第90日 水に映ったのは
そこに広がっているのは池だった。鏡のような水面が静かに佇んでいる。
「この池はね、自分を映してくれるそうよ」
幼馴染の彼女がぽつりと言った。そのまま池を覗き込む。さらさらと柔らかな髪が流れる。まるで一枚の絵画になりそうな光景。
彼女に纏わりついた風で一抹の波紋が広がったと思うと、また元の鏡の水面に戻った。
「あなたはだあれ」
彼女はどこか無邪気に池へ問いかけた。もちろん返事はない。
ぼくも倣って池を覗き込んでみると、凪いだ水面にぼくらの顔が映っていた。本当に、まさに鏡。彼女がにこにこと微笑んでいる表情もよく見える。もしかしたらぼくらが覗き込んでいるのは池ではなく鏡なのかもしれない。
「あなたはだあれ」
鏡の中の彼女がもう一度問うた。やはり返事はない。
「それって……ゲシュタルト崩壊のやつ?」
鏡に向かってお前は誰だと言い続けたら精神錯乱を引き起こすとかいうアレ。一説によると、徐々に肉体と意識の解離が生じるらしい。その解離によって人は狂っていくらしい。自分を自分と認識できなくなり、やがて――。
恐ろしくなってぼくは考えることを止めた。それより彼女を止めなければならない。しかし彼女はやはり無邪気に微笑んでいる。
「ご名答。まるでこの水面が鏡みたいなものだから、つい言ってみたくなっただけ」
ぼくはやれやれといった溜息を洩らしそうになった。こういう時の彼女は歯止めが効かない。
「……まったく。好奇心は身を滅ぼすよ」
彼女はぱちくりと目を瞬かせて、そしてゆるりと笑った。「それは重畳」
「ちょっと」
「ふふ、冗談よ。でもこんなことを言ってくれるのはきみだけ」
――だからつい楽しくなっちゃって。
彼女は甘え上手だった。こう言うとぼくがどうにもできないことを知っているのだ。内心で溜息を零した。
大人びた彼女のちょっとこどもなところ。そこをぼくはとても好ましく思っていた。どうしようもないことに。ぼくはもう末期かもしれない。
「鏡よ鏡、世界で一番かわいいのはだあれ?」
彼女は歌うように有名な台詞を唱える。あまりにも有名なお妃の台詞。これは白雪姫だ。
「――それは白雪姫でございます、お妃さま」
ぼくはわざと厳めしい声で言ってみる。彼女は軽く吹き出した。くすくすと、心底楽しそうに笑っている。
「まさか返事がくるとは思っていなかったわ、鏡さん。じゃあ白雪姫はどこにいるの?」
彼女の澄んだ瞳は、水面に映ってもなおその輝きを失っていなかった。吸い込まれそうな瞳にぼくは答える。
「目の前にいますよ、白雪姫」
ぱちくりと彼女は目を瞬かせた。本日二回目。してやったり。
「あらあら、鏡さんは口がお上手なのね。おだてても何も出てこないのに」
冗談ではなく本気でそう思ってると言ったら、果たしてきみはどんな顔をするのだろうか。
「ふふ、なんてね。まさかきみが乗ってくれるなんて。とっても面白い」
ここに来た甲斐があったわ、と池の中の彼女は楽しそうにわらう。
「で、ここの池が自分を映してくれるっていうのは?」
この池に来た時に彼女が真っ先に呟いた妙に引っかかる言葉。ぼくはまだその真意がわからなかった。自分を映すというのはどういうことだろうか。ぼくの全てを映すのだろうか。ぼくの醜いところもきれいなところも全て。
鏡が映せるのは肉体だけだ。肝心な意識はどこにも映らない。だから生物はコミュニケーションを取ろうとする。
「それはわたしもわからないのよ。だから確かめにきたの」
少し拍子抜け。同時に、彼女があまりにも通常運転で笑ってしまいそうになった。
「はあ。で、何かわかった?」
「いいえ。じゃあ、一つ質問していい?」
なにが「じゃあ」なのかわからないけれど、ぼくに断る理由もなければ、拒否権もなかった。
「もちろん」
水面の中の彼女は、ぼくの瞳を覗き込む。「きみは自分が好き?」
それはとても難しい質問だった。一方でとても簡単な質問でもあった。「はい」か「いいえ」か。基本的には二択しかない。でも、だからこそ難しい。だって好きなところも嫌いなところもあるから。
全てを愛せたらそれはとても素敵なことなのだろうが、生憎そうではないから困っている。ナルキッソスが羨ましい。
「……まあ、どちらかというと好きかな」
必殺、「どちらかというと」。ぼくはこうやって言葉を曖昧に濁していく。
「それは素敵ね。好きならいいじゃない」
水面の中の彼女はどこか寂しそうに笑った。それはぼくの見間違いかもしれない。だって、顔を上げて直接見た彼女はいつも通り微笑んでいたのだから。そこには寂しさや哀しさなんてどこにもなかった。
やっぱり勘違いだったかもしれない。
「きみは自分のことが好き?」
今度はぼくが問う番だった。
ぼくが彼女なら簡単に自分を愛せるのになと思う。ぼくと違って不器用じゃないし、ぼくと違って頭がいい。
しかし、彼女は首を振った。「そこまで好きじゃないわ」
「どうして」
思わず疑問が口をついて出ていた。彼女は視線を逸らして答えた。
「頑張っている自分は好きなんだけれど。いいえ、怠惰な自分が愛せないだけかもしれないわ」
ぼくからするとその考えはあまりにも目から鱗だった。強いて言うならば、ぼくは好きなことをしている自分が好きだったから。
何か言おうと思って、再び水面の彼女を見つめた。しかし、もうその顔に悲哀なんてものはなかった。いつもの滔々とした口調で、
「自己を愛すのは難しい。本当は、わたしは自分を愛せていないのかもしれない。でも、その発言でさえ自己を愛しているのよ」
「どうして」
「自分のことに関心を向けているということだから」
どうしてそれが愛に繋がるのだろうか。自分に関心を向けるのは当たり前だろう、だから人は悩むのだと思っていた。
ぼくは首を傾げる。彼女の言葉は時たま難解だった。それを見た彼女は言葉を継ぎ足す。
「愛の反対は無関心というそうよ」
「ああ、マザーテレサ」
マザーテレサが言った言葉。『愛の反対は憎しみではなく、無関心』。端的で鋭いからよく印象に残っている。
そこで鏡の中で彼女はいっとうきれいな笑みを浮かべた。そうね、と呟いたかと思うと、
「わたしは自分のことより、きみに関心があるの。他ならぬ、きみに」
それってつまり――。
風が吹いて、水面のぼくらが滲んだ。
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