思議な感情を抱きつつ歩く。

 思いの外そこへは早く着いた。何だ、ボクがひとしきり思い描いてきた京都はここだったのか、と少々拍子抜けの気分になる。携帯で時間を見るとまだ午前10時前、あとは詳しい番地を辿っていくだけだ。

 最初に何て言おう?まさかお互い抱き合って即「号泣」は無しだろう。さて、どうしたものだか。考えながら歩いていると師走に相応しく忙しそうに通り過ぎる家族がいる。近くまで正月用の買い物に出かけるのか。そう云えば今年も実家の餅つきには間に合わなかった。「仕事」と言えば母親も特に何も言わないだろうが、おそらく今、実家では母が大仰な父や兄を相手に孤軍奮闘していることだろう。

「帰ろうかな」不意にそう思った。我ながら何やってるんだろうと思う。こんな初めての場所で、本当にいるかどうか分からない知人の行方を捜して右往左往している。 前を通り過ぎていった割烹着姿の中年女性が振り返ってこちらを見ている。きっと今のボクは周りからすると完全な異邦人状態だろう。


「傘、持ってきた?」

 その中年女性がそうボクに声をかけてきた時、ボクは思わず自分の後ろを振り向いた。相手は自分ではなく、後ろの誰かに向かって話していると思ったからだ。

「こっちこっち」相手は尚もボクに呼びかける。割烹着姿で、黒髪を贅沢に後ろに結った頭。それでも嫌味は感じられない品と生活感のバランスの取れた風情。ああ、京都だな。ボクはその人を見てそう思った。

「昼から降るよ。そういうところ昔とちっとも変わってないんだから」

 ボクの記憶のどこかで、同じようなことを誰かに言われたような気がする。ごく親しい誰かに。

「J?」

 ボクは喉の塊を吐き出すように言った。相手はそれに答える代わりににっこりと素朴な笑顔を見せて大きく頷いた。


「歩こうか」Jは突っ立ったままのボクにそう言うと先を歩き始めた。ボクはその後に続く。

「どうして分かったの?」

「どうしてだろうね。…多分、この頃あなたのことばかり思い出してるからじゃないかな」Jの豊かな髪が揺れている。「今日はゆっくりできるんでしょ」

「うん」ボクは自分の中で時間が逆流するのを感じた。

「家に寄ってお茶でもしない?どうせこれから雨になるし」

 ボクが答えに戸惑っていると、Jはやおら立ち止まりボクを振り返った。

「本当にお久しぶり。ご無沙汰でした」彼女はそう言うと深々と一礼した。そのことでボクは不覚にも自分の深い場所からの嗚咽を我慢することが出来なかった。

「先にあなたがどしゃ降りになってどうするの?」

 Jはまたさっさと前を歩き始めた。


 Jの家は奥狭まった住宅街の角にあった。正面は喫茶店のような様相で、ボクは少し戸惑いながらスロープの玄関から中に入った。

「今、ここで商売してるのよ」Jは言った。「京都呉服の生地を使った小物だったり、お茶の販売だったり、おまけに喫茶店も」

 そう云えば店の奥には車椅子の老女が一人お茶を啜っている。店の中はほのかに暗い。特に日本家屋を意識しているのでないだろうが、座っていると心がしんと下の方に降りていくのが分かる。

「そうか、Jがお店をね」ボクは言った。

「意外?」

「そうじゃないけど。でもやっぱりちょっと驚いた」

 ボクらは笑った。

「聞きたい事いろいろあるんでしょ」

 Jの目の奥に昔の輝きが覗われた。

「そりゃそうだよ。急に手紙送ってきたり、探偵みたいなことまで」

「探偵?」

「だって私のこと、どこかで見てたんでしょ」

「え?ちょっと待ってよ。私そんなに暇じゃないわよ」

「でも手紙には…」

「ああ、あれはMさんにあなたの事を聞いて想像で書いたの」

 Mはあの病気の、元恋人のことだ。

「何だ…」

「Mさん、ちょっとあなたのこと心配してたわよ。『何だか生き急いでるみたい』って」

 ボクはMの白い顔と強い目を思った。

「でもね、正直私は今までのこと、あなたにあれこれ釈明するつもりはないの」

「どういうこと?」

「だってそういうの嫌じゃない。今更何かを無理して取り戻そうとするみたいでさ。そうしようとすればするほど心は辛くなっていくんだもん。それにね、私たちにはしなくてはいけないことが別にちゃんとあるじゃない?」

