第94日 地下六フィートの霧
辺り一面、真っ白な霧が立ち込めていた。
「え……?」
ここは、どこだ。いつからこんなところに。
困惑に満ちたぼくの声は、霧の中に立ち消えていった。あとには何も残らない。ただ真っ白な視界が三百六十度広がっているだけ。慌ててスマホを取り出すが、『圏外』の表示。そこまで見えたところでぷつりと電源まで落ちたので、もう絶望的だった。
「困ったな……」
恐ろしいことに、ほんの数メートル先ですら見えないのだ。暗闇に放り出されたみたく、自分が自分であることさえも不安になる。そのくらい濃くて濃い霧だった。
しかし身体は上手いことできているようで、視覚が駄目になったら今度は他の感覚が冴えてきた。
湿った土の匂い。どこか遠くでさざめく木々のざわめき。朽ち果てた落ち葉。ぼくは森にいるのかもしれない。それから、ぼくに纏わりつく水分をたっぷりと含んだ空気。ああ、少し肌寒いかも。それから──
チリン、チリン。
──鈴の音?
澄んだ金属の音が響き渡った。ぼくの右手の方から聞こえてくる。ぼくはとても不思議に思った。霧ですべてがぼやけている世界に、輪郭のある音。
しゃわり。
崩れかけの落ち葉を踏みしめてぼくは一歩前に進んだ。鈴の音に導かれるようにして、二歩、三歩。どこか足元が覚束ない。それても、なんだか歩かないといけないような気がした。
しゃわり、しゃわり。
少し歩くとぼうと白い光が見えた。太陽でも月でもなく、どこか人工的な光。――こんなところに光!
誰か人がいるかもしれないと思い、ぼくの足は自然と早くなる。はやく、光と音のある方へ。
――そこにあったのは、一台の自動販売機だった。
木と土と霧の世界で、人工の光を放つそれは異色だった。半分モノトーンの世界で、原色のペンキがうるさいほどに精彩を放っていた。
チリン、チリン。
鈴はその自動販売機から釣り下がっていた。風なんて吹いていないのに、その鈴は勝手に澄んだ声で歌っていた。
とかく、自動販売機があってよかった。人が他にいるという証拠だし、温かい飲み物でも飲めるかもしれない。ポケットに入った財布を探りながらぼくは自動販売機に近寄った。さて、何を飲もうか。
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「文字化け……?」
缶のラベルに書かれた文字も、その下に書いてある……恐らく値段であろう表示もすべて文字化け。残念ながら文字化けを読む術なんて機械でないぼくが知るはずもなかった。
一体、誰が何のためにこんなことを。
チリン、チリン。
ぼくをあざ笑うように鈴は澄んだ音を響かせる。それから木のざわめき。立ち込める霧。
ぼくはたまらなく不安な気持ちになった。もし、このまま帰れなかったら。もし、鈴の音につられて魑魅魍魎でもやってきたら。
まさか、とぼくは自分自身の言葉を笑い飛ばしたかった。けれど、あまりに深い霧に精神が蝕まれかけていた。
チリン、チリン。
「うるさいって」
ぼくはせめて鈴の音を止めようと冷たい金属を手で押さつけた。氷のように冷たいそれを、完全に音が鳴らないように両手で包み込む。これでいいだろう。
――チリン、チリン。
嘘だろうとぼくは鈴を掴んでいる手を凝視する。確かに金属に触れている。なのに、音はなり続けている。
ぞっとしてぼくは鈴から手を離した。まだ金属の冷たい感触が残っている。なのに、鈴は何事もなかったかのように揺れて音を奏でる。まるで、何かを呼ぶように。
チリン、チリン。
しゃわり、しゃわり。
落ち葉を踏みしめる音とともに空気が揺れた。ぼくではない。自動販売機の前方から、なにかが来る。チリンチリン、しゃわりしゃわり。
「あら、」
そうして現れたのは一つの人影だった。涼やかな声が霧に染み渡った。それからぼくの耳朶にも。
「きみも呼ばれたのね」
その人影は――幼馴染の彼女だった。まるで世間話でもするように彼女は明るくぼくに声をかけてきた。
それにぼくはひどく安心した。しかしあまりにもいつも通りなので、このまま学校にでも行くのかと錯覚してしまいそうだ。
「……よ、呼ばれたって?」
「決まっているじゃない、その自動販売機によ」
そう言って彼女は異色を放つ自動販売機を指さした。
「これはね、『願いを叶えてくれる自動販売機』」
「願いを叶える?」
彼女はにこにこと笑いながら頷いた。こんな状況だと言うのに、どこか楽しそう。そういえば彼女はそういう少女だった。何でも彼女にかかれば玩具になってしまう。例えばこんなおどろおどろしい自動販売機とか。
「そうよ。ラベルに書かれている願いが叶うらしいわ」
そして、自動販売機の文字列を指でそっとなぞった。まるで、文字化けの列を読んでいるかのように。
「でも……それ、読めないよ」
