龍の都β

 あかがね色の炎の中で、緑と茶の小さな卵がふっと割れて、薄紫の蜥蜴が這い出した。炎龍サラマンドラだ。その小さな生き物が、きょろきょろしつつもたしかな足取りで火の中を歩み出したとき、少年は火掻き棒を手にして、龍を傷付けないよう慎重に、卵の殻を掻き出し、しっかりと箱に収めた。

 竈の中へ再び一瞥をくれたのち、少年は箱を抱えて家を飛び出す。向かった先は、都の外れの聖堂である。

 王の肖像の飾られた入口をくぐると、一人の官吏が座っていた。青い衣を纏い、退屈げに机を指で叩いている。少年が箱から殻を取り出して渡すと、官吏はそれを傍らの炉に投げ入れた。殻は火の中を通り、燃えることなく下の受け皿へと落ちた。

 殻が本物であることを確かめると、官吏は殻を丁寧に箱に収め、少年の携えてきた鑑札を見て台帳に記入した。そうして退屈げに菓子を勧めた。サラマンドラの卵の殻を納めると税金が幾らか免除されるだけでなく、使いの子供は貴重な菓子を一つ貰える。子供たちが使いの役目を引き受けたがるのはそれゆえであった。


 ありとあらゆる色をつないで、その一つの色の単位があまりに小さいために絶え間なく輝いて見える壁が、半球を描いて天へ伸び、城の後ろ半分を覆っていた。石の壁の上に、サラマンドラの卵の殻と脱皮後の抜け殻を火で打ってうすくのばして貼った穹窿だが、まだ半分しか完成していない。国中から集めても、サラマンドラの数がどれほど多いといっても、羽虫か人間のようにどこにでもいくらでもいるわけではなく、その上城の巨大さに対して一匹のサラマンドラはあまりに小さかった。

 それぞれのサラマンドラのそれぞれの色を湛えて、蛋白石のようなその穹窿は、城を戦火から守るためのもので、何代もの王の治世を経てようやく半ばまで成ったところであった。


 水が地中に染みわたり、川となって現れるように、水が火に飛ばされて空気中に散らばり、金属に結露するように、火もまた常に空気中を漂って、薪や蠟燭の上に集うのである。薪が火に侵食されて朽ちれば、堰き止められていた火はまた目に見えない粒となって空気中に漂い、火が水に押さえ込まれれば、地中にもぐってゆっくりと巡っていく。

 地中に生きる虫があり水中に生きる魚があるように、火中にはサラマンドラが住み火中に咲く花を食べて生きる。空中のものとわずかばかりの水中のものしか知らぬ人間がただ火の花と呼んでいるそれが、幾種類もあるものなのか、火そのもののように定めないかたちをした一種類のものなのかは知られていない。その花には人間の魂を奪うような美しさがあった。少年はほれぼれとそれを眺めていた。

 ここ数日サラマンドラは、火の花も食わず、身動きすらほとんどしなかったので、少年は心配して父親に尋ねたのだが、問題ないと父親は答えた。もうすぐ脱皮すると言うのである。それでまた見ているとほどなくして、薄紫の皮を脱ぎ、もっとどこか燃え立つような色を隠した薄紫の蜥蜴が這い出した。息を止めてそれを見ていた少年は、息を止めて火の中から抜け殻を掻き出した。

 本当はその抜け殻を取っておきたかったのだが、自分の家の火にサラマンドラが生まれたことが、父にとってもどれほど幸運なことであるかは理解していた。だから大事に聖堂に持っていき、貰った菓子でいま心を慰めているのである。


 遅い、と王は大臣に怒鳴った。こうも遅くては意味がない。何のためにはるか昔から建設されていたというのだ。穹窿は三年以内に完成させなければならない。

 豪奢な着物を纏い、ぎらつく眼で虚空を見据えて、王は怒り狂っていた。

 大臣は深々と頭を下げて聞いている。王の姿も、室内の調度品も、壁に飾られた数々の武器も、その視界には入らない。

 三年以内だ。分かったか。怒鳴りつけられて、大臣はただ深く礼をした。


 サラマンドラは神様だから、自分の家の火にお生まれになったらそのことに深く感謝して、健やかなご成長そ願い、そのために出来うる限りのお世話をして、その火を発たれるときには良い旅を祈ってお見送りしなければならない。

