第97日 〇〇しないと出られない部屋
――人間はどいつもこいつも殺人ぐらいはできる。
これは坂口安吾の小説だっけ。
♢
ここで大まかな状況説明。
目が覚めるとぼくは幼馴染の彼女と二人、アイボリーの部屋に閉じ込められていた。この1LDKのような間取りの部屋は、家具も壁も全てがアイボリー色だった。テーブルの上に乗せられた果物と、ぼくらだけが正しく精彩を放っていた。
そんな部屋で幼馴染の彼女が静かに言った。諦観ではなく、淡々と事実を述べる。
「――この部屋には、入口がないわ」
すなわち出口もないということ。ぼくらがどうやってここに入ってきたかはともかく、少なくともここは完全なる密室だった。
ぴちょん、ぴちょん。
そんなアイボリーの密室に響く音が一つ。シンクに落ちる水の音。
彼女はそっと立ち上がると、蛇口を締めて滴る水を止めた。もう溢れない。
ひらり、ひらり。
水の音が止まったのと同時に、一枚の紙が天井から舞い降りてきた。これまたアイボリー色の紙が。
「なに、これ……」
ぼくの目の前に落ちてきたそれをキャッチする。葉書くらいの大きさの紙に、明朝体で印字された一行の文。ぼくは本能的にそれを読み上げた。
――どちらかを殺さないと出られない部屋。
「……は?」
まさか、『○○しないと出られない部屋』と言うやつか。それも、エロではなくデスゲー厶を当ててしまったらしい。つまり、この部屋から生きて脱出できるのは一名だけ。
ぼくは天を仰ぎ、目元に手を押しやった。ああ最悪。俗に流布している同衾の方でも限りなく嫌だったが、まさか殺人とは。
ちらと彼女を伺うと、さもありなん、どこか難しい表情を浮かべていた。柳眉を顰め、忌々しそうにテーブルの上の果物へと視線を落としている。その先には静物画のように盛られた林檎、葡萄、檸檬、蜜柑。
果たして、これらの果物に何か意味はあるのだろうか。絵画では果物に意味があるそうだけれど。
重苦しい沈黙の中、おもむろに彼女が呟いた。
「ああ、だから果物……」
彼女が見つめていたのは、果物の横に添えられた果物ナイフだった。殺傷能力は限りなく低いが、それでも凶器となりうる。この果物ナイフは意図的なものかもしれない。
そこからはもうだめだった。この部屋に存在する全てが殺しのための道具に見えてくる。ぼくらがこしかけている椅子も、テーブルも、コンロも、シンクもすべて人を殺めるためのものにしか見えない。果物も毒入りなのではなかろうか。
「きみ、人を殺めたことってある……」
彼女が果物に視線を落としたまま訊ねてきた。淡々と、「明日は雨なんだって」と呟くときと同じトーンで。言葉の割にまるで緊張感というものが欠落していた。
ぼくらにとって、人殺しという単語はあまりに遠い世界の話だった。今までは。
「……ないよ。そんな勇気だってないし」
これはただの事実であり、同時に降参するという意思表示だった。自分が殺される側に回るということ。彼女を殺して自分だけ脱出するなんて、できるはずがなかった。
きっと彼女はぼくの言葉の意味を正確に読み取っているだろう。しかし彼女はあっけらかんとして応えた。
「そうよね。わたしもないわ。する気もない」
となれば、二人とも出られない。ここでゲームオーバー、待っているのは最悪の結末。
けれどぼくは彼女の言葉に反論することもできなかった。
もちろんぼくとしては彼女に生きて脱出してほしい。しかしそれと同じくらい彼女を殺人者にしたくはなかった。別に命が惜しいわけじゃない。ただ彼女のきれいな手を汚したくなかったのだ。
それに、死は逃げだ。遺される方が苦しい。実は生き残った方が敗者なのかもしれない。
「困ったな……」
ぼくらは早速行き詰まってしまった。この密室から出るにはどちらかがどちらを殺さないといけない。けれど、どちらも殺したくない。
どうしたらいい、どうしたら一番幸せな方法で帰れる?
ねえ、と彼女のゆったりとした声が沈黙を破った。まるで世間話をするトーンで。
「わたしはこのままでもいいかなって思っているわ……」
彼女はゆるゆると微笑んでぼくを見た。その瞳に浮かぶのは諦観か、許容か、果たして。
「それは、どういう……」
「わたしは殺し合いなんてしたくない」
それはぼくもだった。深く頷いて賛同の意を表す。こんな平和に生まれ育ってきて、人殺しなんてできるはずがない。人殺しはどこか遠い世界のように思っていた。そこが甘っちょろいのかもしれないけれど、それをいざ眼前に突きつけられても尚、ぼくは逃げようとしている。
不意に彼女は呟いた。
「『ne vivam si abis.』」
「な、なんて?」
彼女の発音すら聞き取れなかった。英語ですらないのかもしれない。きっと何かの言葉なのだろうが、言葉が記号や音の集合であることを改めて感じた。
彼女は何かをそらんじるように言う。
「『きみが去ってしまったら、わたしは生きたくない』。ラテン語の言葉よ」
どうして今それを引用したのだろうか。否、答えはわかっていた。ぼくの脳はいつまでも現実から逃げようとしている。
「だからね、このままここにいてもいいかなって思うの」
それはすなわちここで死ぬということ。理性が働くより先に感情が迸る。
「それはだめだって」
わかっている。彼女とて生半可な覚悟で言ったわけではないのだろう。彼女は死にたがりではないし、死を軽んじる人ではない。でも言葉が先に口をついて出てしまった。彼女には生きていて欲しかった。
彼女は頷いた。きみの言いたいことは解っているとでもいうように。
「ええ、そうね。わたしだって死にたいわけじゃない。今死んだら未練しかない。でもね、わたしはきみとだからいいと思ったのよ」
え、とぼくは思った。でも彼女の言葉の方が速かった。
「わたしはきみが好き。だから、わたしはきみを殺せないし、わたしはきみに殺されたくない」
それはぼくと全く同じ思考だった。真髄まで同じ。好きだから殺せないし、好きだから殺されたくない。手を汚させたくない。背負わせたくない。
死とは終わりであって、だからこそ重たい意味を持つ。言葉自体は浅いけれど。
「わたしはね、幼馴染だからきみが好きというわけじゃないの。きみだから、きみが好き」
待って、それ以上は。
「わたし、きみとなら添い遂げてもいいと思っていたの。なんでだろう、やっぱりきみがいっとう好きだからかしら」
ああ、ぼくは緩やかに殺される──。
かちり。ぱたん。
謎の音が響いて出口が開いた。真っ白な光が漏れ出ている。ああ、ぼくは『殺された』のか。
「どうして開いたのかしら」
当の彼女はきょとりとしている。ぼくはようやく我に返って、
「……まあ開いたからいいんじゃない? 早く出ようよ、こんな部屋」
ぼくが手を差し出すと、彼女はぱあと太陽のような笑みを浮かべた。
「そうね」
そうしてぼくらは無事脱出することができたとさ。めでたし、めでたし。
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