こんな不気味な世界で文字化けを見ると、何だかぞわぞわした気持ちになる。情けない話だが、彼女がここにいてよかったと思う。だって、画面上の文字化けならまだしも、活字の文字化けなんて不気味ったらありゃしない。
「じゃあわたしが読んであげる」
「読めるの?」
彼女はくるりとぼくの方を向いた。そこに浮かぶのは呆れか、好奇か。
「読めるから言っているのよ」
そして、じっくりとラベルを眺め始める。本当に読めているのかもしれない。
もしかして、バグを起こしているのはぼくの脳みそだったのか。大脳が文字列を正しく認識できなくなったのかもしれない。文字って意味を理解しないとただの記号だ。アートのように見えると誰かも言っていた気がする。
だからといってさっきまで読めていた文字が急に読めなくなるなんてありえないのだけれど。
「何が書いてあるの?」
残念ながら一文字も理解できないぼくは彼女に訊ねることしかできなかった。
「そうねえ……その、一番右のオレンジの容器には『しあわせになれるジュース』と書かれているわ」
何とも抽象的なジュースだ。味も想像できない。オレンジ色のラベルだからオレンジジュースなような気もするが、そんな確証は得られるはずがなかった。そもそも飲んで無事かも怪しい。
「……ちなみに、金額は?」
もし一億円だとか法外なお金がかかるなら大変だ。いや、一億円で幸せが買えるなら安いのか。わからない。幸せだの概念的なものには金額がつけられないと相場が決まっている。
彼女は静かな声で囁くように言った。
「『人生のはんぶん』……そう書かれているわ」
ぼくはぞっとした。だから、お金の投入口がなかったのか。下手にボタンを押さなくてよかったと心底思った。
「……さすがに、人生の半分を捧げてまで幸せになりたいとは思わないかな」
ぼくの言葉に彼女はこてんと首を傾げた。霧の中でもさらさらとした髪が流れる。しっとりと艶やかできれいだった。
「そうかしら。辛い人生を長く生きるのと、幸せな人生を短く生きる。どちらが幸せなのかしらね」
わたしにはわからないわ、と彼女は困ったように苦笑した。ぼくにもわからなかった。一般論でいくと、長生きするのが正解なんだろうけれど。それは一般論でしかない。
「難しいね。ぼくは今の人生が辛いか幸せかさえもわからないや。わからないから、長生きしてみようと思ってる」
彼女はくすくすとわらった。からかうのではなく、その発想はなかったとでもいうような、微かな笑い。
「面白い考えね。まあ死んだら終わり。わたしもまだまだ生きたいわ」
じゃあ、と彼女は躊躇いなく真ん中のボタンを押した。ぼくがあ、と声を漏らす間もなかった。
ゴトン。
重々しい音がして出てきたのは、ペットボトルの形をした缶だった。上部には、ペットボトルキャップではなくプルタブが付いている。
「不思議な缶ね」
そう言いながら彼女はまたもや躊躇いなくプルタブを開けた。しゅっと音がして霧が動いた。
「さて、いただきます」
ぼくが目を白黒させている内に彼女は得体の知れない液体を飲んだ。ワイルド。もはや肝が据わっているというレベルの騒ぎではない。
「ちょ、ちょっと。それは何の飲み物?」
こういう時に文字が読めないのは困る。とても困る。そんなものを口にしてよかったのか、なんて疑念さえも拭えない。
彼女は口の端に着いた泡のようなものをさっと指先で拭うと、ほうと息を吐いた。
「これはね、『ここから帰るお茶』よ。お茶って書いてあったけれど、ビールみたいな味もするわ。しゅわしゅわと炭酸も感じるし」
それって発酵してるってことじゃあ……。
「意外と味はいけたわ。ほら、早くきみも飲んで?」
「え?」
「きみだってここから帰りたいでしょ?」
そう言いながら彼女は半ば強引にぼくの口にボトルを近づける。近づけるというが、強引に押し当ててぼくの口に液体を注いだ。
冷たいような温かいような、不思議な飲み物だった。味はなんだろう、ソフトドリンクバーで色んなジュースを混ぜたような味がする。懐かしいような不思議な気持ち。
ところで、これは何を対価として手に入れたものなのだろうか。先程聞いた、『人生のはんぶん』という言葉が胸につかえてどうしようもない気持ちになった。
「一体これって……」
しぃ、と彼女は微笑んだ。
「対価は、きみへの恋心よ」
「……へ?」
ぼくが間抜けな声を洩らすと、彼女はころころと笑った。
「冗談よ。そんなもの、捨てるわけないじゃない」
そこでぼくの意識はふっと揺らいだ。ジュース、もとい『ここから帰るお茶』の効果が表れたのだ。この不思議な世界、何があってもおかしくない。彼女の輪郭もぼやける。
揺らいだ意識はそのまま霧へ溶け込んだ。
真相も、感情も、すべて真っ白な霧の中。
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