 子供たちはそう言い聞かされて育ち、自身も幼い子に言って聞かせる。

 薪が足りなかったりして火が空中に散ってしまえば、サラマンドラは水溜りが乾上がった後の魚のように死んでしまう。薪が足りているか、火の花が食い尽くされていないかと確かめる役目は、少年がみずから望んで引き受け、立派にその責を果たしている。とはいえ少年だけに任せておけず、父親もひそかに見守っていたのだが。

 少年にとって、おのれの家の火にサラマンドラが生まれるのははじめてのことだった。

 火の中に小さな空色の卵が生まれたことがある。幼かった少年は、小さな龍の仔が生まれるのをずっと楽しみにしていた。

 しかしサラマンドラは、一週間経っても、二週間経っても生まれなかった。いつの間にやらその卵は死んでいた。

 火の前でぼろぼろ涙を流した記憶を、少年はまだおぼろげに持っている。父親はその時のことをあまり語らない。

 時を隔てずに生まれるはずだった赤子を母親は流産し、母親もやがて二人の前から去った。その時から二人は、二人だ。


 遅い、と大臣は鍛冶師に怒鳴った。

 美しい火花が散り、殻はうすくのばされて幾つもつなげられる。ひとつひとつ異なる卵の色は決して混ざり合わずに、眼に痛いほど煌めいた。火にかけるほど殻は強くなる。サラマンドラの卵も鱗も、決して燃えることがない。

 そんなことを言われたって、と鍛冶師は答える。遅いのは俺たちのせいじゃない。どんなに速くやったって、殻や皮の方が間に合わんでしょう。そっちが少な過ぎるんです。

 黙れ黙れ、仕事の遅い鍛冶師めが、何を口答えする。反論が見つからずにただ声を荒らげて、大臣は鍛冶場を出ていった。官吏を叱りつけに行かねばならない。

 うす青く暮れていこうとする空に、きらきらと数え切れぬ色を鏤め、割れた巨大な卵のような穹窿が浮かび上がる。卵の中には、しみひとつないま白な塔。


 サラマンドラが二度目の脱皮をした。色は更に美しく、身体は一回り大きく。

 脱皮を繰り返してやがて掌ほどの大きさになり、繭を作って出てきたときには背中に翅が生えている。その翅で、夏のまんなか、神昇みあがり祭の日、天から蜂蜜色の光が束になって降りて来る日に、光の中を泳いで太陽まで翔んでいくのだ。

 その日が楽しみでもあり、寂しくもあったが、神様を独り占めしようなどと考えてはならない。

 太陽に還ったサラマンドラは、そこで卵を産み、卵は風に乗って降りてきて、火の中に落ち着くのだ。

 どうか来年も、と少年は願う。


 龍から採れる皮が少ないのは、それはどうとでもなることです、と大臣の娘は言った。臣民や太陽に任せておくのではなく、何匹か召し上げて、城で育てるのです。城に大きな竈を作って、その中で大きく、大きくお育てなさい。

