第45日 本物でよかった
ぼくはしがない会社員だ。どこにでもいる、ありふれた成人男性。
朝はAIによる完璧な周波数のアラーム音によって起こされる。今は朝食のトーストを加えながら、空気中に投影されたホログラムのニュース記事を読んでいる。
幸か不幸か大気汚染の結果、大気中に漂う塵に画像が投影可能になったのだ。科学技術の進歩というのは凄まじく、今や視線だけでスクロールできるようになっている。便利なものだ。
今日一番の記事はクローン人間についての記事である。科学者の誰々がクローン人間を作ったため警察に追われているというニュース。
クローン人間の作成は倫理的な問題から禁止されている。随分と前から禁忌とされているというのに、今更誰が作ったというのだろうか。
科学者の名前は短く
ま、ぼくには関係のないことだ。ニュースの九割はぼくから遠い世界で起こっていることなのだから。
トーストを食べ終わるといつもの如く鞄を持って外出した。今時全てデジタルだから、鞄はとても軽い。
ふと子供のころの異様に重かったランドセルを思い出した。そこに紐づいた記憶、いつも一緒に通っていた幼馴染の彼女の笑顔が蘇る。赤いランドセルを背負っていた彼女は、今どこで何をしているのだろうか。
カチャン。
玄関扉を閉めただけでオートロックの鍵が掛けられた。機械は忘れることがないのだから、ぼくよりもずっと賢い。
自宅の扉を出たところでぼくの目の前に屈強そうな男が立ちはだかった。黒いスーツに身を包み、いかにもな黒いサングラスをかけている。たぶん初めましての人だ。参ったな。
「あの……何用で?」
ぼくが警戒を怠ったのが悪かった。男は何も言わず白いハンカチを取り出すとぼくの口にあてがった。最新の催眠薬だろう。ぼくの意識はすぐに落ちた。
暗転。
♢
「……」
目を開ける。すぐさま無機質な灰色の床がぼくを迎えた。ぼくは椅子に腰かけていて、後ろ手に縄を縛られているようだった。脚も椅子に括りつけられていて、身動きは全くとれない。縄から抜け出す練習をしておけばよかったな、と何とも役に立たない後悔をする。
まあ、どうせ縄抜けできたとしてもこの部屋からはきっと出ることができない。武器もなければ優れた身体能力もないのだから。
ぐるりと首の回る限りこの部屋を観察する。残念ながらこの薄暗い部屋には何もなかった。ぼくと椅子と縄があるだけ。あとは天井に埋め込まれた照明と、一つの扉だけ。このまま誰も来なければぼくは餓死して終わりだ。
「何か悪いことしたかなあ……」
ぼんやりと唯一の扉を見つめる。無遅刻無欠席だったぼくの皆勤記録に疵がついたなと少し悔しくなった。
余りにも暇だったので、扉に向かって変顔をして遊んでみた。表情筋を動かすのはいいことである。そういえば幼馴染の彼女はこれでよく笑ってくれたっけ。
そのときタイミング悪くがちゃりと扉が開いた。
「ふっ」
ぼくを見るなり笑いを零しながら部屋に入ってきたのは――なんと幼馴染の彼女だった。
白衣を羽織って凛とした佇まいの彼女には、あの頃のあどけなさはもう残っていない。
否、そんなことはどうでもいい。それよりどうしてこんなところに彼女が。
「久しぶりね。いきなり手荒な真似をしてごめんなさい。それしかきみを連れてくる手段がなかったものだから」
言葉とは反して、大して悪びれずに彼女は言った。少し低くなってはいるが、確かに彼女の声だった。
でも、少しだけ違和感。なんだろう、本物のはずなのにどこかつくりものめいているというか。
ちらりとクローン人間という言葉が頭を過ぎった。いやいやまさか。ニュースで読んだだけだ。遠い世界の話に決まっている。
「……久しぶりだね。きみが元気そうでよかったよ。ところで、どうしてぼくをここに連れてきたの?」
率直な質問だった。ぼくと彼女の仲だ、別に呼び出してくれたら幾らでも赴いたのに。
「時間がなかったからよ」
彼女の答えは少し的外れだった。続けて彼女は言葉を紡ぐ。
「あのね、わたしはクローン人間を作ってしまったの。きみもニュースで見たかしら」
がんと鈍器で殴られたような衝撃が走った。
――うわ、遠い世界の出来事じゃなかった。
余りにも近すぎてぼくの脳は現実逃避を始める。
「うん、見たよ。……まさか、科学者
どこか彼女は誇らしげに頷いた。
「そうよ。いかにも、わたしが
「何を」
「わたしのコピーがどんな行動をするのかを」
