第60日 恋は盲目

 恋は盲目という言葉がある。別の言葉で言うところのあばたもえくぼ。恋をした相手の良いところしか見えなくなることを盲目と表現しているのだ。ぼくには無縁の言葉だと思っていた。これまでは。


 この際はっきり言おう。ぼくは幼馴染の彼女が好きだ。そこは誤魔化せない。

 しかしそれが恋愛という感情かはわからない。俗に言うドキドキだなんて感じたことはないし、彼女の前だと緊張して赤面してしまう、なんてこともない。だって幼稚園の頃からずっと同じだったのだ。今更何を緊張するというのだろう。

 けれど彼女の隣の居心地がいいのもまた事実だ。彼女と会話を投げ合うのは楽しい。


 こうやってうだうだ悩むくらいなら告白したほうがいいのだろうか。告白したら何かがわかるかもしれない。

 しかし、ぼくは彼女との幼馴染という関係を壊したくなかった。十年も幼馴染だったのだから、それが変わってしまうのを恐れたのだ。変化は刺激でありストレスとなりうるから。不変は守らなければ続かない。



  或る日の学校からの帰り道。ぼくは幼馴染の彼女と歩きながら他愛も無い話をしていた。お腹が空いたね、今日の夜ご飯はなんだろうとかそういう具合に。これがいつもの日常。


 ふと風が吹いた。秋口特有の、一陣の鋭い風がぼくらを撫でていく。

「寒っ」

 ふるりと身体を震わせながら彼女の顔を見た。ただ寒いねと笑い合うつもりだった。寒さに俯いていた顔を上げる――。

 息が詰まった。


「――――」

 その時彼女が何かを呟く。その言葉にぼくは後頭部を強くぶつけたような錯覚に襲われた。無論物理的には殴られていない。しかし鈍器で殴られたような衝撃だったのだ。晴天の霹靂にも近い感覚をどう言葉で表現しようか。

「……」

 やはりぼくは言葉なんて紡げなかった。どうにもこうにも心がざわついてしょうがない。


 風が吹いたその時。どうしようもないほどに彼女がきれいに見えてしまったのだ。まるで絶世の美女みたいに。

 風に煽られてなびく髪。露になった柳眉。白磁の肌。血色の良い桃色の頬。

 十年以上もずっと隣にいながら、ぼくは生まれてはじめて彼女のことをきれいだと思ったのだ。女性として、美しいと思ってしまった。


 がんと後頭部を打たれたような衝撃はまだ頭に燻ぶっている。

 後頭葉には視覚野がある。だから後頭部に障害が発生すると視覚障害を起こすのだ。それならいっそぼくの視覚を奪ってほしかった。

 こんな勘違いを抱えたまま彼女の隣にいるだなんて考えられなかったのだ。恋心という勘違い。

 ぼくらは幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもない。恋人なんて陳腐な関係にはなりたくなかった。でも今のぼくには恋心に似たものが渦巻いている。風の悪戯によって視覚が勘違いを起こしたのだ。全て視覚の所為だ。

 その時。

「危ない!」

 今度こそぼくの後頭部に衝撃が走った。物理的な鈍い痛み 。しばらくして聞こえた地面に弾むボールの音に、ぼくは自分の頭にボールが直撃したことを悟った。

「痛……」

 そう呟いた次の瞬間、ぼくは違和感を感じ取った。

 目を開けているはずなのに、目の前が真っ暗のまま戻らないのだ。夜になった訳でもなく、意識を失った訳でもない。それは視覚以外の四感が教えてくれた。意識はずっとはっきりとしているし、隣の彼女の声も良く聞こえる。