 大臣はいたく喜んで国王に報告した。やってみろと王は言い、大臣は城に大きな竈をつくらせて、臣民から六匹の龍を買い取った。

 鍛冶場では鍛冶師たちが武器を作っている。


 サラマンドラの尾に小さな棘が生えてきた。青い棘だった。

 綺麗な火の花を沢山食べて、三度目の脱皮を迎えた。あと一度脱皮をして、繭を作れば、成龍になる。

 少年は神昇祭が好きだ。音もなく飛び立つサラマンドラたち。見上げれば紅や銀や藍色の小さな点となって、無数のサラマンドラが太陽へと昇っていくのが見える。

 あるとき近所にサラマンドラが生まれた家があって、檸檬色の体に翅は草色だった。その龍が翅をぱたぱたさせて翔んでいくのを、少年はいつまでも見ていた。

 菓子を食べ、橙色の灯をともし、古い歌と物語の夜になる。

 何色の翅が生えるだろう。大きい翅か、小さい翅か。いずれ産むはずの卵は何色をしているのだろう。


 広々とした竈の火の中で、火の花を恣に喰らい、サラマンドラは普通より一回り大きく育っていた。

 城に近い森の樹が伐られて、毎日竈に運ばれてくる。

 一匹だけ、病気か何かで死んだ。その鱗は穹窿の材料となった。

 今は五匹である。桜色のものと、灰色のものと、狐色と、深緑と、あかね色。

 鍛冶場では鍛冶師たちが鎖を作っている。


 少年は寂しさの混じった気持ちで竈を覗き込んだ。四度目の脱皮を済ませたサラマンドラの体色は、以前よりやや濃い、青を帯びた紫になっていた。生まれたての頃に比べればだいぶ大きくなり、火が小さすぎるのか、丸くなって眠っている。赤や黄金きん色やうす青の不思議な形の花びらが、ふわふわとサラマンドラにふれた。ぱたりぱたりと、尾が上下した。

 その姿に少年は満足する。

 もうすぐ行ってしまうことはわかっている。それでもここまで無事に、これほど大きく綺麗に育ってくれたことが嬉しいのだ。

 やがてサラマンドラは、火の中に白い繭をつくり始める。繭を張られた火は、不思議で奇妙で、繭は火が揺れるたびにゆらゆらと揺れた。


 もうすぐ神昇祭だ。龍が太陽に帰ってしまうな。

 大臣の娘はしばし沈黙して、ふと口を開く。

 帰さなければいいんですのに。

 何だって。

 あんなに大きくなったものを、黙って帰してしまっては惜しくありませんか。四度目の脱皮を済ませた今こそ、一番大きな皮が採れるはずでしょう。

 ……確かにな。

 半分。半分だけ帰せばいいんです。残りの半分は、殺して皮を採りましょう。


 そろそろサラマンドラが繭を破り、翅をつけて出てくる頃だろう。そう思って少年は帰路を急いだ。

 翅は何色だろう。青だろうか。白だろうか。緑かもしれない。

 サラマンドラが出てきたら、真っ先にその姿が見たかった。できるなら出てくるその瞬間を見たかった。

 胸躍らせて道を駆け抜け、息を切らせて帰宅する。

 しかし火の中に繭はなかった。サラマンドラもいなかった。

 父さん、サラマンドラはどこ。もう出てきたの。どこへ行ったの。

 父親が黙って差し出したのはひと切れの菓子だった。

 理解するのに時間がかかった。

 翅は何色だった、とだけ聞いた。銀色、と父親は答える。

 一人きりで火の前にうずくまり、ぼろぼろと銀色をこぼした。ずっと昔、同じ場所で同じように泣いていた記憶が重なった。今がいつなのか、何を失ったのか、母親が生きているのか死んでいるのか、父親が生きているのか死んでいるのかさえもわからずただ泣いていた。


 火の中に鉄の輪を置いて、サラマンドラがそれをくぐったときに紐を引いて輪を締める。輪からは細い鎖が伸び、鎖の端は壁に留められている。そうやってサラマンドラを竈の中に繋いだ。神昇の日は間もなく、竈の扉を閉じていても、通風孔から出ていくことができるからだ。

 苦しそうにサラマンドラは飛び回った。やがて神昇の日が来た。


 あれほど楽しみにしていた神昇の日を、少年は家に籠もって過ごした。

 しかしその年、祭りの熱気は乏しく、少しばかりの菓子が配られただけであった。空にも例年の半分しか龍は飛ばず、暑い日だというのにどこか寂しく、虚ろだった。

 誰も浮き立った気分にはならなかった。


 鎖に繋がれた龍たちは竈の中で、通風孔の外に出ようと必死にもがいていた。一日中、力の限りに足掻き、そして息を引き取った。そのからだは、空を飛ぶことのなかった他の龍たちと同じ行方を辿った。

