第66日 苦くない珈琲
世の中には様々な依存症がある。アルコール、タバコ、ギャンブル、買い物、エトセトラ、エトセトラ。
しかしその大半が大人――二十歳にになるまで禁止されているものばかりだ。お酒とたばこは二十歳から。パチンコもギャンブルも成人するまで入店禁止。だからまだ高校生のぼくには無縁のものばかりだ。
だが、カフェインはどうだろうか。珈琲や茶に多く含まれるそれは、子供でも簡単に入手かつ摂取可能だ。むしろ驚くほど身近だ。しかしカフェインも依存症がある。アルコールやニコチンのように、化学物質がぼくの報酬系を支配するのだ、あなおそろしや。
♢
早朝の学校。受験期のぼくは始業よりも早く学校に来て勉強することにしている。朝一時間勉強をすれば、平日の一週間で五時間。一か月で二十時間。一年で二百四十時間。まあ長期休みなどで前後はあれど、「塵も積もれば山となる」だ。
しかし如何せん眠いのだ。寝てしまっては元も子もない。
だからぼくは毎朝珈琲を買って学校に行っていた。カフェインのお陰で眠気が吹っ飛ぶことを知ってしまったのだ。初めは一週間に一度くらいだったのが、三日に一度になり、やがて毎日になっていった。
まるでアハ体験のように、じわりじわりとした変化は自分でも気が付きにくい。珈琲を買っていなければ、「あ、買わないと」となるのだ。習慣とは恐ろしい。
とかく、ぼくは知らずカフェイン依存症に片足を突っ込んでいたわけだ。今となってはどうしようもない。特に害を感じているわけではないので、おそらく受験が終わるまで放置だ。
早朝の学校はとても静かだ。部活の朝練の声が遠くから聞こえるだけで、誰もいない教室は静謐そのものだった。昼間とは大違い。
「あ、また珈琲飲んでる」
しんと静かな空気に波紋のごとく浸透していったのは幼馴染の彼女の声だ。そう、彼女もぼくと同じ時間に登校していたのだ。
彼女は音もなくぼくの机の前までくると、ひょいと飲み差しの珈琲を手にとった。「これ、おいしい?」
「うん、おいしいよ」
「苦くない?」
彼女は黒い液体を指さして問う。そう、カフェイン含有量が多いかなと思ってぼくはブラック珈琲を買っていた。それに販売会社によって少しずつ味が違うのもわかりやすくて面白いのだ。
「まあ、苦いのは苦いけど……慣れるよ」
この苦みがきっとぼくの目を覚ましてくれると信じている。苦みはむしろ安心材料だった。良薬は口に苦し、だから苦いブラック珈琲を飲んでいるぼくは目が覚める、と。
ぼくのありきたりな返答に彼女はふうん、と興味なさそうに声を洩らした。おもむろに目の前の席に腰掛けたかと思うと、ぼくの机に頬杖をついて、
「毎朝飲んで飽きない?」
「飽きないよ」
飽きていたらもう飲んでいない。いや、それはどうなのだろうか。知らずカフェインの罠にかかっているのだろうか。ぼくが目の前の黒い液体を美味しいと感じるのはカフェインに騙されているだけなのだろうか。わからない。
一つ確かなことは、睡魔を感じていなければブラック珈琲なんて飲まないわけで、きっと今頃は麦茶かジュースを飲んでいる。
「あー、やっぱりカフェイン依存症かもしれない」
ぼくの呟きに彼女はこてりと首を傾げた。寝癖一つない長い黒髪がぼくの机に散らばった。
「きみはどうして珈琲を飲むの?」
「目を覚ましたいからだよ」
「珈琲、好きじゃないの?」
「まあまあかな」
確かに嫌いではない。嫌いなもの、それも健康的とはいえないものをわざわざ毎日飲むほどぼくはマゾヒストではない。しかし好きかと言われればわからない。前述したとおり、ぼくはカフェインが多く含まれているから珈琲を飲むだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
そ、と彼女は珈琲の入ったペットボトルをくるくると手で弄びながら生返事をした。くるくる。くるくる。五百ミリリットルのペットボトルを器用に操るものだとぼくは妙に感心してしまった。
そして珈琲から目を離すことなく彼女はぼくに問うてきた。
「カフェインって摂り過ぎると動悸がしたり、手が震えるそうだけど……まだ大丈夫そう?」
心当たりがないことはなかった。手が震えるまではいったことがないけれど、たまに心臓がどくりとすることはあった。あれ、カフェインの所為だったのか。
「言われてみれば動悸はたまに……」
ぼくの言葉に彼女の手がぴたりと止まった。慣性でペットボトルに半分ほど残った珈琲だけが揺れる。ゆらゆら。ゆらゆら。
続いて彼女の白い指によってペットボトルのキャップが開けられた。かと思うと、彼女はどこか豪快にそれを飲み始めた。白い喉が上下する。
あまりに突然のできごとにぼくはぽかんと間抜けな面を曝して眺めることしかできなかった。
「……え?」
あっという間にペットボトルは空になった。
「――ごちそうさま」
どこか満足気に彼女は濡れた自身の唇をぺろりと舐めた。しかし次の瞬間その端正な顔を歪めて、
「苦い……よくきみはこんなものを毎日飲めるわね」
「えっと、説明が欲しいんだけど」
「カフェインなんて上手に付き合わないとアルコールと一緒。依存性があって、副作用があって。依存なんてきらいよ。碌でもない」
どこか遠くを見て言うので何か嫌な記憶でもあるのかもしれない。でも今はそれを訊くべきじゃない。きっと、彼女が言いたかったことは別にあるのだから。
「そうだね、全くもってその通り……。眠気さえ醒ませたらいいんだけどね」
ぼくの言葉に彼女は悪戯っぽく笑った。あ、これはいけないやつ。この後にはきっと爆弾が落とされる。ここまでくると経験則でわかってしまうのだ。
じゃあ、と彼女はゆっくり言葉を紡ぐ。
「わたしがカフェインの代わりになったらだめかしら」
それから空のペットボトルを指して、
「カフェインよりはずっと健康的だと思うのだけれど」
くすくすと屈託ない笑みをこぼす彼女に、ぼくはどうしようもない感情に襲われていた。
これはだめだ、ぼくが彼女に依存してしまいそう。ああ、もう手遅れか。
無論、彼女がいないと生きていけないわけじゃない。そんな不健全な依存はしていないつもり。だけれど、きっと彼女がいなくなれば果てしない寂莫感に襲われるだろう。もう引き返せないところまで来ているのかもしれない。困ったな。
そう思いながらどこか満更でもないぼくがいた。
誰かが教室に入ってくるまであと――。
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