「しなくちゃいけないこと?」

「そう。毎日の生活」

「生活」

 ボクは目の前のJに見入った。そしてあの頃二人でよくソファに寝転び、あれこれ思いつくまま話をして過ごした昼下がりを思った。

「そうだね。もうボクらもいい大人だもんね」

 ボクはこの空間が少し広々と感じられる。あまり人気の感じられない店の内部。そして年月を経て目の前に現れた友人J。

 古い柱時計が大きな音を立てて鳴り、後に波のような静けさが木霊する。どうしてだろう?ボクは考える。何が哀しいのだろう。何が切ないのだろう?

「そろそろお暇しようかな。ごめんね、急に押しかけてきて」

「そんなことないよ。うちは子どももいないし父親も去年亡くなったしね」

「お父さん、亡くなったの?」

「そう。あの家ももう処分したわ。父には一度会ったんだよね」

「うん。そうか、亡くなったんだ」

「じゃ、お参りしていってよ。小さい仏壇だけど。お父さん、なんでもコンパクトなものが好きでね。うちのお母さんとは正反対」

 Jの快活な笑顔が窓の外に振り続ける雨と重なった。

「そうさせてもらおうかな。本当にお久しぶりだけど」

 ボクはJに薦められるまま中に上がらせてもらう。そうすることで何だか自分の気持ちにケリが付けられそうに思える。意外にもつつましい間取りの奥にJの言った通りの小ぶりの仏壇があり、その中に記憶の面影ある写真がにっこりと笑っていた。

「順風満帆な人生ってわけじゃなかった人だけど、笑った顔だけはハッとするものがある人だったわね」

 本当にそうだ。10数年を経てボクはその笑顔に再会した。合掌。ボクはこの人に何かを深く感謝する。その時背後で気配がして振り返ると、先ほどの老婆が中に上がりこもうとしていた。

「あれ、いいの?」ボクはJに訊く。

「良いも何も、うちのお母さんだから」

 ボクの目はその老婆に釘付けになった。確かに多少その瞳は緩んでいるもののその人は間違いなくJと通じた芯を感じさせた。

「Jちゃんのお友だちなん?お菓子出したろか。ゆっくりしてき」

「ああ、お母ちゃん。そうや。遠いところから来てくれた友達なんや。お母ちゃんも仲良くしたってな」

 Jがそう言うと母親はにっこり笑って娘の頭を掌で撫でた。

「そうか、そうか。お母ちゃんに任せとき。なぁんでも美味しいものこさえたげるか らな」

 そう言うとまた店先の方に杖をつきながら歩いていった。

「いいの?」

「大丈夫。もうだいぶ呆けて普通のオカンになってる。昔のことが嘘みたいに」

「どうして一緒に住むことにしたの?嫌いだったんでしょ。お母さんのこと」

「そうね。云われてみればそうかも。でも本当は私自身の問題だったのかも」

 Jは近くにおいてあったショートピースにマッチの火を点けた。

「父に聞いたかもしれないけど、私はこう見えてお母さん子だったのよね。物心ついた時からハチャメチャやってたお母さんが何故か憎めなくて、いろいろ家庭的な修羅場はあったけど結局私のお母さんはあの人だけだったから」

「そうだったんだ」

「でもね。そういつまでも上手くいくわけないんだよね。ある時お母さんは男と逃げた。私とお父さんはびっくりしたけど、どこかホッとした気持ちだったわ。多分二人とも疲れてたのね。心底お母さんと一緒に暮らしていく事に。お父さんは私のことを不憫がったけど、私にとってはむしろ人生で一番平穏な時間だったわ。何事もなく、っていうのは正にあんな事を云うんじゃないかな」

