第88日 悪魔のとりぶん

 悪魔の取り分。ウィスキーなどの酒類を樽で熟成した時に、樽に染み込んで取り出せなくなった酒のことを指す。

 芳香を放つ天使の取り分に対して、何もいいことがないので「悪魔」。

 

 ♢


 今日は高校の同窓会だった。こんなこともあったな、あの頃は若かったな、なんて懐かしい気持ちに浸っているうちにあれよあれよと夜になった。同窓会が始まったのは昼だったのに、もう二十一時前。


「それじゃあ、これを以て解散としまーす。皆さんお集まりいただきありがとうございましたー!」

 幹事の明るい声で同窓会はお開きになった。三次会に行く者、家が遠いからと帰る者、みなそれぞれの道を進んでいく。人生と同じで。一度交わったっきり、もう彼らと高校生だった頃のように長い時間を過ごすことはないだろう。

 ぼくはぼんやりとその様を眺めていた。さて、どうしようか。

 その時。

「ねえ、飲み直さない?」

 そこにいたのは幼馴染の彼女だった。先程の食事会で酒を呑んだのか、ほんのりと頬が朱に染まっている。控えめな化粧を施し、高校生の時よりも随分と大人びた服を着た彼女。端的に言ってきれいだった。

 そんな彼女に誘われて断るやつは余程のバカだ。

「もちろん」



 そうしてやって来たのは、少しこじゃれたバーだった。仄暗い店内に彼女の白い肌がぼんやりと浮かんでいる。

 滲む照明。透き通るグラス。琥珀の液体。からりと氷の溶ける音。ここにはどこか浮世離れした雰囲気が漂っていた。

 時間の感覚が曖昧になり、やがて自分がどれくらい酒を呑んだかわからなくなった。

 

「人間と酒は熟成させた方がいいのよ」

 そう言って彼女はロックのウィスキーを呷った。これはかなり酔っているなとぼくは思った。随分と酒を呑んだことは間違いないし、それに彼女は主語の大きい話をすることを好まないはずだから。こうやって「人間」なんて言い出すのは、かなり珍しい。

 やっぱりこのウィスキーはきついのだ。ぼくだって少しくらくらしている。心地よい酩酊。ゆらゆら。これは琥珀が揺れているのか、ぼくが揺れているのか。

 

「熟成、ね……。年寄りの方が、味が出るってこと?」

 この世には亀の甲より年の劫ということわざがある。彼女の言葉を真っすぐ受け取るとしたらそういうことだろう。

 しかし、彼女は黙って首を振った。そうしてくふくふと笑った。

「ふふ。これが面白くてね、人は年を取ることだけが熟成じゃないのよ。このウィスキーと違って」

 むしろ年を取るのは腐敗に近いかもね、なんて乾いた笑いを零した。毎回ぼくはその落差についていけない。温度差で風邪を引きそうだ。

 そんなぼくを置いて彼女は楽しそうに話し続ける。いつになく饒舌。アルコールとは恐ろしい。

「ねえ、きみ。腐敗と発酵の差って知ってる? それはね、人間に取って害か益かってことよ。ふふ、面白いよね。まさに言葉って感じがする」

 酒に酔った彼女の言葉はいつもに増して難解だった。まるで謎掛けのように。まるでばらばらのパズルのように。

「言葉って感じ?」

 酒でぼんやりとした頭で問い返す。わからなければ訊けばいい。

「そ、やっぱり言葉って人間がつくったんだなあって。そりゃあ、言葉は人間たちが人間どうしでコミュニケーションをとるためにつくったんだから、人間主体の価値観に基づいたものになるのは当たり前よね」

 彼女はさぞおかしそうにわらった。その満面の笑みのまま、「なんて考えるのは愚かな肉の塊の証左ね」

「愚かな肉の塊」

 ぼくは彼女の言葉を口の中で転がしてみた。とても変な響き。

 彼女はウィスキーを一口含んだ。ぼくも倣って飲む。どこか燻製みたいな味が広がる。でも、どこかまろやかだった。もしこの味に形があるとすれば、それはなだらかな曲線だった。

 あ、線は形じゃなかった。学術的には線に面積も体積もないからね。形を構成するのが線。

 ……しょーもな、ぼくも存外酔っているのかもしれない。


「肉体は魂の牢獄だと言ったのは誰だったかしら」

 そう呟いて彼女はぼんやりと空になったグラスを眺める。その底ではウィスキーの残滓が薄く漂っていた。こうやって人の魂も漂っているのだろうか。グラスという肉体の牢獄に囚われて。

「魂の牢獄って何?」

 魂の牢獄。先程の愚かな肉の塊みたいな感じがする。へんてこで難しい言葉だ。魂なんてみえないのに、それにエピソードをつけたがるのが人間だ。見えないのだから囚われようもないのに。


「さあ、わたしもよくわからないけれど……わたしたちは肉と魂から構成されていて、魂は肉体に縛られているということかしら。肉体の感じるあらゆる快楽や五感に惑わされて、魂は自由に思索できないという嘆きの言葉」

 あれか、「人間に実体がなければもっと自由だろうに」ということだろうか。よくわからないけれど、宗教かと思ったら哲学なのかもしれない。


「きみは縛られているの? その肉体とやらに」

 新しいウィスキーが届いた。澄んだまあるい氷に纏わりつく琥珀。どっちが囚われている方なのだろうか。

「さあて。誰かの言葉によるとそうだと思うけれど。わたしはわからないわ」

「ぼくもわからないや。じゃあ、このままでいいんじゃないかな」

「どうして」

 

 果たしてぼくらは囚われているのだろうか。仮に魂が縛られているとして、それが解放されたらどうなるのだろう。縛られているのには存外意味があったりして。


「どうしようもないことに悩むのが人間だから、かな」

「例えば?」

 まさか問われるとは思っていなかった。たとえば。たった四文字の質問にぼくは酔った頭をなんとか回す。空回りしてそう。

「そうだな……例えば好きなのに好きだと言えないような恋愛とか。この前見た映画なんだけどさ、肉体の縛りがあるからお互いを愛せないって話だったんだよ。肉体の縛りがあるからアイデンティティが生まれて、だからこそ悩むんだろうなと思うよ」


 彼女はきょとりとしてぼくを見つめていた。不意に微笑んで、

「わたしはきみがすきよ」

 悩みなんて何一つない、と言った顔でへにゃりと笑ってみせた。


 それは、酒の勢いだと言ってしまうにはあまりにも勿体なくて。まるで樽に染み込んだウォッカのよう。嗚呼、これが悪魔の取り分。

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