第91日 魔女のスープ

 ぼくは歩いていた。ここは洞窟みたいな、ごつごつした岩の道。歩いている内に天井はだんだんと低くなってきていて、そろそろぼくの頭につきそうだ。少し屈むようにしてぼくは歩みを進める。ちらつく松明の炎。

 誰があれを管理しているのだろうか。


 ――それは、この先に住む魔女だろう。


 いつしか流れるようになった噂。この洞窟の先には魔女が住んでいるのだと。「悪いことをしたら魔女が来るよ」。誰もがそれに怯えて善行を積んできた。ぼくはとても不思議だった。どうして魔女が来るのが恐ろしいことなのだろうか。

 だからぼくは洞窟の魔女に興味があった。

 けれど、どんな人かと訊けば、誰も知らないとの回答。魔女と言うくらいだから魔法を使うのを見たことがあるのかと訊けば、誰も見たことがないとの回答。

 あんな洞窟に住むのなんて魔女以外にいないだろうと言うのが皆の総意だった。


「どうして魔女は洞窟に住んでいるんだろう」

 その答えなんて誰も知るはずがなかった。そのうち、誰かがぼくにこう言った。「そんな気になるなら、行ってみれば」

 それは目から鱗だった。聞いてわからないんだったら行けばよかったのか。

 そうと決まれば話は早い。リュックにお菓子やら水やらを詰めて、「行ってきます」


 だからぼくはこうして狭い洞窟の道を歩いていた。


 しかし如何せん洞窟は長かった。洞窟というより狭いトンネルのような道を歩き続けていると流石に気が滅入る。もしかしたら魔女なんて噂でしかなかったのか。けれど、それならばこの灯る松明をどう説明しようか。松明の存在は、人間の存在の証明に他ならない。けれど、流石に不安になってきた。

 その矢先、一つの木の扉が目に入った。


 扉に耳を近づけてみると、軽やかな鼻歌が聞こえる。どうやら人がいるようだ。それも女性。ここにきて扉を開けるか躊躇った。この扉を押そうか、このまま引き返そうか。

 ぴたりと鼻歌が止まった。

「だあれ」

 あまりの緊張に、ぼくの体内で血液が止まったような錯覚に陥る。返事をして良いものだろうか。魔女の呼びかけに返事をしたら魂が吸われるとか吸われないとか。ここにきてぼくの脳内を迷信が支配した。

 そこに澄んだ声が染み渡る。

「早くお入りなさいな」

 その言葉とともに、気が付いたらぼくは扉を開けていた。橙の光が漏れる。

 そこにいたのは恐ろしい風体の魔女――ではなく、黒いローブに身を包んだ麗しい女性だった。年はぼくと左程変わらないかもしれない。

「いらっしゃい。ここに人が来るなんて何年ぶりかしら」

 そう言って若き魔女はゆるりと微笑んだ。誰だよ、洞窟にはそれはそれは恐ろしい魔女がいるだなんて言った輩は。

 もっと言うと、魔女はぼくの幼馴染にそっくりの顔をしていた。いつぞやかハロウィンで幼馴染の彼女が魔女の仮装をしていたのを思い出した。それに瓜二つ。

 

 しかし、彼女は正しく魔女だった。三角帽子を被ってこそいないが黒ローブを身に纏っており、彼女の目の前には大釜が鎮座していた。ぐらぐらと茹る大釜。彼女はその中身をかき混ぜていた。

「……それは何を作っているの?」

 ぼくが問うと、彼女はにんまりと笑った。

「そりゃあ、魔女のスープよ」

 蛙の足に、トカゲのしっぽ、亀の甲羅、蝙蝠の糞、それから――。

 魔女は歌うように原材料を言って見せた。ぼくはぶるりと震える。どんな味がするのだろうか。

「その原材料はどこからとって来たの?」

 ぼくが真剣に問うと、「冗談よ」とさぞ楽しそうな返事が返ってきた。


 ♢


「ほら、召し上がれ」

 気が付くと、ぼくは木のでこぼこしたテーブルについており、目の前にはスープ皿が佇んでいた。ぼくのために幼馴染の彼女そっくりの魔女が用意してくれたのだ。透明なスープが皿に並々と盛られている。

「これ、ただのお湯じゃないよね……?」

 そう思ってしまうほど目の前のスープはあまりに澄んでいた。

「まあ、飲んでごらんなさいよ。お腹は壊さないから」

 お腹は壊さない。なんだ、その怖い文句。

「ほらほら、せっかくなんだし飲んでいきなさいよ。魔女のスープよ、滅多にお目にかかれない代物なんだから。さあ召し上がれ」

 ぼくの目の前で澄んだ琥珀色の液体が揺れる。もうもうと白い湯気を立てているそれからはどこか懐かしい香りがした。

「……い、いただきます」

 ええいままよ。ぼくは木のスプーンで琥珀の液体を飲んだ。


 ふわりと広がる真新しさとノスタルジー。なんだろう、食べたことが無いはずなのに既視感を覚える味。確かに懐かしくて新しいのだ。


「どう? お口に合いそう?」

 魔女が頬杖をついて好奇を瞳に浮かべていた。これも幼馴染の彼女そっくりだ。

「……おいしい。とてもおいしい」

 そう言いながらぼくは早くも二口目に入っていた。これは美味しい。優しい味で、そして中毒性があった。このスープは相反する味を併せ持っている。

「このスープには何が入っているの?」

 蛙の足云々は冗談だと笑われてしまった。なら、何が入っているのだろう。

「それはね、感情よ」

 魔女は黄ばんだ羊皮紙を取り出した。そこには細かく文字のようなものが書いていた。レシピだろうか。

「えーっと……それはね、喜び、期待、怒り、嫌悪、哀しみ、驚き、恐れ、信頼が入っているわ」

 ――つまり八つの基本感情ね。プルチックの感情の環。

 

 彼女はるんるんと言うが、ぼくには何一つ理解できなかった。けれど、だからあのような不思議な味がしたのかと俄かに合点した。

「感情でこんな味が出るんだ、すごいね……。ちなみに、どうやって感情をスープに入れるの?」

 ぼくが至極真面目に訊ねると、今度こそ彼女は吹き出した。

「冗談よ、そんなわけないじゃない。感情の煮凝りだけで料理ができたら科学はいらないわ」

 魔女はローブを揺らしながらくすくすと笑いを洩らすが、それは幼馴染の彼女の仕草そっくりだった。


「それに、もし本当にわたしの気持ちが詰まっていたら、きみはお腹を壊しちゃうかもしれないよ?」



 その真意は解らないまま、そこでぼくは目が覚めた。

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