 Jの指先から白い煙が立ち上がっては消えていった。

「それから8年してお母さんが見つかったの。この京都でね。でも二人で駆けつけたとき、お母さんは別の人になってた。何もかも忘れて知らない人になってたの。医者は言ったわ。『何か考えるのも嫌なことがあって、自分で記憶を選り分けてしまったんでしょう』って。私は高3だったけど、何かとてもその事に大人の狡さを感じた。冗談じゃないって思ったもん。だって本当にいろいろあったけど私たちは親子でやってきたんだもん。たとえ一緒に暮らしてなくても。うちのお父さんも変わった人でね、時々言うのよ。『お母さん、今頃どこをほっつき歩いてるんだろう』ってね。そう今の私みたいに煙草をくねらせながら、何だかとっても懐かしそうな顔をしてね。本当のお母さんがそのうちひょっこり帰ってくるとでも思ってたのかしら」

 ボクは仏壇に収まっている写真の顔を見た。本当にいい笑顔だ。

「さてと。どうする?本当に泊まってかないの?」

「いや、そんな時間はないんだ。ボクも家に帰らないと」

「そう、明日は大晦日だもんね。チヒロのご両親はお元気?あ、そう云えば一度だけ…」

「お父さんも元気だよ。年はそれなりに取ったけどね」

「それはなにより。人間生きてれば苦しいこともあるけど、それが救われるのも生きてるうちだもんね」Jの顔に年相応の皺が浮き上がってきた。ボクはそれに応えるように頷いた。


 駅まで送ってくれると言うJに断ってボクは家の前で別れた。店の奥には彼女の母親がちんまりと座って、飾ってある植物に手を這わせていた。

「今度会ったらいろんな話をしようって思ってたけど、いざそうなると言葉って出てこないもんだね」Jは言った。

「カラオケみたいじゃん」ボクは笑った。

「カラオケ?カラオケってそうなの?私行ったことないからなあ」Jは悔しそうな顔をする。

「じゃ、今度一緒に行こうよ。カラオケ。お母さんも連れてさ」

「いいね。そう云えばあの人歌上手いんだよ。学生時代に声張り上げて動き回ってたから、一度マイク握ったら離さないかもよ」

「ハハハ」ボクたちは笑った。

「でもさ、人間病気になるってことが救いになることもあるんだよね」J。

「どういうこと?」

「人って病気になることを恐れるじゃない?当たり前のことだけど。でも自分の母親を見てると病気もあながち悪くないなあって思う事があるんだ」

「そう」

「ほら、あの頃。私たちが一緒にいた頃、私達まるで世間から距離を置くように気ままに生きてたじゃない?周りから白い目で見られたこともあったけど。でも今はね、あの頃のことがとても懐かしく思えるの。『良かったなぁ』って。どうしてなんだろうね?」

 ボクにはそれに応える言葉がなかった。

「そうしてるうちに急にあなたにもう一度会いたくなったんだ。迷惑かもしれないけど、まだまだ私達生きていかなくちゃいけないから」

 Jの目は真っ直ぐボクを見ていた。

「二人ともすっかり変わってしまったけど、でもいいんだよね、これで」

「たぶんね」ボクは言った。「そのうちまたいろいろあって、皺も増えて。そのときはボクたちどうしてるんだろう?」

「ピンクレディーのUFOだけは踊れるようにしとかなきゃ」

「それ絶対ね」

 雨は小降りになっていた。帰るなら今だと思った。ボクは不意に背中を見せて歩き出した。3メートル歩いたところで半分振り返って「さよなら」と手を上げた。それが何のための合図なのかボクにも分からなかった。Jは微笑んで小さく返したようだった。彼女が京都の町並みに吸い込まれていく。さよならJ。さよなら、何か。ボクはいろんなものを脱ぎ捨てて前を歩いていかなければならない。たとえあざとくとも、卑劣でも、それがボクら生きていく者の定めだから。そして時々こうして雨の中で泣けばいい。きっとそれは許される。ボクの脳裏に一瞬、Jの母親、そして父親の笑顔が浮かんで消えた。そうしてボクは京都を後にした。


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