 緑柱石の色の龍だけが、空を舞うのを諦め、竈の隅で静かに繋がれたままになっていた。水色の翅は大人しく畳まれていた。

 広い広い竈にたった一匹残され、小さな龍は沢山の火の花を食べた。広い広い竈に、火の花は沢山生えていた。そうして龍は大きく育った。


 冬が過ぎ、どことなく肌寒い春が来た。雪はなかなか解けず、水不足が続いた。火の中に産み付けられた卵の数はいつもより少なかった。

 少年はあれきり、龍のことなど忘れたように過ごしていた。父親は何も語らず、少年も一言も口にしない。

 春は過ぎたが夏は来なかった。いつまで経っても気温は上がらず、やがて神昇の日が来た。

 しかしサラマンドラたちは昇っていかなかった。太陽の熱が足りなかったのだ。液状の火のようなとろりとした空気の中を泳いでいくことが今年はできず、ただ陸に上がってしまった魚のようにぱたぱたと苦しがって羽ばたいて、しかし竈に戻ろうとはしなかった。

 一生懸命、火のない空気の中をのたうち回るように、サラマンドラはそれでも太陽を目指して、そして一匹も辿り着かずに死んだ。

 そのおぞましい光景を人々は皆眺めていた。少年も、低い空のどこかで色鮮やかな龍たちが這い回り、やがていずれも落ちてゆくのを、霧がかかったようなぼんやりした気持ちでじっと見ていた。

 部屋の中に閉じ籠もり眼を閉じてやり過ごせるものでもなく、少年はあてもなく街を歩き始める。

 力尽きたサラマンドラの骸を官吏たちが集めていることは知っていた。だから少年は、路に一匹のサラマンドラが落ちているのを見ても、ただそのまま通り過ぎようとしていたのだった。

 その足を、何かが止めた。

 薄紫の龍だった。もっと色は淡く、からだも小さかったけれど、薄紫で翅は淡い銀色なのだった。

 少年はきょろきょろとあたりを見回す。誰もいないことを確かめると、さっとサラマンドラを拾い上げた。

 胸の前に両手で包み込んで、覆い隠すように、そして少年は走り出す。家に向かって。竈に入れてやるつもりだった。

 サラマンドラに触れたことなどそれまでなかった。火のように熱くて、凍りついた少年を溶かし出すようで、それが火のない空気の中で細く消えかけていて、細く、細く、細く、——

 消えた。

 その最後の熱が引き潮のように消えていく最後の瞬間を、少年は冷たくなった掌で悟った。もう走れず路上にへたり込む。全身から何もかもが抜けていく。心臓が独りで何かに怒るように鳴った。さっきまで鼓動を分かち合っていた心臓はもう鳴らない。

 結局この翅も空を飛ばなかった、ほとんど。太陽に見捨てられたように、それでも太陽を恋い慕って、苦しむことを飛んだと言えるのならば——。

 両手を開いて、ひとつの骸を路上に捨てた。少年を再び霧が覆った。


 サラマンドラは異様なほどに大きく育った。人の前腕ほどの大きさになり、子供の腕ほどになり、その夏には人間ほどの大きさになった。神昇の日には再び鎖に繋がれたが、外に出ようとする素振りもなかった。

 同じほど大きなものをもっと作ろうとして、王は小さな龍をもう一匹竈にいれさせたが、いつの間にかそれは死んでしまった。彼らはその試みを諦め、一匹のサラマンドラが彼らの期待を一身に負うこととなった。


 収穫は乏しく、寒さは厳しく、病の流行った秋だった。近隣の人々の幾人かはもういない。

 少年の父親も病に倒れ、脚がもう使えない。

 働けなくなった父親の代わりに、その役目は少年が担うようになり、幾つかの仕事を転々とした。

 都の近くの森の樹がみな伐り倒されて城へ運ばれていった。美しかった森を殺すのに少年も手を貸し、その日の糧を得た。

 やがて少年は、高い報酬が約束された唯一の職に就き、日々訓練に明け暮れるようになる。

 そうして冬になり、春になった。春になったがサラマンドラの卵はどこにも生まれなかった。

 