「大丈夫?」

「……うん」

 ぼくの困惑を彼女は鋭敏に感じ取ったのだろう。纏う空気にどこか緊張を張って彼女は問う。

「嘘をつかないで。どうしたの?」

「ちょっとね。……目が見えないんだ」

 嗚呼きっとこれは罰だ。安易に視界を奪ってくれと願った罰。彼女にドキドキしてしまった罰。罰があるだけマシだ。赦される余地があるのだから。

 ただ、珍しく慌てているであろう彼女の表情さえも見れないのが残念だった。


 一気に視覚が奪われたというのに驚くほどぼくは冷静だった。普段人は八割の情報を視覚に頼っているらしい。つまり今のぼくには二割しか新しい情報が入ってこない。そのほとんどが音なのだから、逆に情報はすっきりしている。

 彼女の澄んだ声だけがぼくに届いた。

「病院に行きましょう」


 彼女に連れられて病院に行ってみたが、おかしなことにどこにも異常はなかった。大きな病院に行って検査もしたが、本当に傷一つついていないのだ。残念ながらどんな腕利きの医者でも、していない怪我は治せない。

「ゆっくりと休息をとればきっとよくなりますよ。お大事に」

 よくわからない痛み止めだけ処方されてぼくは帰宅することになった。


「お疲れ様。お医者様は何と?」

 目の見えないぼくの腕を取って彼女は問うた。いつもより彼女の息遣いが近くにあってぼくはどぎまぎしてしまった。今はそれどころではないというのに。

「原因はわからないんだってさ。どこにも異常はないらしい。だから治療法もないんだと」

 腕から彼女の落胆が伝わってくる。でも彼女はそれを言葉には出さなかった。

「少し、外の空気を吸わない?」

 もう病院にいる用事も意味もなくなったので、ぼくは彼女に連れられるままに歩いた。真っ暗な世界で彼女の腕と息遣いと言葉だけが頼りだった。


 ♢


「ほら、そこ。腰掛けて。ゆっくりね」

「ありがとう」

 ぼくはどうやら公園に連れられたようだ。周りでは幼子が遊ぶ声が聞こえる。今のぼくにはそれを見る術はないのだけれど。

 公園のベンチにぼくらは腰掛ける。座った後も彼女は相変わらずぼくの腕を掴んだままだった。


「……ねえ、目が見えない原因に心当たりはある?」

 彼女の澄んだ声がぼくの脳に染み渡る。どうしよう。せっかく勘違いをする視界が閉ざされたというのに、今度は彼女の芯の通った柔らかい声を堪らなく好きになってしまいそうだ。

「わからない。わかっていたらどうにかしているだろうし」

「それもそうね」

 彼女の細い指がぼくの腕を滑る。くるくると輪を描くように彼女はぼくの腕をなぞらえた。彼女からぼくの気を引こうという意志は感じられない。きっと無意識の癖なのだろう。彼女が思考を巡らせる時の癖。

