第65日 月が見ていた聖夜

「欲しい物、ある?」

 そう問うのは幼馴染の彼女だった。幼稚園から二十歳の今まで仲良くさせてもらっている。だから幼馴染。

 そんな彼女が短く首を傾げながらぼくに問うた。そういえば今日はクリスマスだった。大人になってしまったぼくらの元にはもうサンタさんは来ない。

 だからぼくらはお互いにプレゼントを交換し合うことにしているのだ。それが大人になったぼくらのささやかな楽しみ。


「欲しい物かあ……」

 問われたけれど、残念ながら目ぼしいものは何も思い浮かばなかった。

 哀しいかな、大人になったら欲しい物なんてそこまでないのだ。だからサンタさんも来なくなってしまったのかもしれない。


 じっとぼくのことを見つめてくる彼女に、ぼくは降参だというように言った。

「うーん、ぱっと思い浮かばないや。困ったな、子供時代に置いてきてしまったかも」

 へへ、とぼくは曖昧な笑みで濁す。大人の処世術を知らず知らずのうちに多用するようになっていて、やはりぼくは子供じゃなくなってしまったんだなと嘆いた。

 大人と子供の境目は、どちらを羨ましく思うかにあるとぼくは思う。子どもを羨ましく思うのが大人。大人になりたいと思うのが子供。

 子供が羨ましいので、残念ながらぼくは大人だ。


 しかし、彼女はゆっくりと首を振った。さらさらと柔らかな黒髪が流れる。

「物欲なんてある程度の年を過ぎたら一気になっていくものよ。プレゼントとして貰う物に関しては特に。それが普通」

 だって、と彼女は続ける。

「大人になると大抵の物は自分で簡単に手に入れられるようになるわ。自分で稼げるようになると、本当に欲しい物はすぐに手に入れてしまう。そして、簡単に手に入らないようなものは人には頼めない。そう思うとプレゼントって難しいわね」

