第59日 空回りするスランプ

 ぼくは音楽が好きだ。クラシックもジャズもJ-POPも全て等しく好きだ。唯一ロックだけは造詣が浅いが、少なくとも嫌いではない。毎日何かしらの音楽を聴いている。


 ぼくは演奏することも鑑賞することも好きだ。

 しかし残念ながらぼくが演奏できるのは学校で学んだリコーダーと趣味で習わせてもらったバイオリンのみである。だからこそ鑑賞がひどく楽しい。自分の知らない楽器さえも味わうことができる。

 でもプロの演奏を聞く度にこう思ってしまうのだ。ぼくが弾かなくても、彼らが演奏してくれる、と。それも素晴らしく美しい響きで。


 ぼくは無造作に置かれたバイオリンを見つめる。音楽を奏でないそれはただの木の箱でしかなかった。形がやけに凝っていて、弦という飾りがついて、ニスが塗られた綺麗な置物。

 楽器というのは空気を震わせてそれは真価を発揮するというのに、今はそれを奏でられる人がいなかった。


 そこに佇むバイオリンの所有者はぼくだった。でも、その肝心のぼくはバイオリンを弾けなくなってしまった。

 弾けば音は出る。曲を演奏することもできる。しかし、掠れた死んだ音しか奏でられなかった。右手と左手が噛み合っていない、ズレて空回りした音。そんなのは音楽とは言えない。これがスランプというものか。


 バイオリンを見つめながら、ぼくは重い口を開いた。

「ぼくらにはきっと適材適所というものがあるんだ。音楽が向いている人、勉学が向いている人、運動が向いている人、単純作業が向いている人、リーダーたるのに向いている人。俗に言う才能というやつだろうね。

 ……残念だけど、少なくともぼくは音楽に適している人間じゃない。そうやって才能もないのに、プロになるための努力もしなかったんだ。その時間を勉学やら別のことに費やして、音楽を極めるという道を自分から諦めた」

「大抵の人間はそうよ」

 ぼくの隣に座っていた幼馴染の彼女が静かに相槌を打った。その言葉にぼくは少し救われて、そして有象無象に落ちぶれてしまった現実を嘆いた。

「……そうだね。じゃあ、わざわざプロを目指さなかったぼくが、足りない技術で音楽を奏でる意味はあるのかな」

 我ながらぐだぐだと女々しいことを言って気がするが、要するにぼくは今スランプに陥っているのだ。あれほど軽々と弾けたパッセージすら弾けない。

 だからぼくはバイオリンを眺めてぶつくさ言っている。なんとも情けないことに。


 彼女は穏やかに笑った。

 ぼくを侮蔑するような笑いではなく、幼子を宥めるような慈愛の籠った笑い。そうしてぼくをゆっくりと諭すように言葉を紡いだ。

「音楽を鑑賞する喜び。自分が努力せずに音楽を手に入れられるから、それはどこか甘美な響きがあるのよ。自分が奏でられなかった音さえも味わうことができる。

 でもね、それはその楽器を自分が弾く喜びを知った上で鑑賞するからこそ、その甘美さは重畳となるのよ」

 確かにそれは真理なんだと思った。オーケストラを聴いても、やっぱり耳に馴染んでいるバイオリンの音が良く聞こえてくる。たとえオケ全体の音量バランスが完璧だったとしても。