「……ねえ。ボールが当たる前、きみは何を考えていたの?」

 早速一番問われたくないことを訊かれてしまった。

「……」

 都合が悪くなると口を噤む。ぼくは卑怯だ。

「まあ、それはいいわ。でもきみは思い込みをしていないかしら。後頭部をぶつけたくらいで人は視覚を失うはずがないのよ」

「でも、後頭部には視覚野があって……」

 いつも知識で負ける彼女にようやくまともなことが言えた気がする。たまたま見たネットニュースに感謝した。でも彼女は動じなかった。

「解剖したらそうね。でもボールが当たったくらいじゃ視覚野は壊れないのよ。頑丈な頭蓋があり、脳脊髄液によって満たされているのだから。人間はそんなに脆くないわ」

 一の知識を口に出すと、十や百の知識で返ってくる。彼女の言葉は論理的でぼくはそこが好きだった。

「でも――」

 見えないのは事実だ。そう言おうと思ったのに、彼女の声に遮られた。

「だからね、きみは本当は目が見えるはずなの。いいえ、見えなきゃおかしいの」

 くるくると回転していた彼女の指がぴたりと止まった。そしてするりと腕から手を外したかと思うと、ぼくの肩に添えた。


 ――今のきみは、わたしのことが見えるはずよ。


 耳元で囁かれる、いつもより少し低い声。ぼくは心の中で震えた。だめだ。このままでは声だけで惚れてしまう。そんなぼくを置いて、彼女は黙ってぼくの頭を撫でた。

「今、わたしはきみに魔法をかけてみたわ。目が見えるようになる魔法を。……ほら、目を開けてみて。大丈夫、何も悪いことは起こらないから」

 ぼくに拒否権はなかった。そおっと目を開けてみる。


 ――途端に白い光が目を射す。あまりの眩しさにパチパチと目を瞬かせた。視界が明るい。光が目に染みるが、ロドプシンが正常に作用して時機に慣れるだろう。

「……見える。見えるよ、全部」

 隣で彼女の表情が和らぐのが見えた。どんな魔法を使ったんだろう、この魔法使いは。

「じゃあこれは何本?」

 彼女がぼくの顔の前でブイサインをして見せるから、ぼくは二本と答えた。そこでようやく彼女は顔を綻ばせる。「良かった」と安堵したように零す様を見てぼくも脱力してしまった。

「ありがとう。……ねえ、どんな魔法を使ったの?」

 彼女は悪戯っぽく笑った。まるで御伽話に出てくる魔女みたいに。

「それは内緒」

 ぼくは笑った。彼女も笑った。やはり彼女の笑った顔は何よりもきれいだった。


「……では、きみの弁明を聞いてみましょう。どうして盲目になることを望んだの?」

 再びぼくはがんと頭を打たれたような衝撃に襲われる。ぼくが、望んだ……?

 その困惑を彼女は的確に読み取ったのだろう。つらつらと説明を始める。

「あのね、きみの目が見えなかったのはただの思い込みよ。思い込みとは恐ろしいの。目だって見えなくなるし、喋れなくなることだってある。催眠術に代表されるようにね。大方、きみは目が見えなくなったらいいなんて思ったんじゃない? 何か見たくないものでもあったのかしら」

 図星だった。ぼくは何も反論できなかった。

「……きみの顔を見てしまうと、好きになってしまいそうだったんだ」

 我ながら失笑してしまいそうな理由だ。


 ぼくが恐れていたのはザイオンス効果だったのかもしれない。何度も顔を合わせるうちに好きになるという、名前もついている程な効果によって彼女を好きになるのは何だか違うような気がしたのだ。風が吹いた時の視覚の勘違いだけで恋だの愛だの喚くのはあまりに解釈違いだ。

 否、彼女の顔は贔屓目を引いても整っている。一度視覚が失われてから見ても、やっぱり彼女の顔はきれいだった。勿論モデルだとか女優とかいう美しさではない。ぼくが好ましいと思う顔をしているのだ。

 視覚は回復したがやはりぼくはまだ盲目なのかもしれない。


「好きになったらだめなの?」

 彼女は笑いを含んだように言葉を置いた。少なくともこの場で彼女はぼくより一枚上手だった。

「……だって、ぼくらは幼馴染じゃないか」

「そうね」

「今更この関係を壊したくないんだ。唯一無二のこの関係を」

「意気地なし」

「……そうだね」

 彼女はぼくに対してはまるで容赦というものがない。でもぼくは彼女の歯に衣着せぬ言い方が好きだった。これぞ盲目。


「でも、わたしはきみのこと好きよ」

 些かぎょっとして彼女の顔を見やる。でもすぐに冷静になる。きっとぼくをからかっただけだ。大方悪戯めいた光をその瞳に湛えているのだろう。

 しかしぼくの予想に反して彼女はゆったりと微笑んだ。

「それが幼馴染としてでも、恋人としてでも、何でもいいじゃない。隣にいて楽しい。それ以上何を望むというの?」

 確かにと思った。隣にいられたら何でもいい。結局ぼくは幼かっただけなのだ。恋人を陳腐だと思うのも、「他人とは違う自分かっこいい」というような幼さの露呈でしかない。それに気が付いて少し恥ずかしくなった。


「ねえ、わたしのことを見て。きみの目で」

 ぼくの視界いっぱいに彼女の顔が映る。やっぱり彼女はきれいだった。

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