はあ、とぼくは特大の溜息を吐いた。
結局興味本位だったのだ。でもぼくは彼女を咎めなかった。これは昔からの彼女の悪癖だったから。気になったことはとことん突き詰める。その姿がぼくは好きだったし、尊敬すらしていたから。たぶんこれは誰が止めても効かない。
「で、どうしてぼくをここに?」
肝心の質問の答えはまだ手に入れられていなかった。もう会社の皆勤賞はどうでもいいが、どうしてその問題にぼくが関与しているかはてんでわからない。そしてわからないとは恐怖である。
ただじっと彼女の言葉を待つ。
「……ねえ、どっちのわたしが本物だと思う?」
「は?」
ぱちりと彼女が指を鳴らすと、もう一人の彼女がやってきた。背丈も恰好も顔つきもそっくりそのまま。歩き方まで同じだ。扉を開けてからここに到達するまでの時間も同じ。
なんだかとても懐かしい気がした。それはただの直感だったけれど。
二人目の彼女がぼくの元に辿り着いた頃、一人目の彼女はぼつりと呟いた。
「困ったことにね、どっちがコピーでどっちが本物かわからなくなってしまったの。自分でもばかだなと思うんだけれど」
二人の彼女はお互いに顔を見合わせる。まるで双子みたいだ。
「ちょ、ちょっと待って。どうして年が同じなんだ」
彼女が自分の体細胞の核を植え付けてから、クローンが彼女と同じ年になるまでいは、彼女が育ったのと同じだけ歳月を必要とするはずだ。でも、目の前に佇む二人は、全く同じ年に見える。
「ああ、科学の力は偉大だから。成長を早めることだってできるのよ」
「じゃあ、記憶は?」
記憶は遺伝子に規定されない。クローン人間が見本と全く同じになりえないのはそのせいだ。そして記憶によって情動も変わる。だからクローン人間に意味はない。
しかし彼女はあっけらかんとして言った。
「つい先日私の脳データを移植したの」
そしてどこかばつが悪そうに視線を逸らして、
「そのせいで本物がどちらか解らなくなってしまったの……」
嗚呼、とぼくは溜息を既のところで吞み込んだ。そのままゆっくりと天を仰ぐ。そこにはやはり無機質な灰色の天井が広がっていた。
たぶん人間がここまで踏み込んではならなかったのだ。少なくとも記憶の領域には抵触してはならなかった。
「わたしはね、ただ気になっただけなの。でも困っちゃうよね。コピーなのかさっぱりわからなくなっちゃった」
ねーと二人で全く同じ顔を見合わせている。まるで双子みたく。ぼくは頭を抱えたくなった。手を縛られていたからできなかったけれど。
「あともう一つニュースがあるわ。わたしがここにいることはとうに警察にバレているの。明日にでも、わたしたちのうちどちらかが逮捕されて殺されるわ」
クローン人間の作製は極刑に処されると法律で定められている。しかし、この場合クローン人間を殺せば罪に問われないことになっている。不思議な法律だ。
きっと研究者が不足しているこの時代、クローン人間を作れるほどの技術を持った優秀な研究者を殺すことは望ましくないのだろう。この国の発展において。
なんでこんなことに巻き込まれたんだろうな。ぼくは二人の幼馴染を見つめながらどこか他人事のように思った。そんなぼくを置いて、二人の彼女はぼくを縛る縄を外していく。
この無機質な研究室に縄なんて旧時代のものが存在しているのが、どこかちぐはぐで滑稽だった。
縄が完全に解けても暴れて逃げ出そうとは思わなかった。たぶん二人はそれを見越していたのだろう。
♢
「で、きみはどっちが本物だと思う?」
彼女らはまったく同じ顔でぼくを覗き込んでくる。これは非常に難しい問題である。ただの余興のクイズじゃないのだ。
ぼくが指ささなかった方は、明日殺される。彼女の顔をした人間が一人殺されるのだ。本物であろうが、コピーであろうが構わず殺される。
しかもその判断基準はぼく。どうしてぼくがその審判に選ばれたのだろうか。彼女を生んだ親でも、全てを裁く神でもあるまいし。
「……きみたちは、どっちがいいの? 生きるか死ぬか」
生きる方も自分のコピーの死を看取ることになる。片方の死を抱えて生きなければならない。
だからクローンなんて作るべきじゃないのだ。行き過ぎた命への介入なんて、人も如何なる生物もしてはならない。
「「さあ。そりゃあ、きみに選ばれて生きたいわ。でも、きみにそんな酷な選択を迫ってしまって申し訳ないと思っているわ」」
