第96日 水音に揺らぐ密室

 ぴちょん、ぴちょん。


 ──水の音?


 不思議な音にぼくは目を開けた。机に伏して寝てしまっていたようで、どこか気怠い身体を持ち上げる。思わず声が漏れた。

「……え?」


 ──そこに広がっていたのは、白い空間だった。机も椅子も、ここに存在する全てが真っ白。

 いや、真っ白ではない。全てがアイボリー色をしていた。アイボリーの部屋。そういえば、アイボリーって象牙色って意味だったっけ。変なの。


 ふと、惹きつけられるようにしてぼくは左を見る。そこにあったのは艶やかな果物。

 これまたアイボリー色をしたテーブルに、色とりどりの果物たちが乗っていた。林檎、葡萄、苺、檸檬。それらが静物画みたいに盛られている。淡々とアイボリーの皿に影を落としていた。


「あら、ようやくお目覚め?」

 机の真向かいから澄んだ声が一つ。言わずとも知れた幼馴染の彼女だ。それにぼくはひどく安心した。

 色鮮やかな赤いニットを着た彼女は、このアイボリーの世界で異質だった。異質で、何よりもきれいだった。

 それはもちろん、服が赤いからではない。


「うん、おはよう」

 彼女がさも当然というように振る舞っているので、ぼくも努めて冷静に挨拶をする。頭の中には疑問符ばかりだったけれど。

「それで、ここは……?」

 とりあえず一番の疑問を口にする。少なくともこんな部屋にやってきた記憶なんてない。こんな趣味の悪い、アイボリーで統一された部屋なんて。


 椅子に腰掛けたままぐるりと辺りを見回す。すぐさま簡素なコンロやシンク、それからベットが目に入った。まるで1LDKみたいな間取りの部屋だが、果たしてここはどこなのだろう。

 目の前で悠然と微笑む彼女だけが頼りだった。彼女は何か知っているのかもしれない。よかった、一人じゃなくて。

 しかし。


「わたしも知らないわ、こんなところ」


 にこにこと無邪気な笑みで彼女は断言した。それはそれは自信満々に。危うくぼくは椅子から転げ落ちそうになってしまった。彼女は尚も言葉を重ねる。

「目が覚めたらここにいた。それ以上でもそれ以下でもないわ」

 それはぼくと全く同じだった。

「そ、そっか……。でもさすが、きみは冷静だね」

 記憶喪失、目が覚めたら知らない場所。

 こんな状態で落ち着いてられる彼女は肝が座っている。ぼくが小心者すぎるのだろうか。そんなぼくを見て、彼女はいたずらっぽくわらった。あでやかな笑み。


「だって、きみがいるもの。不安なことなんて何もないわ」


 今度こそぼくは椅子から転げ落ちた。


 ♢


 ぴちょん、ぴちょん。


 テープルの側にあるアイボリー色のシンクから、水の滴る音が空気に波紋を残す。

そこに透明な彼女の声が静かに響き渡った。


「きみが起きる前ね、少しこの部屋を見て回っていたの」

 ──なんとまあ危険なことを。

 ぼくは何とか言葉を飲み込んだけれど、この不可思議な部屋、罠なんて仕掛けられていてもおかしくないのだ。このテーブルに置かれたこの色鮮やかな果物だって、毒が入っていても何ら不思議ではない。


「それでね、わかったことが一つある」

 彼女はぽつりぽつりと言葉を置いていく。まるで一滴ずつ滴り落ちる水のように。静かに、染み渡らせるように。

 桃色の形の良い唇が言葉を紡いだ。


「──この部屋に、入り口はないわ」


 それはすなわち、出口もないということ。ぼくはぞわりとした。事実、鳥肌さえも立ったかもしれない。この部屋は暑くも寒くもなかったけれど、最早そんなことは気にならなくなった。

「じゃあ、一体ぼくらはどうやって……」

 ──ここに入ったのか。

 彼女はぼくの余白を読み取ったというように頷いた。

「そうよ。そこが問題で、同時に問題じゃない」

 ぼくは内心首を傾げた。まるでなぞなぞみたいだった。彼女がこういう言い回しを好んでいることは知っていたけれど、今回のは特に難解だった。

 おおかた、二つの事象は常に背中合わせに存在するとか言いたいんだろうけれど。


 ぴちょん、ぴちょん。

 水の音をBGMに彼女は言葉を続ける。

「だって、わたしたちにはどうすることもできないもの」

 それはただの諦めだった。この部屋からなる術はないという諦観。

 けれど、彼女が言うのならそうなのだろう。この部屋に出口はないのだ。脱出不可能の密室。確かに窓もドアも見当たらなかった。三百六十度、壁がぼくらを囲んでいる。


「どうしても出る方法はない……?」

 こんなところで一生を終えてしまうのは避けたかった。けれど、

「ないわ」

 彼女はきっぱりと断言した。しかしそこに悲哀は含まれていなかった。ただ、一足す一が二だと言うように、淡々と事実を述べるがごとく告げたのだ。


 水音がどこか遠くで鳴っている。ぴちょん、ぴちょん。


「でもね、ここに閉じ込められたのがきみとの二人でよかった」

 彼女は柔らかく微笑んだ。いつもよりゆるやかで、なのにガラス細工みたいな笑み。

 ふふ、と彼女は声を漏らした。

「……そう本気で思っているから、わたしは正気でいられるのよ」


 言葉と共に彼女はゆっくりと立ち上がる。絹のような髪の毛がサラリと揺れた。

 そして、おもむろにシンクへと赴いたかと思うと、きゅっと蛇口を締めた。


 ぴちょん、ぴちょ。

 

 水音は止まった。彼女はくるりと振り返る。

「きみとなら、ふたりっきりでもいいわ」

 その笑顔はどこまでも透き通っていた。水はもう溢れない。

 


 ──ひらりひらり。密室から出る手がかりが天井から舞い降りてきた。

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