瞼の裏の薔薇色の

そうざ

The Rosy Color behind My Eyelids

 堪らなく瞼が重い。

 小気味好いレールの響き。時折、行き過ぎる踏切の警報。夏の帰路はいつも気怠さを手土産にする。

 息子が居なかったら、海へ往くという発想すら湧かなかった。

 ドアの開閉音が聞こえ、微風が頬を撫でる。潮の香り。まだ海岸沿いを走っているらしい。

 瞼をじ開けると、いつの間にか車窓が薔薇色に染まっていた。その美しさよりも、一日が終わろうとしている事実に胸を締め付けられる。

 不図ふと、息子が居ない事に気付く。はっとして辺りを見回すと、客車と運転席とを仕切る硝子に張り付く後ろ姿があった。


 ――進行ーっ――


 電車が動き出す瞬間、息子は運転手を真似てそう言った。電車好きだとは、今の今までまるで知らなかった。

 子供の成長は早い。会えない時間にもどんどん変化して行く。それは驚きであり、嬉しさでもあり、けれど、私だけが知らない土地に置き去りにされるような寂しさを覚える。

 この線路は何処まで続いているのか、この先に何があるのか、全てを確かめたくて仕方がないというように、息子は前方をじっと見詰めている。

 ――次に会えるのはいつだろう――

 特別な体験でなくて構わない。息子が喜ぶのならば、こうして電車に乗るだけでも良い。一緒に過ごした切れ切れの時間を掻き集め、ようやく息子の全体像が形作られる。こんな心もとない日々がいつまで続くのか。

 今日はなかば強引に連れ出してしまった。この後、無事に送り届けられる自信がない。

 空がまたその色味を変えている。もう薔薇色とは呼べない。紫と青とが混じり合い、闇を連れて来るだけの不愉快な色合いだ。


 ――進行ーっ――


 息子が几帳面に同じ台詞を繰り返す。そんな無邪気ささえ私には辛い。

 ――このまま連れ帰ったら――

 思わず周囲をうかがう。がらんとした車両が何処までも連なっている。ここには一組の母子しか存在しないのだ。

 心做こころなしか、電車の速度が増したように感じる。そればかりか、もう駅に停まらなくなった。


 ――進行ーっ――


 軌道は右へ左へとカーブを繰り返し、車輪のきしみが悲鳴になる。常軌を逸した金属の塊がひた走る。

 私はよろけながら息子の背後に忍び寄り、その肩に手を掛けた。その感触は、やけに軟らかく、ぬめり気を帯びていた。

 前方にくろい口を開けた隧道が待っている。

 ――あそこを抜ければ、息子を手放さなくて済む――

 予感ではない。取り留めのない祈りだった。

 窓硝子が一斉に震え、薔薇色だった車窓は一転、漆黒に染まった。


 ――進行ーっ――


 隧道の果てに淡い光を見る。

 一瞬、薔薇色の世界が広がり、散華さんげした。




  ――進行ーっ……ーっ……ーっ――



 私は、開けていた筈の瞼をまた開けた。


 視界に入った空があかく焼けている。夜明けだろうか、それとも日暮れだろうか。


 薔薇色の窓を背にした人影が、こちらを振り返る。その顔に宿る息子の面影――そう見えるのは、曲がりなりにもこの男が父親だった・・・からだろう。

「やっと起きたか。日帰り入院なんだから、のんびり寝てる暇はないよ」

 軽くなった筈の下半身が重い。まるであの夏の気怠さそのものだ。

 後ろ姿しか見せてくれなかった我が子。一心に見詰めていた軌道は、どんな世界に続いていたのだろう。

 そそくさと帰り仕度を始める男が、窓の外を仰いで言う。

「やけに綺麗な空だなぁ……」

 私は瞼を閉じる。そこに薔薇色の余韻を見る。

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