第57日 一日で一年
地球温暖化が急速に進み始めて早半世紀。この世界の四季はすっかり狂ってしまった。春や秋と呼べる日が年々と減少し、今や夏と冬の二季しかない。暑いか寒いか。ただそれだけ。
別に春の花が絶えたわけで訳ではない。しかし、桜の花は咲いたかと思えばすぐに散ってしまうし、紅葉だって瞬きする間に終わってしまう。これだけで春や秋が存在するとはいえない。少なくともかつての美しい四季を知っている者にとっては。清少納言だってさぞかし嘆いていることだろう。
そこで近年開発されたのが『四季体験施設』である。遊園地と同じで誰でも娯楽として利用できる。完成されるまではえらく注目を集めていたが、完成後一か月もすると閑古鳥が鳴いていた。それもそうだろう。四季が失われてからまだまだ日が浅い。この施設は登場が早すぎたのだ。
しかし、今日ぼくはこの『四季体験施設』を訪れている。幼馴染の彼女と共に。
大学生のぼくらは学生割引を使ってこの施設に入った。映画でも水族館でも使える学生割引。なんともありがたい制度だ。
「ねえ、楽しみね」
どこか軽い足取りでロングスカートをはためかせて彼女は笑った。
そう、今日この施設に遊びに行こうと言ったのは彼女だ。彼女の興味の対象はいつも不思議だ。もちろん世の大学生よろしく映画や遊園地に行くこともあるのだが、こうやってたまに誰も行かないようなところにも同じように快楽を見つけてみせる。
ぼくとしては、彼女といたら何でも楽しくなるのだからどこでもいい。たとえそれが誰も好まないところだったとしても。
「ここは一日で一年を体験できる施設です。どうぞお楽しみください」
スーツを着た紳士のような青年がぼくらに一礼した。それに適当に相槌を打ってぼくらは奥の部屋に歩みを進める。ロッカーに荷物を預け、パーカーやら体温の調節しやすい服を重ね着したぼくらは重厚な扉の向こうへと足を踏み入れた。
♢
「わあ、夏ね……」
彼女が感嘆の声を洩らす。
そこには蝉が鳴いていて、眩しいほどの光がぼくらを照らす――訳ではなく、ひどい嵐だった。なんでだよ。むわっとしたねちこい湿度がぼくらに纏わりついた。
開幕早々、ぼくらは大雨に降られる。傘をもってこればよかったと思ったが、この激しい風の中では無用の長物となってしまっただろう。それくらいひどい嵐だった。しかし夏の所為か寒くはなかった。むしろどこか生ぬるい。
「わたしたちが人間でよかったわ」
彼女の言葉の趣旨が解らずぼくは首を傾げた。彼女の突拍子もない言葉には慣れたつもりではあったが、まだ全ての意味が理解できる段階には達していない。
「どうして」
「だって、もし植物だったら枯れてしまっていたわ」
確かにこんなひどい嵐に曝され続けたら死んでしまうだろう。でもぼくらだって風邪をひいてしまう。晴れ続けてもだめ、雨が強すぎてもだめ。根を張って同じ場所に生きる植物にとって、天気は生き死にを決める運試しだった。しかしそれは穀物を主食とする人間にとっても同じだった。
でも人間は歩くことができる。穀物のある場所まで移動できる。
だから彼女は人間で良かったと言ったのかもしれない。しかし、それが人間である必要はない。だからもっと別のことを指していたのかもしれない。
「……そうだね」
ぼくの小さな返事はたぶん雨音にかき消されてしまった。
それにしてもこの施設はどうしてわざわざ夏の雨から始めるのだろう。これが人気の出ない理由じゃなかろうか。少なくとも雨は降らせなくてもいいんじゃないかとぼくは思った。
「ねえ、これヴィヴァルディの四季みたいね」
ああ、なるほど。だから夏は嵐。
ふふっと彼女は雨を注ぐ天に向かって笑った。彼女の髪から雫が垂れる。白い肌に何筋もの水が流れていく。不覚にも綺麗だと思ってしまった。
そこで視界がぐいんと変わった。作り物の雨も、湿った空気も、一瞬のうちに消え去る。
♢
目の前には黄色の葉をつけた
ザァァと風が吹いて銀杏の木から黄色が舞った。ふうわりと宙を彩るそれを背景に、彼女はじっと地面を見つめていた。うん、絵になる。
「何を見ているの」
ぼくは彼女の見ているものを見たいと思った。
「この落ち葉の山に倒れたらふかふかと受け止めてくれるのかしら」
興味を瞳に浮かべて彼女は笑った。まずい、この目は本気だ。
これが本物か偽物かはわからないが、落ち葉の山の中に何があるかはわかったものじゃない。蛇でもいるかもしれないし、毒のある虫だっているかもしれない。そもそも五歳の子供じゃないんだから、落ち葉に倒れ込みたいなんて願望は少し、いやかなり変わっている。
「……落ち葉に倒れるのが小さい頃の夢だったの?」
そうであってくれ。幼き日に抱いた願望は意外と大人になっても心に残っているものである。それが蒸し返しただけであってほしかった。
「いいえ。ただ、暖かいのかなと思って」