 彼女は困ったように笑ってみせる。その通りだとぼくは思った。でもやっぱり言葉を濁してしまう。

「そうかもしれないね……。じゃあ、きみの欲しい物は?」

 あの発言の後に彼女が何を所望するのか、ものすごく気になる。

 しかし彼女はあっけらかんと言って見せた。

「欲しい物なんてないわ」

「え。じゃあ……」

 どうしたらいい、と聞こうとした。考える前に何でも聞いてしまう悪い癖。

 しかしぼくが口を開く前に、彼女は自分の口元に細い人差し指を添えた。そしてしいっとどこか妖艶にぼくを制止してみせる。

「欲しいがないといっただけ。わたしがほしいのは――」

 ――きみの時間よ。

 ぼくにしか聞こえない程小さな、それでいてはっきりぼくに聞こえる深みのある声で囁く。じんと痺れた。


 そっと耳元で囁いてみせるのは彼女の十八番だった。以前、彼女自身が言っていたのだ。小さな声は、大きな声よりも相手の気を引くことができる、と。

 確かにぼくは彼女の術中に嵌っていて、彼女の深い声がぼくの耳朶を震わせるのと同時に、心まで甘美な囁きに震える。

「ね、きみの時間を頂戴」

 彼女はどこか無邪気に、どこか妖艶に微笑む。ぼくの答えは「はい」か「Yes」しかなかった。

「喜んで」

 敢えて恭しく一礼してみせると彼女は満足気ににこりと笑った。


 ♢


 そうしてぼくらは一日同じ空間を過ごした。

 なんやかんや遊び通して最終的に行きついた先は、イタリアンのバーだった。仄暗い店内でジャズが流れている。

 ぼくらの目の前には色とりどりのカクテルが鎮座している。彼女の前にはカシスオレンジ、ぼくの前にはモスコミュール。

 二十歳になったぼくらはもうお酒が呑めてしまうのだ。大人の階段を上った気分。


 そうして料理と酒を堪能したぼくの目の前に残っているのは、ほんのりとアルコールに漂う彼女だった。どこかふわりふわりとした言動と表情が危なっかしい。

「酔ってるでしょ」

 そうぼくが問うと、彼女はグラスを置いて笑った。

「酔っれないわ」

 呂律が絶望的だ、これはかなりきているのかもしれない。

「それ絶対酔ってるって」

 くすくすと彼女は笑いを零した。

「冗談よ、冗談。まだ本が読めそうだから大丈夫」

 彼女の酔いの判断基準はかなり独特だ。

 そこで、わはは、と酔っぱらい特有の太い笑い声が響き渡る。気がつけば、店内はほぼ満席だった。

「……ねえ、やっぱり酔っちゃったみたい。外に出たいわ」

 ――ついてきて。

 そうやってぼくだけに囁くのだから、ぼくについて行かないという選択肢はなかった。

 結局ぼくはいつまで経っても彼女に振り回されるのだ。何故かそれがしっくりきていると思うので重症だ。ぼくも酔っぱらっているのかもしれない。


 ♢


 外に出る。一面銀世界。降り積もった雪が満ちた月に照らされて、それはそれは美しい世界を形作っていた。ふわりふわりと舞う雪がきらりと瞬く。

 夜も深まったホワイトクリスマス、きっと凍てつくように寒いのだろう。でもアルコールが回っているのか全く寒くなかった。

 濡れたように艶めく黒髪と長いまつ毛が銀色の月に煌めいている。

「大きな月……」

 吸い込まれるように彼女は月を眺める。先程の酔っ払いとは打って変わって静謐な雰囲気。そんな彼女にぼくはただ見入ってしまう。思わず本音が漏れてしまった。

「きれい……」

 ぼくの呟きに彼女はくるりと振り向いた。そしてぼくの瞳を覗いて囁く。

 ――死んでもいいわ。

「……」

 ぼくの思考は思わず制止してしまう。勿論その言葉が意味するところは知っている。だからこそぼくは言葉を紡げなかった。

 しかし次の瞬間、彼女は声を上げて笑った。

「なんてね。ベタすぎるよ、きみ」

 そうやって彼女のころころと笑う声が一面の雪に染み込んでゆく。そこでぼくは確信した。やっぱり彼女はかなり酔っている。

「はは、そうだね」

 ――ぼくはきみがきれいだと言ったんだけどな。

 その言葉は胸の中にしまう。なんどかこんな歯の浮くような台詞は、この白く綺麗な世界を壊してしまいそうな気がして。そんなの勿体ない。


「ねえ、たのしいね」

 こんなに寒いのに彼女の頬はほんのりと桃色に色づいている。何が面白いのか、ぼくの顔を見てくふくふと笑っている。

「……ぼくの顔になにかついてる?」

 半分戯れで訊いてみた。彼女はしこたま酔っているのだ、どうせぼくの顔を見ていたことには特に意味がないのだろう。

「どうかしらね。暗くてよく見えないわ……」

 そう言いながら確かめるというようにゆっくりと彼女は近づいてきた。

 さくり。さくり。

 彼女のブーツが雪を踏みしめる。やけにゆっくりとこちらへとやってくる。だからぼくは油断した。

「――え?」

 気が付いたときには彼女の顔が至近距離にあって、ぼくは慌てた。

 しかしどうしてか彼女の瞳は伏せられていて、ぼく視線と交わることはない。彼女の思惑が解らず、ぼただ彼女の言葉を待つことしかできなかった。


「……わたしはね、きみと今日という日を過ごせてとても楽しかったの」

 言葉の割に、その表情はとてつもなく静かだった。まるで夜空に浮かぶ月のように。ぼくはただ相槌を打って続きを促す。

「そうね、今日という日が終わってしまうのが堪らなく惜しいと思うくらいには、とても大切な日になったわ」

「……うん」

「だからね、わたしはきみに感謝を伝えたくて」 

 ようやく彼女はぼくに瞳をかち合わせる。そこにあったのは何だろうか。

「今日一日わたしの我儘に付き合ってくれて、ありがとう」

 ぼくは頷かなかった。どうして彼女はこんなことを言い出すのだろうか。


 まさか、彼女はぼくが彼女の願いを叶えるためだけに、一日一緒に居たのだと思っていたのだろうか。

 プレゼントの代わりにぼくの時間を差し出したのだと本気で思っているのだろうか。心外にも程がある。


「――ねえ。それ、本気で言ってる?」

 ぼくは彼女のように囁いてみせる。彼女の大きな瞳が揺れ動いた。それでも彼女の瞳はぼくを見据えたままだった。

「ええ、本気よ。わたしはきみに感謝しているわ。感謝を伝えるのは大事でしょう?」

 そうだけどさ、と呟きながら思わず心の中で溜息を洩らす。

「ぼくはきみといたかったから隣にいたんだよ。そこは譲れない」

 ぱちくりと彼女は瞳を瞬かせる。

「……そう。それはよかった」

 そう言って彼女はぼくの体に体重を預けてくる。先程までの威勢はどこへやら、それだけでぼくはもう骨抜きになってしまう。


 ――ねえ、きみに会えてよかったわ。

 そう囁く彼女はひどく妖艶に微笑んで見せる。

「そりゃあ、ぼくもきみに会えてよかったよ」

 ふふ、と彼女は笑う。桃色の艶やかな瞳が綺麗に弧を描く。そこから紡がれる、落ち着いた声。

「ねえ、酒は免罪符と言ったのはどちらだったかしらね……」

 ぼくはこの彼女の言葉と表情で全てを理解した。

「どちらでもいいよ。でも、酒の所為にはしたくはないな」

「そうね」

 彼女の柔らかな髪がぼくの額に当たる。鼻頭が擦りあう。彼女のサボンの香り。そして――緩やかに唇が合わさった。

 

 誰もいない銀世界で、月だけがぼくらを見ていた。

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