第62日 一炊の夢にもならない

 三分。人生の分母から考えるとあまりに短い時間。

 例えばそれはお湯を注いでからカップラーメンができるまでの時間。この時代、お湯を注いで待つだけで温かいラーメンにありつける。本当に便利な時代である。


 今ぼくはひどく腹が減っていた。しかしこの後バイトがあって家に帰る時間もファミレスに行く時間もなかった。

 それでも腹が減っては戦ができぬということで、ぼくはコンビニでカップ麺を食すことにした。本当はちゃんとしたものが食べたかったが、時間がないので致し方なし。


 一番近かったコンビニに入ってぼくはカップ麺を手に取る。オーソドックスな醤油ラーメン。時間もないのでそのままレジに直行する。

 ピッ。

 電子音が響いて画面に代金が表示される。

『お支払い方法を選択してください』

 機械音声がぼくに問うてくる。電子マネーのボタンを押してぼくは素早く決済を完了させる。お釣りも出ない電子決済は手間がかからず便利だ。支払ったという実感も薄い。

「ありがとうございましたー」

 店員が決まり文句のように言ってぼくにカップ麺を差し出す。たった今このカップ麺はぼくのものになった。


 ペリリと蓋を開け、コンビニに備えられている電子ポットからお湯を注ぐ。そしてそのままイートインコーナーに移動する。この時間、イートインコーナーはがら空きだった。何となく端の席に腰掛けた。

 さて、待ち時間。ぼくは当たり前のようにスマートフォンを取り出した。時間潰しに最適なのがスマホである。

 しかし、ぼくのスマホに残量一パーセントの文字が現れる。かと思った瞬間、すぐにスマホは自ずから電源を落としてしまった。

「……」

 電源の切れたスマホはただの板である。更に困ったことに、今のぼくの鞄には大したものが入っていなかった。バイトに行くだけだと思ってほとんどのものを置いてきたのである。

 本もなければ、復習すべき大学の教科書もない。

 スマホがなくなっただけで、こんなにも手持無沙汰になるとは。為すすべなし、あとはカップ麺の完成を待つのみ。

 カップ麺の蓋の隙間から、白い湯気がもうもうと漏れ出している。ぼくはぼんやりとその様を眺めていた。


 ピッ。ピッ。


 ぼおっとして待っていると、ぼくの背後でレジリーダーが忙しなく声を上げているのが耳に入ってきた。それから店内に響く機械音声。機械音声。機械音声。

 店員より機械の方がたくさん声を出しているかもしれない。なんて便利な時代だろうか。

 ちょうどその時、長めのピーという音がなった。

 『残高が不足しています』

 それさえも機械音声。これを「人と人との繋がりが希薄になった」だなんて批判するのは簡単である。しかしぼくはむしろ機械の導入によって店員の負担が減ってよかったと思う。科学技術の発展は享受するべきである。余程大きなデメリットがない限り。まあ、流石に店員が完全機械化してしまうと寂しい気もするけれど。

 とかく、ぼくらのアデノシン三燐酸の代わりに電気エネルギーが仕事をしてくれているのだ。本当に便利な世の中。


 視線を正面に戻す。依然としてカップ麺は静かに湯気を立ち上らせていた。腕時計をみても、まだ二分以上残っている。

 待っているとたった三分も存外長いものである。


 時間とは不思議なものだ。待っていると長いし、夢中になると一瞬である。

 ――何を当たり前のことを言っているの。

 暇を持て余したぼくの脳内で幼馴染の彼女の声が弾けた。もちろん幻聴。ここに彼女はいない。


 彼女とは幼稚園から大学生の今に至るまで縁が続いている。そこまで約十五年。あまりに過ごした時間が長すぎて、彼女が何と言うか予想できてしまいそうだ。

 しかしもちろんそれはただの錯覚だ。彼女がぼくの予想通りに行動したことなどない。だからぼくは彼女と共に過ごしているのだ。


 幼稚園の時は。正直記憶にない。親から聞いた話がほとんどである。何度も親が話すもので、それがぼくの記憶として定着してしまったものもあるけれど。まあ彼女とは仲が良かったのは確かだ。幼き日の無邪気さ。

 小学生の時は、どちらも無邪気に遊んでいた記憶しかない。鬼ごっこをしたり、ボール遊びをしたり、とにかく遊び呆けていた。

 中学生の時に初めて彼女に対する恋心のようなものを自覚した。思春期真っ只中。

 高校生の時は彼女の隣にいるのがひどく楽しかった。彼女のことをもっと知りたいと思っていた。

 そして、今。彼女とはぎりぎり恋人ではない。一周回って恋人とは何たるかがわからなくなっていたのだ。しかしまあ、恋人であれ何であれ彼女の隣にいられたらいいという結論に帰着していた。それは彼女の言葉だったかもしれないけれど。


「将来なあ……」

 過去のことは別にどうでもいい。どうでもよくはないが、大事なのは未来だ。ぼくは一体全体、彼女といつまで一緒にいられるのだろうか。

 彼女だって結婚するだろうし、ぼくらはいつか死ぬ。死別より先にお別れがくるかもしれない。だめだ、哀しいことを考えるべきじゃない。

 いい企業に就職して、好きな人と結婚して、幸せな人生を送る。そんな夢をぼくは思い描いて表情筋を緩ませる。変顔はともかく、頭の中で夢を描くのは自由だ。

 あと五十年後、彼女が隣にいれば幸せだろうなと思った。


「あら、こんなところできみと会うなんて珍しいわね」

 幼馴染の彼女の声がしたものだから、ぼくは吹き出しそうになった。タイミング。

「や、やあ。奇遇だね……」

 ぼんやりととりとめのないことに思索を巡らせていたぼくは、どうしてかどぎまぎしてしまう。別にやましいことはしていないのに、なんだか恥ずかしい。

 そろそろ三分を過ぎてしまった気がする。麺はびろんびろんにのびてしまっただろう。すぐさまちらりと腕時計を見る。

 しかし、カップラーメンはまだできていなかった。あと三十秒。


 一炊の夢ってこのことかと思った。ご飯が炊けるまでではなく、カップラーメンができるまで。それより短い時間でぼくは人生を夢想できてしまう。やはり栄枯盛衰とは儚いものである。カップラーメンができるよりも呆気ないのかもしれない。

 ならば今を楽しむべきだ。


「きみに会えてよかったよ」

 いきなり何の文脈もなくこの言葉を彼女に伝えたものだから、彼女は大きな瞳を瞬かせて首を傾げた。

「きみってたまにおかしくなるよね」

 何とも辛辣な彼女の言葉にぼくはひどく安心した。現実味があるほうがいい。

「どうも。……ところできみはどうしてここに?」

「それはね――」

 彼女とならいくらでも話していたいと思うのが不思議で、同時にどこか心地よかった。


 そうして話し込んでいるうちに結局三分なんて余裕で過ぎ、カップラーメンの麺は伸びた。

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