第120話 【12月29日】

 一年の仕事が終わった。上司に言われるまでもなく本当に今年もあっと言う間だった。忘年会は一次会で切り上げて、コインロッカーに預けておいた荷物を持って東京駅から寝台列車に乗る。久々の東京駅はなんだか新年を待つ人たちでホクホクした雰囲気。ボクはその人たちから少しだけ離れて時折寒風が吹きつけるホームで線路の向こうを眺める。

 実家には帰り着くのは大晦日になると電話しておいた。思いがけなく次兄が出てそう言うと「分かった」とそっけなく答えた。それから「駅に着いたら電話しろ。車で迎えに行くから」と言って勝手に「じゃあな」と切ってしまった。本当に変わった兄貴だ。

 京都には午前3時前に着くらしい。ボクはJからの手紙の封筒を何度も眺めて、その裏にメモしておいたJの住所を確かめた。

「何だか癪だけどね」それを教えてくれるとき元恋人は言った。それでもJはボクに会いに来た。わざわざ人にボクの居場所を尋ね歩いて。

 列車の発着と共に人の流れが動いていく。ボクは彼女がいなくなった、あの日の午後のことを思う。


 ボクが大学から戻ってくるとJの家の前に背広姿の中年のおじさんがいた。

「何か、御用ですか?」ボクが尋ねると、相手は痩せた体型からは意外な低く落ちついた声で

「J子の父親です」と言った。

「あの、J子さんは今いませんけど」ボクが言うと、

「知ってます」おじさんの声には不思議な確かさがあった。「娘と電話で話して…」

「そうですか」ボクはそこで初めて自分が置かれた不自然な立場に気がついた。

「あの私は…」

「チヒロさんでしょ。貴女のことも娘から聞いてます。よくしてもらっているとか」

「いえ、そんな」

「今日は貴女にお伝えしたいことがあってきました」

「私に?」

 おじさん、いや、Jの父親は小さく頷いた。

「J子はもうここには帰ってきません。貴女には本当に申し訳ないことですが、どうか娘の、いや、私達の我が侭を許してほしいのです」

 他所の人がこの状況を見たら一体何て思うのだろう?ボクは晴れた午後の不自然極まりないひと時をこれ以上ないほど持て余していた。近頃Jの家に住み着いた鳩の喉笛が尚一層ボクの気持ちをけらけらと笑っているようにも聞こえた。


 Jの父親がそれから家の中で話してくれたことは、そのどれもがボクの前からあった予感めいたものにいちいち当てはまっていた。Jの母親のこと。その母親の奔放さ。そしてそれに翻弄される父親とまだ幼かったJの子ども時代。そしてその母親が突然家を飛び出し、行方不明だった十年余り。

 父親の口から語られるそれらのエピソードのひとつひとつがボクにはまるで童話の一場面一場面のように妙に懐かしく、そしてこの上なく奇妙に感じられた。しかしそれはまぎれもなく現実のことだった。ボクの心はそのことに震えていた。

「妻が見つかったのは京都の病院でした。行き倒れていたのを担ぎ込まれて。J子はその時高校の2年生で。もちろん京都まで二人で会いに行きました。でもそこでJ子はこれまでにない位ショックを受けてしまったんです。その母親の姿に」

「Jが…」ボクは普段何事をも風のように我が身に吹き通していくJのことを思った。

「妻は、私が言うのもおかしいんですが、母親としては最低の女でした。私と普通の結婚生活をしたのもほんの数年足らずで、あとは良く言えば自由奔放、はっきり言えば気持ち任せの人生でした。でもそれでもJ子にとっては紛れもなく母親でした。だから十年近く行方不明だった母親のことも悪く言う事は決してありませんでした。あの時までは」

 ソファに座ったJの父親は前屈みになって必死に何かを手繰り寄せているかのように思えた。

「十年ぶりに会った母親はJ子が知ってる人間ではありませんでした。あの自分のことしか考えない、あれ以上ないというほど身勝手な女はいつの間にか綺麗さっぱりいなくなっていたんです」

「何が、あったんです?」

「分かりません。ただ私達が医者から聞かされたのは、妻が重度の痴呆症に罹っているということでした」

「アルツハイマー、ですか?」

「今はそう云うんですかね。でも私達、いやJ子にはそれは母親ではなく、かつて母親であったものの抜け殻でしかなかったんです」

 抜け殻。ボクは不意にソファで寝転ぶJの細い身体を思い出した。

「私はJ子に『お母さんと一緒に暮らそう』と提案しました。でもJ子はそれまでと違って首を縦にはふりませんでした。決してね。それで私だけ京都に行くことになったんです」

「それで、今お母さんは?」

「京都にいます。あれから十年、彼女はもう私達のことはおろか自分のことさえあらかた忘れてしまいました。実は先日一度倒れましてね。長年世話になってる医者から言われたんですよ。『もうそろそろいいんじゃないか』って」

 父親は断って煙草に火を点けた。「これも十年ぶりです」と彼は人懐っこく笑った。


 別れ際Jの父親はボクに一度深々と頭を下げた。ボクは何と返していいか分からず、ただ黙って彼を見ているしかなかった。何故か自分の父親の姿がかぶった。

「J子はしばらくここには戻ってこないと思います。彼女もだいぶ迷ったと思います。結局は貴女とのことをないがしろにしたのかも知れません」

 ボクはそうじゃないと思った。いや、その瞬間そう思いたくなかったのかも知れない。でもJの父親の顔を見ているとその言葉を口にすることはできなかった。ボクの青春の昼下がりはそれで終わった。


 夜行列車は闇と光の粒の間をガタゴトと進む。ボクは周りの数人の乗客の気配に気を遣いながら、いつの間にか短い眠りについた。

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