〇第92日 追いかける夢
ぼくは駆けていた。一歩先を誰かが駆けている。その誰かはフードを被っていて男か女かもわからない。そして、どこに駆けているかもわからない。ぼくはその誰かについて行っているだけ。
ここは地下の駅のようだった。どこか寂れて薄汚れた仄暗い通路を走る。見たことがあるような、無いような不思議な駅だった。他に人はおらず、不気味さが一層増す。
ふと階段が現れた。地上への出口。眩い白の光が漏れている。誰かは迷わずに光の方へと向かう。ぼくもそれに続いた。一刻も早くこの不気味な駅から脱出したい。
階段を駆け上がる。誰かは一足先に階段の向こうへ行ってしまった。ぼくも急いでいかなければ。早く、地上へ。
けれど、ぼくはあと数段というところで派手に足を滑らせた。あ、顔面から転ぶ――。
ガクッ
自分自身が揺れる衝撃でぼくは目を覚ました。これはジャーキング現象だ。不随意の筋肉の痙攣。
知らずうたた寝してしまっていたようだ。
「変な夢だったな……」
「どんな夢?」
返事が来たのでぼくはびっくりしてしまった。目の前で幼馴染の彼女がにこにこと笑みを浮かべて座っていた。
「おはよう、よく寝れた?」
そう言いながら彼女はノートにペンを走らせる。スラスラと難解な数式がノートに浮かび上がる。あまりに彼女が滑らかに問題を解くのだから、その数式はぼくから見て難解なだけなのかもしれない。
そうだ、明日はテストなんだった。勉強会でもしようとぼくは彼女とカフェに来ていたのだ。そしてぼくは情けないことに眠ってしまったんだ。
「うん、たぶん……」
ぼくものそりのそりと閉じてしまった参考書を開く。脳裏にちらつくあの出口はどこだったのだろうか。
「たぶん?」
サラ。彼女がペンを止めてぼくの方を見る。瞳に浮かぶは好奇。
「一体どんな夢を見たの?」
彼女はどこか楽しそうに訊ねた。
昔から彼女は夢の話をするのが好きだった。こうなるとぼくはもう俎板の鯉。彼女が満足するまで洗いざらい話さなければならない。楽しいからいいんだけれど。
そうだな、とぼくはすっかりぬるくなってしまったコーヒーを一口含んだ。
「出口に向かって走ってたんだけど、階段で思いっきりこける夢」
正直に話すと彼女は首を傾げた。
「出口って何の出口?」
それは順当な質問だろう。
「それはわからないんだけど……その先は、白い光で満ちていて……どうしてか行かなければと思ったんだ」
「怖いわ」彼女は肩を竦めた。「まるで天国みたいじゃない」
ぼくは驚いた。あの光景はそんなものではなかった。でも言葉だけ拾うと天国のように聞こえるのかもしれない。
たしかに、言われてみれば白い光は天国を連想させるのかもしれない。誰も天国なんて見たことがないのに。
慌ててぼくは誤解を解こうと試みる。
「天国って。そんなすごいものじゃなかったよ。……あ、」
そういえば、あのフードの人は誰だったんだろう。
不意に声を洩らしたぼくに彼女は怪訝そうな表情浮かべている。きっとぼくの言葉を待っているのだろう。
「……そういえば、ぼくは置いて行かれたんだった」
「誰に」
「わからない。フードを被っていて、顔も見えなかった」
ふーん、と彼女は興味深そうにぼくを眺める。全てを見透かされているようで、ぼくはどぎまぎした。
「その人、死んでいないといいね」
あまりにも不吉な言葉にぼくは飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
「だから、あの出口は天国じゃないって」
「根拠は?」
そう言って彼女は自分のノートを人差し指でなぞらえる。白い指につられて見ると、それは数学の証明問題だった。そう、証明には根拠が必要だった。
「……ないなあ」
ふと思う。あの誰かが彼女だとしたら。確かにぼくは置いて行かれる側だった。「置いて行かれるのは嫌だな……」
唐突なぼくの言葉に、彼女は首を傾げた。「どうして?」
「だって選択権がないから。だから焦って階段を踏み外したのかも」
ふふ、と彼女は悪戯っぽくわらった。
「そんなにきみが必死になる相手ってだあれ?」
そう茶化して彼女はくすくすと笑った。
「本当にわからないんだって。……そうだな、きみじゃないといいな」
途端、彼女の表情からすっと悪戯っぽい笑みがフェードアウトとした。「どうして?」
今日の彼女は「どうして?」が多かった。エジソンみたいだと言えば彼女は笑ってくれただろうか。
「だって、きみに置いて行かれるのは嫌だから」
彼女は静かに首を振った。
「きっと、わたしはきみの求める誰かではないわ。たぶんね。それにわたし、依存は嫌いなの」
彼女は器用にペンを弄んでいた。くるくると回るそれを二人でぼんやりと眺める。ペンは何周か回り続けていたが、ついにぽたりとノートの上に落ちた。
「ぼくは……この関係を依存だとは思わないよ」
「当たり前よ。そうでないとわたしはここにいない」
彼女の言葉は自身に言い聞かせるようだった。
「……でもぼくはきみを置いていくのも、おいて行かれるのも嫌だな」
それは素朴な感想だった。
今度こそ彼女は呆れたように首を振った。
「当たり前だけれど、いずれ人は死ぬ。わたしときみ、どちらかが先に死ぬのよ。同時なんてほとんどありえない。どちらかがどちらかを置いていくの」
「そうだね」
周囲のざわめきが段々遠のいていく錯覚に陥る。もしかしたらここには彼女とぼくしかいないのかもしれない。それほど、ぼくの生きている世界は小さい。
彼女は囁くように言った。
「……わたしは恐ろしいの。きみという人を失ってしまうことを恐れている自分に。そのたびにわたしは自惚れるなと自分に言い聞かせているの。だって、わたしたちはただの幼馴染でしょう? なのに、ただの幼馴染でなくなってきているのが恐ろしいの」
彼女はノートを穴が開くほど見つめていた。まるでその先にとてつもなく恐ろしいものがあるように。
「何が恐ろしいの」
「きみがわたしの一番になることが」
それは、今日一番の衝撃だった。いや、ここ一年で一番の衝撃だったかもしれない。今度はぼくが問う番だった。「どうして」
「わたしだって……不謹慎な例えだけれど、友人を喪ったらひどく哀しむわ。だからといってそれが友人をつくらない理由にはならない。喪失を恐れていては何も始まらないから」
それはどこまでも正論だった。彼女はミルクティーを一口飲んで続ける。
「でもね、きみが居なくなったらと思うといつもより胸がきゅっとなるの。それが依存みたいで、わたしは恐ろしい」
それはぼくも同感だった。やはり人の喪失は絶大だ。とりわけ、幼馴染との別れとなるときっとありえないほどの空虚がぽっかりと穴を開けるだろう。
だから、ぼくは後悔しないために言葉を紡ぐ。たとえ泥沼だったとしてもかまわない。言いたいことを全て言葉に乗せる。
「じゃあさ、ぼくがきみを幸せにするよ」
ぱちくりと幼馴染の彼女は目を瞬かせた。
「まるでプロポーズみたいね」
ようやく彼女が茶化すように笑った。夢の、あのフードの人が振り返って笑ったらこんな顔をしていたのだろうか。真相は夢の中。
彼女は屈託なくわらう。先程とは別人みたいに。
「きみったら面白いわ。そういうところが好きよ」
また周囲の喧騒が戻ってきて、日常が緩やかに流れ出した。
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