第95日 積み上がる思い出の箱
ピー、ピー、ピー。
ぼくの手首につけられたバンドから静かにアラーム音が鳴った。
「もう、また整理していなかったの?」
そう呆れたように言うのは幼馴染の彼女だった。事実、呆れたとその端正な顔に書かれていた。
「ぼくが片付けと断捨離が苦手なのは知っているだろう?」
敢えて自信満々に言い切って見せる。
鳴り響くアラーム音を背景に、今度こそ彼女は溜息を吐いた。
♢
しばらく前から脳のメモリが電子機器のデータのように可視化されるようになった。とある研究をきっかけに、人間の脳が記憶できる量には限界があることがわかったのだ。
厳密には限界なんてないが、あまりに詰め込み過ぎると記憶力の低下を招くとされている。だから脳のメモリが一杯に近づくと、この手首に巻いたバンドが知らせてくれるのだ。
「最近記憶力が低下してきたなと思ったらこれか……」
ぼくは頭を掻きながら呟くと、彼女はぼくの手を取った。ひんやりとした、柔らかい手。
「さっさと整理なさいよ。わたしも手伝ってあげるから」
ぼくが拒否する間もなかった。彼女はぼくの手首のバンドの画面を操作して、整理モードに切り替えた。
そこでぼくの視界はぐるりと回った。
♢
「ん……」
鈍い頭の痛みに呻きながらぼくは目を開けた。どうもこの感覚は慣れない。
――目の前に広がっているのは、白い空間だった。そこに大小さまざまな大きさの箱が山積みになっている。大きさもばらばら、色もばらばら。それが、頂上が見えないくらい高く積まれている。時折、どこかが崩れて箱たちがごろんごろんと転がった。
これが、
「わあ……ほんとうにぐちゃぐちゃね」
彼女は「人の記憶ってここまでぐちゃぐちゃに溜められるのね、すごいわ」と逆に感動しているようだった。
ぼくもびっくりだ。まさかここまで酷いことになっていたとは。こんなに記憶の箱が集積するなんて、実はまあまあ長く生きているのかもしれない。まだ二十歳にもなっていないけれど。
「ほんとひどい有様。いつからメンテナンスしていなかったの?」
「……覚えてないや」
前回どうやって記憶を整理したかも覚えていないくらい、ここには久しく足を運んでいなかった。臭い物に蓋をしていだけともいう。記憶でも物でも、ぼくは整理整頓というものが苦手だった。昔から。
しかし、この空間からこの箱が溢れてしまったらおしまいである。その箱に入っていた記憶は一生戻ってこない。
これが認知症のメカニズムに通じているとかいないとか。認知症の原因物質とされているアミロイドβは、実は記憶の蓄積物だったのかもしれない。
とかく、そうならないために人々はこうやって定期的にメンテナンスをするのだ。つまり、要る記憶を整理し、要らない記憶を処分する。
「やるしかないか……」
ぼくは袖まくりをして静かに気合いを入れた。この世界でぼくの存在は概念的なもの、つまり実体がないのだ。だから袖をまくることに意味はない。けれどついしてしまうのが人間の
「よっと」
ぼくは手始めに両腕で抱えられるくらいの箱を手に取った。ラベルを確認すると、『彼女と遅刻した記憶』。そうだ、あの日は二人して寝坊して遅刻したんだ。彼女の珍しいがとてもかわいらしい寝癖が脳裏をよぎる。この記憶は捨てられない。
次。
ぼくは近くにあった、先程よりも一回り大きな箱を選んだ。ラベルを見ると、『彼女とオムライスを食べに行った記憶』。すぐさま彼女が満面の笑みが蘇る。これも捨てられるわけがない。
そこから紐が伸びており、もう一つの箱に繋がっている。その箱もまあまあ大きい。見なくてもわかる、きっと雑炊の記憶とかそこら辺だろう。
紐づいた記憶、なんて表現は実はここから来ているのかもしれない。あるいはその逆かもしれない。鶏が先か、卵が先か。
あいにくそれを確かめる術を持ち合わせていないので、この際どちらでもいいけれど。
「ちょっと、捨てる記憶は見つかった?」
彼女は呆れたように黒色の大きな穴を指さした。あれは思い出のブラックボックス。あそこに箱を入れると、その記憶はきれいさっぱりなくなるのだ。そうやって人は記憶を整理する。
「いや……なかなか見つからなくて」
とりあえずぼくは曖昧な返事で誤魔化したが、そもそも要らない記憶なんてあるのだろうか。ぼくにとっては黒歴史だって自分を構成する大切な記憶だし、はてさて、一体どんな記憶なら捨てられるというのだろうか。
「あ、じゃあこの思い出はどう?」
彼女はちょうど手のひらに収まるくらいの小さな箱を手に取った。かなり小さい。小さい箱ほど些末な記憶であることが多い。なんの記憶だろう。
「なになに……『キャベツみたいな花と彼女』?」
彼女はラベルを読み上げて首を傾げた。
「彼女はわたしだとして……キャベツみたいな花ってなに」
その枕詞。ぼくは口角が上がるのをなんとか堪えた。
「ああ、あれだよ。なんだっけ、キャベツみたいに地面に転がって咲いている、紫とかクリーム色の葉っぱみたいな花」
彼女は一瞬悩ましげに眉を顰めたかと思うと、すぐに何か合点したようで、表情を明るくした。
「ああ! ハボタンね」
そう言ってけたけたと笑った。「これ、この前も同じ会話したじゃない」
「はは、ほんとだ」
あの時もそうだった。道端を歩いていると、ハボタンに出くわしたのだ。ハボタンの名前を知らなかったぼくは「キャベツみたいな花」と言ったのだ。その時も彼女はわらった。さっきと寸部違わぬ笑顔で。
「これも捨てられないな……」
そうやってぼくは先程の箱の上に『キャベツみたいな花と彼女』の箱を置いた。彼女は呆れたように肩を竦めた。
「これじゃ、いつまで経っても捨てられないじゃない」
「だから、きみとの思い出は捨てられないんだって」
下手したらここにある記憶は全て彼女にまつわるもので、だからこそ捨てられずに溜まっていくばかりなのかもしれない。
「断捨離苦手のプロね」
そう言いながら彼女は箱を丁寧に積んでいく。
♢
「これで、少しは空きができたかしら」
あんなに乱雑に積まれていた箱はきれいに陳列されている。大きいものは下に、上に行くほど小さく。
あんなに乱雑に転がされていた箱たちは、今や何かのパズルのように隙間なく積まれていた。
「うん。手伝ってくれてありがとう。……でも、結局何も捨てられなかったな……」
今回も箱を整頓しただけで、捨てることのできた記憶は一つもなかった。
「ふふ、きみらしいじゃない」
そこで彼女は澄んだ笑みを浮かべた。どこか無邪気で、どこか透明な微笑み。柔らかく弧を描いた唇から言葉がまろびでる。
「ま、わたしもきみに関する思い出はぜんぶ残しているけれどね」
「え?」
ぼくは思わず訊き返してしまった。
――あんなにあっさりと断捨離できる彼女が、どうして。
今度こそ彼女は屈託ない笑顔でわらった。
「だって、きみにまつわる記憶でどうでもいい記憶なんてないもの」
また捨てられない箱が一つ増えた。
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