第58日 優しさのレゾンデートル

 幼馴染の彼女は誰に対しても優しかった。


 朝。高校へ登校しようとぼくは幼馴染の彼女と二人で道を歩いていた。通勤ラッシュの時間帯なのか、道はスーツやら制服に身を包んだ人で溢れている。誰もがせかせかと足早に通りすぎる。

 その人の波に揉まれてぼくらは歩いていた。社会の環に取り込まれるとはそういうことだ。別にこれが総てではないが、少なくとも可視化された一例ではあると思う。


「あ」

 目の前でか細い声がしたかと思うと、鮮烈な赤が道に散らばった。そう、林檎が道に転がったのだ。

 ごろんごろん。

 大きく熟れた林檎がモノトーンだった道に精彩を広げる。目の前を歩いていた婦人の紙袋が何かのはずみでひっくり返ってしまったようだ。婦人は慌てて林檎を集める。道行く人は林檎を避けてそのまま進んでいく。誰も婦人には気を留めない。ただ林檎を踏んで転倒しないように、或いは林檎を潰して自分の靴を汚さないようにするだけ。朝の忙しい時間帯、誰もが無関心を貫いていた。

 その時。


「大丈夫ですか」

 ぼくの隣にいた彼女が一歩前に進んで林檎を拾い始める。一つ。二つ。三つ。彼女の細い腕の中に林檎が収まっていく。拾っては婦人に渡し、また拾っては渡す。ぼくも彼女に倣って林檎を拾い始めた。拾いながら、婦人はどうしてこんなに沢山の林檎を持っていたのだろうと不思議に思った。合計したら相当重いだろうに。

「ありがとう、助かったわ。お礼に何かしたいのだけれど……」

 婦人の言葉に、間髪入れず彼女は答えた。

「いいんです。別に見返りを求めてしたのではないんですから」

「……若いのに立派ね。本当にありがとう」

 一瞬言葉に詰まった後、婦人は顔に皺を寄せて微笑んだ。そうしてぼくらに軽く会釈をして去っていく。その背中は行き交う人に紛れてすぐ見えなくなった。たぶんもう二度と会うことはない。


 ぼくらも再び歩みを進める。悠長にしているとぼくらだって学校に遅刻してしまう。

 だからこそぼくは彼女にこう言った。

「きみは優しいね」

 ぼくは素直に感動していた。ぼくが一人だったらやはり素通りしていただろう。厄介事に巻き込まれたくないからだ。もしあの婦人が危険な人だったら。もし林檎を盗もうとしたと勘違いされたら。

 否、それは言い訳だ。誰もしなかったからぼくもしなかったのだ。大勢に身を任せるのは簡単で楽だから。結局ぼくは言い訳を探していたのだ。


 ぼくの予想に反して彼女は困ったように笑った。褒められて照れているとか、謙遜してるとかそういう苦笑とは少しニュアンスが違っていた。

「わたしは優しいのではなくて、優しいと思われたいだけなのよ」

 そう言って彼女は目を伏せた。まるで自身の行動を恥じるように。でも、ぼくにはそれだけのようには思えなかった。優しいと思われたいだけで、あの場において林檎を拾えるのだろうか。別にあれを見過ごしてもきっと彼女の評価は下がらない。だって大勢が通り過ぎるという選択をしていたのだから。


「それでもきちんと行動できるきみは優しいよ」

 それでも彼女は最後までうんと頷いてはくれなかった。

「わたしはね、何も考えていないのに優しい人が一番優しいと思うわ。わたしみたいに優しく思われたいと考えて行動するなんて本当は間違っているの」

「……」 

 ぼくは何も言葉を返せなかった。「間違っていないよ、きみは優しいよ」。そう言うのは簡単だ。でも、今回の彼女の言葉は別に慰める対象ではない。だって慰めるということは彼女が間違っていると肯定するようなものだから。

 ぼくは彼女の言葉を肯定も否定もしないように口を噤む。卑怯だ。


「わたしはね、こう見えて性悪説よりも性善説を推しているの。でもそれはわたしの願望でもある。きっと誰しもが優しくありたいと望むがために、優しいと思われたいと思っているのよ。少なくともわたしはそれを望んでいるわ。

 でもやっぱり社会って性善説の上に成り立っていると思うの。全ては優しく思われたいというところに収束するのだから。人を殺してはならないのも、社会のサイクルに組み込まれるのも、優しく思われたい、人から良く思われたいということが根源なのじゃないか。そうわたしは考えているわ」

 

 残念ながら利発でないぼくの頭は彼女の言葉の半分くらいしか理解できなかった。

「……きみがそう言うなら、そうなのかもしれないね。言われてみればぼくだって優しい人間だと思われたいよ。今まで考えたことなかったけど……」

 彼女は微笑んで頷いた。

「だからね、何も考えていないのに優しい人が羨ましいのよ」

 大して羨ましくなさそうに彼女は言った。それどころか、どこか悪戯っぽくぼくに笑ってみせた。その意味をぼくは考える。

 

 きっと思慮深い彼女は、浅慮なことをそこまで羨ましく思えないのだろう。彼女は思慮深いというか、思考を巡らせるのが好きだから。何も考えずに社会の波に揉まれているだけの人を彼女が憧れることはない。彼女は自分で物事を考えて生きることに重きをおいているから。

 ──何も考えていない。

 残念ながら、今しがたぼくはそのような趣旨の言葉を発したばかりである。だから彼女は薄く笑っていたのだろうか。それならば意地が悪い。

「……それってぼくのこと?」

 彼女は妖艶に微笑んだ。

「『お気を悪くされたのであればごめんなさい。これでも私は本当にあなたのことが好きなのよ』」

 まるで何かの劇の科白を読み上げるように口ずさんだ。自身の唇をすらりとした指がなぞらえる。その仕草にはさながら侯爵夫人のような気品があった。侯爵も侯爵夫人も見たことなんてないけれど。

「何の映画の引用? それとも本の引用?」

「さあて、どうかしら。じゃあおまけにあと一つ。『人は誰しも良心に従って動いている。しかしその良心が正しいかは我々が判別できるものではない。良心に含有される優しさもまた然りである』」

 やっぱり意味が解らずぼくは首を傾げる。彼女の言葉は難解なものばかりだ。

「えと、どういう意味?」

 彼女はころころと笑った。

「一つきみに言っておくとすれば、こうやって何かの引用ばかりする人は信用してはならないということかしら。本心をはぐらかそうとしていることが多いのだから」

「じゃあ、きみの言葉は信用しても大丈夫だね」

 彼女は初めて仮面のような笑みを消した。ほんの一瞬。ぼくじゃないと見逃してしまうくらいだ。瞬きした次の瞬間にはいつもの笑みが口元には戻っていたのだけれど。


 そう、きっと彼女の言葉に引用なんて一つもなかったのだ。科白めいた言葉も全て彼女の言葉。きっとそれは照れ隠し。

 それをぼくはいじらしいなと思ってしまったのだ。先程までの理知的な言葉との落差に眩暈がしそうになる。俗に言うギャップ萌えというやつだ。ああ困ったな。


 隣ではにかんだように笑う彼女が、たまらなく可愛らしく見えてしまう。

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