 サラマンドラはもう人間よりはるかに大きくなっていた。広い竈もすでに狭く、火の花は足りなくなってきていた。

 くれないの炎の中に、翡翠色がきらきらと輝いている。冷たい火の中に飽いてしまったあわれな生き物。うす青い火の花を貪ることしかできない。

 たった二年で、これほど大きくなるとはな。

 王はほれぼれと呟いた。

 しかしこれではまだ足りぬぞ。来年までに間に合わぬ。なぜか知らぬが今年はサラマンドラが全く生まれなかったというではないか。

 いえ、しかしこの龍は、火の花を食べれば食べるほど大きくなります。

 ほう、そうか。

 人間より何倍も大きな龍に魅入られたように、王は答える。

 しかし、と竈の番人が言った。

 この竈は少し狭くなってきたようです。火の花が足りません。

 では広げろ、と大臣は言った。

 しかし樹をもう随分伐ってしまいました。樹が足りません。

 よそから買えばよい。

 いや、それには及ばぬ。

 ゆっくりと王は言う。

 都に火を放て。


 都が炎上した。都のはずれに立っていた家も焼けた。その家から逃げ出せたのは、少年一人。


 サラマンドラが放たれる。炎と化していく都を、海のようにゆれる火の花を、照り輝く翠の龍を、王は満足したように微笑んで眺めていた。炎がはぜ、王の顔が赤く照らされて、まるで狂気のように、いな、もうすでに。

 都が赤い海に沈んでしまったようだ、と大臣は思った。透き通る紅玉の底に、ぼんやりと青い藻の揺れるのが見える、得体の知れぬ大きな影がゆらめきながら移動するのが見える……。

 その紅玉の海を上から眺めている自分は何なのだろう、と大臣は思った。

 翠の龍は都を飛び回り、火の花を喰らう。炎に包まれてその緑を失い、ゆっくりと倒れてゆく木々と、見る見るうちに伸び、木ほどの高さになる火の花と。木ほどもある花を沢山食べて、龍は大きく、大きくなった。

 都は七日間燃え続けた。食べても食べても火の花は生えてくる。その花が落とす種まで龍は喰い尽くした。何もかも根こそぎ喰われ、火の中に火の花は生えなくなった。

 翠の龍は大きくなった。火の花を喰い尽くしてその頭を上げたとき、龍は城よりも大きく、月までも喰らうことができそうに高く聳え立っていた。

 あまりに大きくなりすぎて、龍は空を飛べなくなり、そして倒れた。この世に最後のサラマンドラが倒れた。そうして火のなかは虚しくなった。もう火の内に火の花は咲かず龍は棲まず、生き物を宿さない火はただ死の為のものとなった。その内側の虚ろに何もかも取り込もうとして、火は何もかもを飲み込んだ。

 そうしてその日、その国と隣国とが炎に包まれた。


 夜空に尾を引いて、あかね色の炎の矢が飛んでいった。暗い陸と夜空に一つ灯りをともす。また一つ、少年の手許から放たれる。その美しさに少年はしばし見惚れた。

 奇怪な空飛ぶ金属の塊を動かして、少年は夜空を回った。一つ灯りをともすごとに、無数の蛍のような魂が安らぎを得て昇っていくような錯覚に囚われる。撃つ側ではなくて撃たれる側にいればよかったのかもしれない。しかし少年はもう何も考えなかったし何も感じなかった。

 美しい弧を描いて炎が咲く。何かに憑かれたように、少年は炎の矢を射ち続けた。憑かれたように、酔い痴れたように。

 少年は冷たい霧に囚われていた。少年だけでない、この国がこの陸がこの海が、すべてが冷たい霧に囚われていた。その中に一つ灯りがともる。それだけがその霧を払った。撃つことではなく撃たれることが。

 少年の心の隅を、火の前で泣きじゃくるおぼろげな記憶が過った。それがいつの記憶なのか、少年にはもう思い出せなかった。

 その記憶が心の一部分と重なり合った。少年にはわからないくらいわずかな、一部分。

 少年にはもう、今がいつなのか、何を失ったのか、母親が生きているのか死んでいるのか、父親が生きているのか死んでいるのかさえもわからなかった。ただ空飛ぶ金属で夜空をどこまでも、どこまでも飛んでいった。

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過去作集 川野芽生 @umiumaya

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