第61日 なりたかったもの
幼き頃は夢に溢れていた。何でもできると信じて疑わなかったあの日。純粋無垢な瞳でなりたいと思ったことを素直に口から零していた。
子供の時。それも物心がついてすぐの頃の夢はとてもかわいらしいものが多い。
「ヒーローになりたい」
「アイスやさんになりたい」
「王さまになりたい」
「すきなキャラクターになりたい」
荒唐無稽な夢だと一笑に付すのは簡単だけれど、ぼくからするとその柔軟な夢はひどく羨ましいものに思える。ただ単に悩みのなかった当時が羨ましい。
なぜそんなとりとめのないことを考えているかというと、全てはぼくの前に鎮座する一枚の紙に帰着する。上部に進路希望調査と書かれた紙である。
そう、ぼくは人生の岐路に立たされているのだ。大袈裟かもしれないけれど、確かに今の選択によってぼくの人生は大きく変わるだろう。
「困ったな……」
とはいえ、進路希望調査の質問項目を埋めるのは簡単だ。大学進学かそうじゃないかを選ぶだけ。大学進学の場合は志望校を書くし、就職を選ぶ場合はどこに就職するのかを書く。
実を言うと、プリントは全て埋まっている。大学進学に〇をつけ、志望校の欄を全て埋めた。ここに一切迷いはない。あとは提出するだけ。
ただ大学に行って、何になりたいかが迷子だった。行きたい学部も決まっているけれど、それが本当にしたいことなのかわからない。
はっきり言ってぼくには将来の夢がなかった。適当に生きられたらいいと思っていた。高校に来たのも、人生の選択肢を最後まで増やし続けようとした結果だ。だから勉強だって続けてきた。全てはしたいことが決まった時に諦めずに済むように。
でもいくら選択肢を増やしたとしても、いつかは一つに絞らなければならない。
「何に困っているの?」
ぼくの頭上から透明な声が降ってくる。幼馴染の彼女の声である。紺色の制服に身を包んだ彼女はもうプリントを出し終えたのだろう。どこかすっきりとした表情でぼくの前に立っていた。そういえば小さい頃から彼女はぼくとは違って優柔不断ではなかった。
「……えと、ぼくは将来何がしたいんだろうなって」
でも彼女は笑わなかった。呆れもしなかった。いつも通り真摯な瞳でぼくを真っすぐ射貫く。
「将来……ね。迷っている選択肢でもあるの?」
ぼくは首を振った。
「何も無いんだ、なりたい職業が。だから困っていて。大学に行って、果たして就職したいと思える職業が見つかるのかなって」
彼女はこてりと首を傾げた。
「きみは真面目ね。大学に合格することしか見えていない子もいるくらいなのに」
確かにそうかもしれない。受験に合格することは勿論大切である。しかし受験合格が最終目標になっているのは違う気がする。受験に落ちた時に困るだろうから。
しかし彼女はゆるやかに首を振った。
「……まあ、別にそれが悪という訳ではないとわたしは思うわ。だって大学に入ってからなりたい職業なんて決めたらいいのだから。今は雑念を払って勉強に勤しむことも大事かもしれない」
彼女は俯瞰することが得意だった。だからいつも余裕があるのかもしれない。
「……きみはすごいね。ところで、きみはなりたい職業とかあるの?」
「ないわ」
あっけらかんとして即答するのだから、ぼくは椅子から転げ落ちそうになった。
「え?」
ここはなりたい夢がある流れだろう。将来の夢が決まっている、だからこそ余裕があるものなんだと思っていた。
「ふふ、きみったら面白いのね。わたしは一言も決まっているとは言っていないわよ」
確かに。だからこそ彼女は俯瞰の視点を持てていたのかもしれない。
「じゃあ、少し質問を変えるわ。気分転換。……そうね、きみは小さい時何になりたかったのかしら。幼稚園とか幼い頃の夢は何だった?」
幼い頃の、ぼくの夢。
「一番ありえないので言ったら……お母さんかな」
ここは笑い飛ばしてほしかった。しかし彼女が何か微笑ましいものを見るような生温かい目をしたので、ぼくは慌てて弁明を始める。
「こう見えて小さい頃はお母さんっ子っだったんだよ。きっとお母さんが好きだっただけ。たぶん好きというか、一番身近だったんだろうね」
「すごくいいと思うわ」