「少なくともわたしはきみの音が好きよ。だからきみが落ち込むようなことは何もないの」

 彼女が優しく慰めてくれるのに比例して、ぼくの胸はどんどん重くなってゆく。

「……でもさ、もうぼくは弾けないかもしれないんだ」

 我ながら随分と甘ったれた言葉だと思った。弾けないんじゃない。思うように弾けないのを恐れて弾かないだけなのだ。本当に情けない。

 そんなぼくの様子を気に留めることなく、ぽんと彼女は手を叩いた。まるで何か名案を思い付いたように。

「じゃあわたしに弾き方を教えてよ。きみが奏でられなかった音を、わたしは知りたい」


 そのまま彼女は音もなく立ち上がり、ぼくのバイオリンを手に取った。そして流れるような動作で構えてみせる。

 彼女は今日初めてバイオリンを持ったはずだ。きっと見様見真似で構えたのだろう。形の大枠は合っているが、どこかぎこちない。

 ああもう少し肩の力を抜かないと。それから……。

 ぼくの体は考えるよりも先に動いていた。彼女の後ろから手を添えて持ちやすい持ち方に導く。

「まあ。大胆ね、先生」

 そう囁いてくすくすと笑う彼女。そこでぼくははっと我に返った。

 目の前には彼女の艶やかな髪とつむじ。視線をおろすと彼女の白いうなじが見える。それから鼻に抜けるサボンの香り。ぼくの手の中にはほっそりとした指が。

「ご、ごめん」

 いきなり男にここまで近づかれたら嫌な気持ちになったかもしれない。ぱっと手を離して一歩後退する。その様を見てやはり彼女は軽やかに笑った。

「きみったら面白いのね。わたしは気にしていないわ」

 だってきみだもの。

 囁くような声にぼくは目眩を覚える。そんなぼくを置いて彼女は続ける。

「でも、きみったら教えるのが下手ね。ちっともわからないわ。だからお手本を見せてよ」

 ぼくの返事を聞く前に彼女は持っていたバイオリンをぼくに手渡した。半ば強引に差し出されたそれを反射的にぼくは受け取ってしまう。冷たい木の感触が手に伝わる。


「ね、聴かせて。例えばそうね……ツィゴイネルワイゼンとかどうかしら。冒頭だけでいいから」

 ツィゴイネルワイゼンは今ちょうどぼくが練習していた曲だった。そしてスランプに陥った曲でもあった。しかもかなり難易度の高い曲。

 ぼくは彼女の顔を見遣る。瞳には悪戯っぽい輝き。これは確信犯だ。

「ほら、はやくはやく」

 彼女はぼくを急かす。ぼくに拒否権なんてなかった。たまに強引なところがあるのだ、この幼馴染の彼女は。でも決してぼくを本気で不快にさせない。そこがまた困ったところだ。

「きみの音を聴かせて」

 念押しのように囁かれた言葉を掻き消すようにぼくは息を吸った。

 そして第一音を弓に乗せる。開放的で、それでいて深みのある音が部屋いっぱいに響き渡る。あれ。音が鳴っている。

 それから間もなく音が細かくて難しいパッセージがやってくる。低音から高音まで両手が駆け抜ける難所。ここも指が回らなくて弾けないところだ。

 しかしそこも難なく弾けてしまった。あれ。スランプはどこに。

 あれも弾ける。これも弾ける。全部弾ける。


 ああたのしい。


 ちらりと彼女の顔を見る。彼女も何だか愉しそうだった。それがぼくにとって一番嬉しかった。

 

 結局最後まで弾き切ってしまった。ぱらぱらと彼女は拍手をくれる。

「やっぱりきみの音が好き。わたしもバイオリンが弾けるようになりたいわ……」

「ぼくはきみのピアノの音が好きだよ。弾いている姿もきれいだし」

 しかし彼女はぼくの言葉なんててんで聞いていなかった。

「今日だけ、もう少し教えてくれないかしら。……そうね、さっきみたいに教えてほしいわ」

 ぼくの脳裏に彼女のサボンの香りが漂う。白いうなじ。すらりとした指の感触。静かな息遣い。途端にぼくはどきどきしてしまう。

「ね、先生?」

 彼女は妖艶に囁く。珍しいこともあるものだ。

「あ、ああ。きみが満足するまで付き合うよ」

「ふふ、ありがとう」

 スランプから抜けたぼくには甘い時間だけが漂っていた。

 それが彼女の負けず嫌いに依るものだとは知らずに。


 

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