第89日 濃密な闇におぼれて
教室で座っていたぼくは、ぼんやりと頬杖をついて何かを眺めていた。
それは教室だったかもしれないし、窓の外だったかもしれないし、あるいは別のものだったのかもしれない。
放課後、誰もいない静かな教室。ねっとりとした橙の光がぼくを包み込んで影を落とす。影はこの世に存在する全ての物に付き纏う。まるで背後霊のごとく。
時間の経過とともに、真っ黒な背後霊は伸びていった。ゆっくり、ゆっくりと。教室が真っ黒に染まるまでずっと存在を膨らませ続ける。まるで自身の存在を知らしめるように。
その様をただ眺めていたい。
今のぼくはそんなきぶんだった。芥川龍之介はこれをサンチマンタリスムなんて言うのだろうか。雨に降られる下人みたく。
「ねえ」
ぼくのサンチマンタリスムもどきは、澄んだ声によって少しばかり浄化された。振り返って教室のドアを見ると、幼馴染の彼女が壁にもたれかかっていた。
「そろそろ帰ろう」
ぼくは結局、闇に塗りたくられた教室を見ることはできなかった。未練なんてないけれど。
ぼくが立ち上がって歩くと、影は律儀についてきた。それは彼女も同じだった。誰もが影を連れて歩く時間。
烏が遠くで啼いた。
♢
学校の外も気だるげな夕方を纏っていた。どこか退廃的で、どこか懐古的。
植え込みの隅で咲く、季節外れの朝顔。無人のバス停には折れたビニール傘が横たわっている。道端に落ちた片方の黒手袋。売り切れだらけの自動販売機。
「何か買おうよ」
そう言ったのはどちらだったか。
ゆっくりと近づくと、ディスプレイの中には死んだ羽虫が見えた。それから転がった缶のレプリカ。本来見えるはずのなかった後ろ側が見えている。何か買おうとコイン投入口を見ると、枯葉が詰まっていた。
「たぬきでも来たのかな」
「買えないんじゃ、仕方ないね」
ぼくらはもう一度獣道に戻る。もうアスファルトは途切れていた。
サリ。サリ。サリ。
乾いた土を踏みしめる二人分の足音が響き渡る。足元の雑草の中で鳴く虫。どこかで唸るガマガエル。実は水辺があるのかもしれない。
お互い「どこに行くの」とは訊かなかった。お互いがお互いについて行っているのだ、目的地なんてあるはずがない。
たぶん二人ともそんな気分だったのだ。身を任せるがままに歩きたい気分。
「あ、日没」
彼女の視線を辿ると、太陽が遠くの山に沈もうとしているのが見えた。あんなに昼間はうるさく主張していた太陽も、こう見ると呆気ないものだ。今は弱弱しい光を零すだけ。
そんな漏れ出る光もやがて消え、ぼくらの影はなくなる。すべてが影に呑まれる。そうして夜の帳が落ちるのだ。あの教室も既に真っ暗だろうか。
ザリ。ザリ。ザリ。
ぼくらが歩いている道に街灯なんてなかった。ただ淡々と獣道が続いているだけ。しかし闇が濃くなるにつれ、それさえ見えなくなった。
でも、二人とも引き返そうとは言わなかった。だって引き返す道も見えなくなっていたのだから。
ここは本当に真っ暗だった。夜目すら効かない。ぐわんぐわんと暗闇がのたうち回ってぼくを襲うような錯覚。四方八方からやってくる暗闇に、ぼくの方向感覚はおかしくなる。どこが上で、どこが下で――
「ねえ」
彼女が静かに声を零した。途端、ぼくの意識は一点に集中する。
「えっと……どうしたの」
ありえないほど濃密な闇で、彼女の声だけは道しるべだった。何か話して欲しかった。しかし彼女から返ってきたのは、「いいえ、何も」。
「……そっか」
確かに、この暗闇では何となく私語を慎みたいという気持ちになる。むくむくと膨れ上がる闇に人知れず気圧されているのかもしれない。授業中とは違って、誰も咎めないというのに。
これが本能的な畏怖というものなのかもしれない。暗闇は怖い。
「──たとえば、わたしたちが死んでいたとして」
あれからぼくの体感で三十分ほど歩いた頃だろうか。おもむろに彼女が囁いた。
「わたしたちがそれに気付いていないだけだったら、どうする……」
彼女の言葉は木々に吸い込まれていった。
もしかしたら、ぼくらはもう死んでいるのかもしれない。
ぼくはそれを否定したかった。しかしそれを証明する術を持ち合わせていなかった。自分が確かに生きているというのを証明するのは、非常に難しい。
「生きているって何だろうね」
ぼくにはそれがよくわからなかった。
いや、一方でとてもよくわかっていた。生きるとは、生命活動を維持していることである。呼吸をして、血液を巡らせて、体温を維持する。誰もが知っている「生きる」の生物学的定義。それはきっと間違っていないのだろう。でも定義は所詮人間が勝手に付けたもの。絶対じゃない。
まあこの世に絶対なんてないのかもしれない。ぼくが今きちんと生きているかを証明できないように。
「不幸があるから幸がある。哀があるから喜がある。不可があるから可がある。……二元論っぽく考えるとすれば、死があるから生があるということかしら」
それはある意味正しかった。そして、ある意味ずれていた。
「でもさ、ぼくらは今死んでいるかってことも証明できないよ。だから背理法もむだ。なら、死も生も同じだ」
確かに、と彼女は木々がざわめくようにくすくすと笑った。本当に風が吹いて木々が囁き、彼女の笑い声は掻き消えた。
「そうね。わたしたちは死と生の狭間を彷徨っているのかもしれないね」
その言葉がぼんやりと遠くから聞こえてくるような錯覚。否、彼女はここにいる。ぼくの隣にいる。それが嘘だとは認めたくない。
「はは、ハイゼンベルクもびっくりだよ」
努めて出した明るい声が暗闇に浮いた。
ハイゼンベルクの不確定性原理。常に動き続ける電子の存在は確率的であるということ。ぼくらが死と生の狭間を彷徨っているなら、それは電子と同じだ。ああ、まるで――。
「ばかみたい」
彼女がぼくの脳内の言葉を継いだので驚いてしまった。まるで思考を読まれていたみたいで。それはありえないから、たまたまなのだろうけれど。
「ふふ、きみといると退屈しないわ」
それは最高の賛辞だった。もう生死なんてどうでもいい。彼女の言葉が彼女の存在証明で、彼女から送られる言葉がぼくの存在証明だった。
「それは光栄の至り」
そうやってふざけられるのも生きている証だろうなと思った。生きるって無駄ごとばかりだから。
サリ。サリ。サリ。
「あ」
彼女の視線の先には、ぽつりとした光。どちらからともなくぼくらは光に近づく。
星のように見えた光はただの街燈だった。見晴らしのいいところに、ぽつりと一本の街燈。その先には──
「わあ、きれい」
──おびただしい光の海。辺り一面に広がっている。
そう、ぼくらの住む町の光だ。街燈の光、車の光、建物から漏れ出る光。その光の元で誰かが生活しているのだ。これが人の生きている証だろうか。
それをぼくらは黙って見ていた。二人で。
♢
「そろそろ帰ろっか」
彼女の手のひんやりとした温もり。暗闇を背にしたぼくらの先には帰る家。
今のぼくに不幸なことなんて何もなかった。ほんとうに、何も。
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