「……じゃあ、きみは何になりたかったの?」
彼女はこてりと首を傾げた。柔らかな髪が紺色の制服の上をさらさらと流れる。
「そうね、どうだったかしら……」
そう呟きながら彼女は記憶を辿るように視線を彷徨わせる。質問しておいて自分が答えを持っていないだなんて、彼女にしては珍しいことだった。
「そうだ、わたしは木になりたかったそうよ。母から聞いた話だけれど」
「木?」
それは流石のぼくも予想外だった。何かのキャラクターやら犬猫になりたいというのは聞いたことがあるけれど、まさか生物を超越してしまうとは。
「そう、木。背が高いから羨ましかったの」
可愛らしいような、木以外にも背が高いものがあったような。ぼくが返答に窮していると、彼女は笑った。
「冗談よ、真に受けないで。どうしてかは当時のわたしが母に話していなかったそうよ。だから、真実はもう闇の中。幼き日のわたしはいつも笑ってはぐらかしたそうなの。ただ答えを持っていなかっただけのかもしれないし、秘密にしておきたかったのかもしれない」
何とも不思議な話である。彼女は考え込むように顎に手を添えた。
「でもそうね、推測するとしたら……わたしは見ていたかったのかもしれないわね」
「何を?」
「世界の変遷を」
それが本当だとしたら、幼き日の彼女は賢すぎる。ぼくはどこか現実逃避のようにそう思った。
でも彼女の俯瞰的な視点はそこに起因するのかもしれない。そう思えばなかなかに筋が通っている。
「まあ、今から喋る内容はわたしならこう理由をつけるなって話だから軽く聞き流してね。でも、今もわたしは木が好きよ。なりたいかは置いておいて。
木って長生きするでしょう? そして誰の力を借りることもなく、迷惑を掛けることもなくずっとそこに佇んでいる。何年も、何年も。天災や人の手によって切り落とされなければ千年以上生きる木だってある。
わたしは傍観者になりたかったのかもしれない。ただこの世界がどうやって移ろっていくかを見たかったのかも。まあ、もしこれを幼稚園児だったわたしがまともに考えていたとしたら、随分と嫌な子供だなと思うけれど」
「……すごいね」
木なんて生物ですらないじゃん、と笑い飛ばそうとしたらとんでもない怪物が出てきた。
「木になりたい」にここまで深い理由があったとは。少し彼女の思考回路の一端を垣間見たように思った。無論それは錯覚だろうけれど。
「いいえ、すごくないわ。だってあまりにありえないもの。木が将来の夢だなんて、ねえ? それならきみの『お母さんになりたい』の方が余程現実味があっていいわ」
またその話を持ち出されてぼくは赤面した。
「いや、その夢は忘れて。普通に恥ずかしい……」
ぼくの様子を見てくすくすと彼女は笑った。
「それならわたしの『木になりたい』もなかなかに変だからおあいこよ」
「そういう系なら、ぼくだって水になりたいと思ったことあるよ」
「……水?」
今日初めて彼女はきょとりと目を瞬かせた。なんだかしてやったりという気持ちになる。
「そう、水。有機物ですらないけどね。水って循環するだろう? だから全世界を見れると思ったんだ。水なら姿形を変えてどこにでも行けるからね。ぼくも世界を見たいなと思っていた時期はあるよ。知らない世界の方が多いからね」
ぼくの言葉に彼女はほんのりと笑って言った。
「じゃあ、木のわたしが水のきみを引き留めるのは迷惑かしら?」
大きな目をゆるやかに細めて彼女はたおやかに微笑む。時が一瞬止まったような錯覚を覚える。
どうしようもなくなったぼくは、かくかくとぎこちない動きで首を振った。それを見て彼女はまた笑った。
「ところでそれの提出期限は大丈夫?」
彼女がプリントを指さして言う。
ぼくははっとした。今日の十七時が提出期限。時計は十六時五十五分を示している。
「あっ、やば。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ひらひらと手を振る彼女を後目にぼくは駆け出した。
そうやって何気ない日常は目まぐるしく過ぎていく。
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