第56日 本に絡まる記憶
中学生の頃の記憶というものは、断片的であれど存外残っているものである。
♢
夕暮れの教室。否、あれは昼下がりだったか。それも違うな、白い朝日の眩しい朝の教室だったかもしれない。とかく誰もいない教室に、幼馴染の彼女が一人椅子に座っていた。窓から差す光と相俟って、まるで宗教画みたいな荘厳な雰囲気。
彼女は本を読んでいた。ただ静謐な教室に、頁を繰る音と彼女の微かな息遣いだけが漂っている。その空気を壊さないようにぼくは静かに歩いた。足音もなるべく立てないように、そろりそろりと。こんな時に限って鳴る上履きのゴムの音を恨めしく思った。
そうしてようやく彼女の近くに辿りついた。彼女の視界に入る所に立っているのに、それでも彼女はぼくを一瞥することもなく本を読み続ける。でもきっとぼくの存在は認知しているのだ。ただ本の方が優先順位が高かっただけで。
光に透けるような柔らかい髪。白磁の肌。長い睫毛。その下で絶え間なく上下運動を繰り返す瞳。その瞳に映るのは文字だった。白い紙に刻まれた黒いインクの活字。
ぼくはこのまま教室の風景の一部分になってしまいたかったけれど、先に口から言葉が零れていた。
「……ねえ、どうしてきみはそこまで本を読むの」
単なる興味本位だった。ぼくも本は嫌いではないけれど、彼女のように四六時中本を読んでいたいというような本の虫ではなかった。全てのジャンルを遍く読み漁る彼女とは違って、偏った趣味の本しか読んでいなかった。
「さあ。好きだからかしら」
読んでいる本から目を離すことなく彼女は答えた。何故か彼女の台詞には疑問符がついているように感じた。生返事のようにも思えるが、どうしてかぼくには彼女にもその答えが本当にわかっていないようにも思えたのだ。
「……それ以外の理由は? 好きだからにしては、本に対する執着が強すぎるように思えるけど」
小学生の時も彼女は本を読むのが好きだった。しかし、ここまで本を貪るようにして読むような少女ではなかった。
ぼくの言葉に、忙しなく動いていた視線がぴたりと止まる。そして彼女はようやくぼくの方を向いた。それにぼくは何とも言えないささやかな喜びを感じてしまった。
それが何か今ならよくわかる。要するに思春期だ。
「今日のきみは不思議ね。いつもはここまで踏み込んで言ってこないのに」
彼女の瞳にも胡乱の二文字が映っていた。それは比喩だ。本当に映っているのはぼくなのだから。
「そうだね。でも知りたいと思ったんだ。どんな本にもきみのことは書かれていないんだから、きみに直接訊くしかないだろう? それにもしきみのことが書かれている本があったとしても、そこにぼくは求める正解はないんだから」
なるほどというように彼女は頷いて、それから読んでいた本を丁寧に閉じた。どこか名残惜しそうに見えたのはぼくの錯覚だろうか。
「……確かにそうね。わたしは本を読むのが好きだけれど、だからといって人とのコミュニケーションを等閑にしたいわけではない。本当はきみに声をかけられたときに本を閉じるべきだった。たとえ展開が佳境に入っていたとしても、ね。わたしはきみに甘えてしまっていたのかもしれないわ」
申し訳なさそうに言う彼女にぼくはぼくを恥じた。確かにゲームのいいところで声をかけられたら、ぼくだって同じような反応をしてしまっていたかもしれない。ぼくらはまだ子供で何でも本気になってしまうお年頃なのだから。
それでも彼女の甘えてしまったという言葉にぞくりとした。あの冷静沈着でどこまでも自立した彼女が、ぼくに甘えていた?