彼女の言葉の節々に滲み出る好奇心。大方、本で読んだ知識だろう。ここまで長年一緒に居ると何となく予想がつく。ぼくは溜息を吐いた。
落ち葉を暖かいと感じるのは、余程サバイバルな場面だけだ。或いは冬眠する生物にとってのみ。ぼくらは限りなく安全地帯にいるのだし、冬眠だってしない。きっと恒温動物のぼくらにとっては冷たく感じるだろう。
でもこう言っても無駄だ。ぼくの理屈的な軽い言葉で納得するなら、彼女は本を読んだ時点で興味を捨てることができている。だからぼくはアプローチを変えてみることにした。
「服とか汚れるよ。せっかく綺麗な服なのに」
それこそ落ち葉の山の中には虫だってわんさかいるだろうし、潰れた木の実だってある。湿った木の葉や泥だって彼女の綺麗な服を汚してしまう。彼女がそれで汚れてしまうのは勿体無い気がした。
「いいの。わたしたち人間だってきれいじゃないじゃない」
そう唱えながら彼女はキャラキャラと笑って舞い散る銀杏の葉に振られる。無邪気な笑顔。限りない黄色に照らされてとてもきれいだった。
そしてぐいんと視界が変わった。
♢
そこは一面の雪だった。ぼくらは雪の少ない地方に生まれ育ったので、銀世界というのは久しく見ていなかった。隣で彼女がふるりと体を震わせた。
「寒いわ……」
この施設は温度管理までできるようで、確かに室温は凍えるように寒かった。夏が恋しくなる。人間って現金だ。彼女に話したら主語が大きいと怒られそうだけれど。
「うん、寒いね」
吹雪いてきた。雪の演出も見事だ。この雪のようなものも、拡大したら結晶になっているのだろうか。
こんな吹雪いている時に外を出歩いたことがないからとても新鮮だった。浅い物言いだとは思うが、なんだか自然の厳しさを味わっているような気分になる。そう。便利になった時代に生まれ育ったから忘れかけているが、ぼくらはいつだって自然には勝てない。
先程鮮やかに舞い散っていた黄色は白に変わってしまった。或いは銀。どうして降ってくるものは綺麗なんだろうなと思った。雨にしても、銀杏にしても、雪にしても。はらはらと舞い散る何かはとても美しくぼくの目に映った。春に降るのはやはり桜の花びらなのだろうか。
それにしてもあまりにも寒い。骨の髄まで冷えてしまいそうだ。鈍くなっていく指先の感覚とは反比例して思考だけが研ぎ澄まされていく。
彼女に上着を貸そうか、と言おうと思った。でも彼女はそれを望まないだろうなとも思った。ここに来た意味が半減してしまうから。
「ふふ、手がかじかみそう」
生きているみたい。囁くように彼女は言って手をこすり合わせた。
「ぼくらは生きているんだよ」
知っているわ、と彼女は笑った。またもや、ぐいんと視界が変わった。
♢
春だった。幼い頃はよく見た光景。色とりどりの花が咲き、柔らかな日差しがぼくらを包み込む。あちらこちらに桜が咲き、花びらの雨を降らせている。
「桜の花びら、捕まえた」
彼女は無邪気に花びらを手に乗せて笑って見せる。その顔をぼくはよく知っていた。
――ひどく懐かしい気持ちに襲われる。小学生の時の入学式の光景が蘇った。否、桜が咲いていたのは卒業式だったか。
とかく別れと出会いの季節には必ず桜がそこにいた。今もいないわけではないが、桜はいつも青々とした葉を茂らせている。桜と言えばやはり花だ。白から薄桃の花びらがはらはらと散る様は、吹雪の冷酷さとは違って優しかった。
「やっぱりわたし、春が好きだなあ」
そう言いながらくるくると桜の木の下で回って見せる。ゆっくりと、春を享受するように。どこまでも楽しそうに。誰よりも春に快哉を叫んでいた。
ヴィヴァルディの四季だって春は明るかった。春の嵐だって途中に訪れるが、最後はやっぱり陽だまりのような綺麗で華やかなメロディーで終わる。
♢
そうしてぼくらの四季体験は終わった。あんなに大雨に降られて吹雪にも曝されたというのに、不思議と服も髪も濡れていなかった。銀杏の葉一枚、花びら一枚さえもついていなかった。
「たのしかったね」
頬を薄桃に染めて楽しそうに笑う彼女がとても可愛い。
――ああ、思い出はきちんと残ったか。
なら、桜にも銀杏にも未練はない。
「ご来店ありがとうございました」
スーツの男がやはり丁寧にお辞儀をしてくれる。内容よし、スタッフよし。どうして世間の評判が悪いのかとぼくは不思議に思った。
――思い返せば、ぼくらは大したことをしていないのだ。ただ景色が変わる様を見ただけ。さながら4D映画を視聴するように。そして映画とは違ってメッセージ性もストーリー性もないのだ。かつてはありふれた日常を、どうして金を払って体験しようとするのか。これが世間一般の感想だ。
でもぼくはすごく楽しかった。それは彼女がいたからなんだろうとしみじみ思った。
なんて、柄にもないことを口にしてみようかな。
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