第87日 天使のとりぶん
天使の取り分。ウィスキーなどの酒類を樽で熟成させた時に、酒量が僅かに減ることを指した言葉である。
これは長い年月の間に水やアルコールが蒸発してしまうためで、そのために芳しい香りがするので「天使」。
だから冗談で「天使が飲んでしまった!」。
♢
今日は高校の同窓会だった。
少し遅めに会場に着いたぼくを迎えたのは、むわりとした熱気だった。「久しぶり、元気にしてた?」「今は何をしているの」「わー、会いたかった!」
狭い会場で言葉と感情が交錯する。誰もがお互いの再会を喜んでいた。仲のよかった友人はともかく、高校後はどうしても疎遠になってしまう。新しいコミュニティで生きていくのだから仕方のないことではあるけれど。
だからこそ同窓会というのは意味があるのかもしれない。
「よっ」
ぼくに一番に話しかけてきたのは、友人Aだった。Aとは部活も一緒で何度か遊んだ記憶もある。卒業後はなんやかんやで会えていなかった。とても懐かしい。
「久しぶり、A」
ぼくの挨拶にAはからからと笑った。笑窪が高校の時と同じ。まあ二年しか経っていないから当たり前なのだけれど。
「変わんねえな、お前も。元気してたか?」
「うん。きみは?」
高校を卒業してから二年が経っていた。しかし、会話のトーンは高校生の時と同じだった。なんだか若返った気持ち。スーツじゃなくて学ランを着たら高校生になれそうだ。いや、さすがにそれはコスプレか。
男子はスーツであるのに対して、女性はパーティードレスで着飾っていて何とも華やかだった。
「あの子、きれいになったよな」
Aはいきなりそんなことを囁いてくる。ぼくは驚く代わりに、Aは変わらないなと思った。Aが女性をあれこれ言う悪癖はまだ治っていない。
「そうかな。みんな綺麗だと思うけど」
しかしぼくの素直な感想に、Aはやれやれといったように溜息を吐いた。
「お前、それはないと思うぞ。この女たらし」
それは不本意だ。反論しようと口を開いたその時――
「あら女たらしくん、久しぶりね」
そう言ってぼくの前に颯爽と現れたのは幼馴染の彼女だった。ふわりとサボンの香り。はっきり言ってめちゃくちゃにタイミングが悪い。もうほんと、頭を抱えたいくらいに。
「……久しぶり。女たらしについては弁明したいんだけど」
「ふふ、わかってるって。ちょっとからかっただけ。相変わらずきみったら面白いのね」
そこで「ああそうだ」と彼女はAの方を見て微笑む。「Aくんも久しぶりね」
「ぁあ、久しぶり……」
Aはあからさまに顔を赤くした。それみやがれ。
まあ確かに今日の彼女はいつもに増してきれいだった。軽くウェーブした髪、おとなしい紺のドレス、白磁の肌に赤い唇。Aがたじろいでしまうのも無理はない。
そこで彼女は視線をつと逸らした。その先には彼女の友人。あっと声を洩らした彼女はその子の名を呼んで手を振った。
「じゃあ」
軽く挨拶をして去っていった。彼女は嵐みたいにやってきて、嵐みたいに去っていった。サボンの残り香だけが漂う。天使のとりぶんみたいに。
じゃあ、減ったのはなんだろう。
Aは去り行く彼女の背を視線で追っていた。そして、
「あの子、あんなにきれいだったっけ……」
こうぼんやりと呟いた。はは、とぼくは内心笑いそうになるのを堪える。
「うん、きれいだったよ。ずっと昔から」
彼女の楽しそうに笑っている横顔を見ながら、ぽつりとAに言った。
そう、彼女は昔からきれいだった。Aが、皆が気付いていないだけで。いや、気が付かなくていい。彼女の魅力はぼくだけが知っていたらいいのだから。
「お前……」
Aは複雑な表情でこちらを見てきた。ぼくの顔に何かついているのだろうか。
「どうかした?」
「いや。……お前、あの子と付き合っていたっけ?」
ぼくは首を傾げた。その質問はとても難しかった。まず付き合うの定義づけから始めたいところだが、ここは曖昧にぼかすことにした。
「どうだろうね。お互い付き合おうと告白し合ったことはないから、違うんじゃないかな」
Aは溜息を吐いた。ばかなのかお前、とでもいうような呆れたような視線を寄こしてきた。ぼくは少し心外だった。いつも馬鹿騒ぎをするのはAで、その視線を送るのはぼくの方だったというのに。
「じゃあ、お前はあの子が好きなのか」
「好きだよ」
「……」
ぼくが素直に告白してみせると、Aは押し黙ってしまった。こういう時、Aは必ずによによと悪い笑みを浮かべて根掘り葉掘り聞いてくる男だったのに。それをあしらう方法を考えていたので、少し拍子抜けだった。
そこで、遠くから幼馴染の彼女がぶんぶんと手を振って来た。満面の笑み。
ぼくも笑って振り返す。それだけでよかった。
「……まあ、あんまり拗らせないようにな」
Aがぼそりと呟いた。Aは変わったなと思った。変わらないのはぼくの想いだけか。
ぼくの感情は時間とともに熟成されてしまっているのかもしれない。天使のとりぶんだけ濃厚になっているのか。ほんとどうしようもない。
そこに漂うのは酒ではなく、サボンの香りだった。
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