〇第63日 天国と地獄の狭間で

 目の前には轟々と燃え盛る紅蓮の焔。それからわんわんと反響する唸り声やら呻き声。その端に広がる濃密な闇。

 地獄があるならばこんな様相を呈しているのだろうかとぼくは思った。

 否、それはただの妄想でしかない。地獄は死者が行くところである。生者はその有様を見ることはない。だから人々が描く地獄像はどれも生者にとっての地獄のイメージでしかない。

 そもそも地獄についての見解は人によって異なる。頭の中にあるという人もいれば、言葉の中にあると言う人もいる。最初から地獄なんて存在しないと言う人もいる。

 しかし少なくともぼくの目の前に広がっている光景は地獄そのものだった。それがじわりじわりとぼくの方に迫ってくる。


「何ぼおっとしているの、逃げるよ」

 いつもより鋭い声を発した少女がぼくの手を引く。幼馴染の彼女だった。はっと我に返ったぼくは彼女に引っ張られるようにして走る。冷静沈着なのはいつも彼女だった。

 ぼくらはこのゲームをクリアしなければならない。

 地獄は背後からじわじわと距離を詰めてくる。それに追いつかれないようにぼくらは走る。命がけの鬼ごっこ。ここで鬼は地獄だけれど。鬼は地獄にいるものと相場は決まっている。あれ、何かが逆転しているかもしれない。


 時折出てくる敵やら障害やらを何とかこうにか避けてぼくらは進む。この先には天国があるのだ。光輝く白い天国が。天国も地獄と同じで、生者が辿り着くことは決してできない。だから、やはり天国が白いというのもイメージでしかない。


 立ちどまっていたら地獄。逃げ延びた先には天国。存外生きているのはこうやって走っている今なのかもしれない。そう思うと少し面白かった。


 

「あ」

 彼女の短い声が響いたかと思うと視界から彼女の背中が消えた。彼女が転んだのだ。この回廊には至るところに罠が仕掛けられている。きっと彼女はその一つに運悪くひっかかってしまったのだ。

「致命傷かもしれないわね……」

 彼女の白い脚からだくだくと血が流れている。かなりのダメージを負っていることは一目瞭然だった。しかし残念ながら、ぼくらに回復薬やら包帯やらはなかった。

 そもそも地獄は今この瞬間も迫りつつあるのだ、それらを使用する時間もない。つまり少なくとも彼女はここで脱落する。そしてぼくもこの場に留まり続けたら同じように脱落だ。

「何をしているの、早く、わたしのことは置いていきなさい。このままではふたりともお陀仏よ」

「でもきみをここに残すなんて……」

 そもそも一人で天国までたどり着ける自信なんて全くなかった。この先の地図を記憶しているのは彼女だったのだ。どこへ行けばいいかさえもわからない。

 なんていうのは建前。どうせ地獄に呑み込まれてしまうのなら、最後まで彼女と二人でいたかった。別々の場所で最期を迎えるのはなんだか寂しい。

「意気地なし」

 彼女は短くぼくを非難した。それはごもっともだ。続いて彼女はぼくを諭し始める。

「いいこと、わたしたちはどこまでも他人なの。いくら長い時間を共に過ごそうと、ただの他人どうしでしかない。だからわたしのことを置いていきなさい」

 彼女にしては珍しく話の筋が通っていなかった。確かにぼくらは他人だ。ぼくは彼女には成り得ないし、彼女はぼくには成り得ない。その点で正しくぼくらは他人である。 

 しかしぼくらが他人であることと、彼女を置いていくことはまた別問題だ。ぼくは他人だから彼女のことが好きなのであり、だからこそ置いて行けないのだ。

「嫌だ」

 ぼくは短く否定した。ここに余計な言葉は要らない。彼女は溜息を吐いた。

「もう、子供みたいなことを言わないの。誰が何と言おうとわたしはここで終わりなの。だから、きみだけでも天国に行ってほしいの」

 ぼくは首を振った。天国に行くだけで幸せになれるとは限らない。だってここでいう天国は宗教でいう天国ではなくて概念上の天国なのだから。そう、所謂「白く光り輝く天国」。

「ぼくは天国なんて要らないよ。そもそもぼくはきみを見捨てることなんてできないんだから」

 そして念押しのようにぼくは続ける。

「ぼくはしないんじゃなくて、できないんだ」

「馬鹿ね」

 困ったように彼女はわらった。そのすぐ後ろで蠢く地獄。じわりじわりとぼくらに迫ってくる。あと一メートル、五十センチ、十センチ、一センチ。

 ぼくらは静かに互いの手を握りしめた。大丈夫、何も恐れることはない。

 ――零。

 その時全てが闇に包まれた。



『GAMEOVER』

 画面一杯にその文字列が表示されるのと同時に、どこか哀切漂うBGMが流れる。

 ぼくの隣に座っていた彼女はコントローラーを床に置いた。

「もう、きみったらこれはゲームなのよ」そう呟いてひどく草臥れた、というように彼女は天を仰ぐ。「また一からやり直しじゃない」

 これは『天国と地獄』というテレビゲームである。かなり旧式のゲームで、クリアかゲームオーバーしかない。地獄から逃れて天国を目指すというシンプルな内容だがこれまた難しい。

 何が難しいって、セーブ機能がないのだ。よってゲームオーバーとなった場合は初めからやり直しなのである。だから『天国と地獄』。

 まあまあ、とぼくは彼女の非難を受け止め、そして流した。

「次こそはクリアしたいね」

「本当にね。次は足を引っ張らないでよ」

 うん、とぼくは返事をしながらCONTINUEの文字をクリックした。次に起動した時にはまた第一幕から始まるだろう。

 ふうと溜息をつきながらぼくもコントローラーを置いた。


 ――これできみともう一度ゲームをする口実ができた、なんて言えばきみは怒るだろうか。それとも呆れるだろうか。

 どちらにせよこのゲームの天国はまだまだ遠そうだ。

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