「いいや、ぼくの方が悪かったよ……。えと、もう少し待とうか?」
「いいのよ。わたしが子供だっただけだから。それにもう頁は閉じてしまったわ。……で、きみの要件は?」
そう言われるとぼくは逆に困ってしまう。「本当に、ただきみのことを知りたかっただけなんだ」と言ったら彼女はどんな表情をするのだろうか。そんなことのために読書を中断させられたのかと怒るだろうか。呆れるだろうか。はたまた。
「いや、大したことではないけど……。ただ、どうして本をそんなに読むのかなって純粋に不思議に思っただけだよ」
ああ、そのこと? と彼女は目を伏せて考え始めた。
「そうね……。強いていえば、わたしはきみにいい記憶だけを植え付けたいなって思ったのよ」
ぼくには彼女の言葉の意味の一割も理解ができなかった。
それがぼくの顔に出ていたのだろう、彼女はそのまま続ける。
「わたしは自分がただバカ騒ぎしているだけの幼馴染だって思われたくなかったのよ。数十年後きみがわたしを思い出す時、知的な幼馴染が一人いたんだなって思い出してほしいなと、そう思ったの」
そこで彼女は言葉を切り、ゆったりと微笑んだ。その表情はとても大人びていて本当に同い年とは思えなかった。
「それは、どういう……」
ここで引き返しておいたほうがいいと脳が警鐘を鳴らす。しかしもう手遅れだった。
「好きな人の記憶にはきれいなわたしを刻んでおきたいでしょう?」
ぼくの息の根が止められる音がした。言葉を返せないぼくを置いて彼女は続ける。
「とはいえ、その知的さのために本を利用するのは酷い冒涜だと思うわ。本は知的な雰囲気を提供するのではなく、知識を提供するものなのだから。そこを履き違えた者に心を開いてくれるほど本は寛容ではないとは思っているわ。そもそも知的とは何かさえも履き違えているだろうし」
「……」
「でもね、わたしはこれでも本が好きなの。年齢が上がってきて読める本も増えてきた。語彙も基礎知識も段々と増えてきて。知らなかった世界をまた知ることができる。自分が一生を懸けても経験できなかったことを知ることができる。だからわたしは本が好き。自分の矮小さを知ることができるから」
そう言いながら彼女は愛おしそうに本を撫でる。彼女は誰よりも本を大切に扱う人だったなと、ふと思い出した。
「……ぼくは、きみのことを知的で賢い人だと思うよ」
彼女はこてりと首を傾げた。長い髪が制服の上でさらさらと流れる。
「なあに、藪から棒に。別にわたしは慰めてほしいなんて望んでいないわよ。お世辞なら尚更」
「慰めじゃなくて。ぼくはそこまで知識のある人間じゃないから、きみがひどく賢く見えるんだ」
彼女は黙ってぼくの言葉に耳を傾けている。ぼくの真意を見透かすような双眸がこちらを見つめる。
目は口程に物を言うというが、ぼくには彼女の考えていることはわからなかった。ただどこまでも綺麗な瞳だった。
「だから、きみは知的に振る舞わなくても十分に知的だ。少なくともぼくはきみのことをバカ騒ぎするような人間だと思ったことはない。きみにはぼくがそうだと思われてはいるかもしれないけれど……」
語尾が情けなく尻すぼみに消えていく。思い当たる節は幾らかあるので。そもそも彼女が知的でありたいなんて思い始めたのはぼくの振る舞いを見たことが契機だったりして。ああ困ったな。
「……でもさ、ぼくがこんなのだからこそ、きみは知的に振る舞う必要なんてないんだよ。ぼくはありのままのきみが好きだし、別に着飾らなくてもいいと思うんだ」
「まあ熱烈」
彼女がからかうようにぼくに笑って見せるので、ぼくは自分の言葉を反芻した。とたんの顔に熱が集まるのを感じた。「ありのままのきみが好き」。ああやっちゃった。
「あ、これは違くて、いや違わないんだけど、」
ぼくは何故かひどく慌てふためいてしまった。何もやましいことはしていないのにしどろもどろになってしまう。
彼女はそんなぼくを見て朗らかにわらった。目を瞑って、さぞ面白そうに。深淵のような瞳が瞼に隠れただけなのに、その顔はあまりにも年相応だった。
――どんな本を読んでもきっとこの笑い方をしないんだろうな。
そんなどうしようもないことに、ぼくは無性に嬉しくなってしまった。ぼくも彼女と笑った。まるで青春の一頁。
ようやく笑いを引っ込めた彼女はぼくに言った。
「だからわたしはきみといるのよ」
♢
そんな淡い断片的な記憶。確かにぼくの記憶にはきれいな彼女が刻まれていた。あの日の彼女の思惑通りに。
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