二人とも息ぴったりに言うのでぼくは困りきってしまった。
「「でもきみに選ばれたのなら、一番納得できるわ。それが本物でもコピーでもわたしたちは気にしない。だからさ、直感で選んでよ」」
つまりぼくに退路はなかった。ただ選ぶしかない。それが今ぼくがここにいる
「……ぼくは――」
悩みぬいた末、ぼくは一人目の彼女を指さした。
どちらも不平は言わなかった。ただ静かに頷いて、厳然と事実を受け止めているようだった。そこに歓喜も悲哀もない。
「ありがとう」
偽物判定を受けた二人目の彼女は何故かほっとしたように笑った。その真意はわからない。
ぼくは二人目の彼女の頬にそっとキスをした。触れるか触れないかの境目をぼくらはなぞる。
「なあに、死にゆくものへの餞別?」
二人目の彼女は妖艶に微笑んで見せる。
「……まあ、そういうことにしておいてよ」
「優しいのね。ありがとう」
そうして二人は踵を返し、全く同じ歩幅で出て行った。二人が振り返ることは終ぞなかった。
ぼくが指さした一人目の彼女は研究室へ戻り、そしてぼくが指ささなかった二人目の彼女は拘置所へ赴いたらしい。
拘置所。一度は言ったら二度と出られないという、早い話監獄である。一般人は決して入ることができない。よって、一度入ってしまえば外界から完全に遮断されるのだ。
──拘置所へ行った二人目の彼女が、できるだけ悪い目を見ませんように。
ぼくは信じてもいない神に祈ることしかできなかった。
暫くすると、出て行った彼女ら二人の代わりに今朝見た屈強な男がやってきた。そのまま朝と同じようにぼくを眠らせた。きっとここから連れ出してくれるのだろう。ひどく疲れていたので丁度よかった。
♢
その晩、一人の研究者が殺された。暗殺だった。彼女の頭脳に嫉妬していた者によって、それはそれは無惨に。
彼女の研究結果によって彼の者の研究が台無しにされてしまったらしい。研究界ではよくあることだ。今まで信じられていたものがたった一夜でひっくり返る。
ただ不幸なことに、その研究は彼の人生を賭けた研究だったのだ。
彼女の所為で全てを失った彼は、逆恨みで彼女の暗殺に踏み切った。そうして一人の研究者が死んだ。ただそれだけ。
♢
ぼくはAIによる完璧な周波数のアラーム音によって起こされて、いつも通りトーストを齧る。そしてホログラムで宙に投影されたニュースを読む。
速報。クローン人間をつくった科学者
警察の話によると、彼女は容疑者
研究者iは数々の功績を残しており、これからも――
この世の倫理観ってどうかしてる。そう思いながらぼくはニュース記事を閉じた。
立ち上がって服装を整え、鞄を持つ。今日も無遅刻無欠席記録に疵を作らないよう、余裕をもって出勤する。鞄が軽い所為で、また幼馴染の彼女のことを思い出した。昨日とは違って、白衣に身を包んだ彼女の姿が脳裏に映る。大丈夫だったかな。
カチャン。
扉がオートロックで鍵をかける。機械はぼくよりもずっと賢い。感情に左右されずにいつも忘れず鍵をかけてくれるのだから。いってきますと心の中で唱えてぼくは街に足を一歩踏み出した。今日は屈強な黒い男もいない。それが日常。
ピロリン。
センスのない着信音と共に、目の前にメッセージが投影される。
――昨日はありがとう。きみならわかってくれると信じてた。今度、またディナーに行きましょう。 i
「ははっ」
周りの目を気にせず、ぼくは笑いだした。だって、余りにも万事うまくいきすぎているのだ。
一つ、ぼくは彼女の命が狙われていることを知っていた。
一つ、ぼくは拘置所が世界のどこよりも安全な場所だと知っていた。
一つ、ぼくは警察が彼女のうちどちらかが亡くなったら解放することを知っていた。
一つ、ぼくは彼女のうちどちらがクローンかが正しくわかっていた。
これらが一抹も狂うことなく噛み合ったのだから、ぼくは笑うしかなかった。
「おかあさん、あの人へんだよ」
「見ちゃいけません」
三歳くらいの女の子と母親がぼくを遠巻きに見ながら通り過ぎていく。流石にぼくも笑いを引っ込めた。見知らぬ母子を怖がらせる趣味はない。
ほんと、変なことには手を染めるべきじゃないな。ぼくは巻き込まれただけなのだけれど。
目の前には雲一つない快晴が広がっていた。
ああ、ぼくがぼくであるって素晴らしい!
――本当に?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます