第38日 あまりにもちっぽけな
ザザァーー。
――波の音?
ぼくが聴くはずのない音が耳に響いてぼくは目を開ける。途端に鼻を突き抜ける潮の香。少しみじろぎしただけで足元の細かい砂がしゃりしゃりと音を立てた。
そう、ぼくは海の前に佇んでいた。真っ黒で夜を溶かしたような海。そこに揺蕩う月光が静かに夜を照らしている。
ザザァーー。ザザァーー。
黒い海はどうしてこんなにも恐怖を与えるのだろうか。昼間の海はあんなにもうつくしいのに。いや、うつくしいのは同じか。たしかに底冷えするような美しさが夜の海にはあった。畏怖と美は表裏一体なのかもしれない。唐突にぼくはシェイクスピアのマクベスを思い出した。「きれいはきたない、きたないはきれい」という一節。
でもそんな些末な思考は、波の音に漂うハミングに上塗りされた。少し哀しげな旋律がぼくの耳朶を震わせていく。よく知った歌声。透明で、どこか芯のあるソプラノ。声の主は明白だった。
そう、幼馴染の彼女が夜の冷え冷えとした海に足を浸していた。
彼女はゆったりと鼻歌を奏でながら、静かに夜を歩いている。一歩。また一歩。ぼくに背を向けて歩いているので彼女がどんな表情をしているのかはわからない。
不意にぼくは彼女を止めないと、と思った。
「ねえ」
折角彼女を呼んだのに、ぼくの小さな声は波にかき消されてしまった。
「 」
彼女の名前を呼ぶと、ようやく彼女は立ちどまった。でも、こちらには振り向かない。ただ夜空に浮かぶ月に魅入られたがごとく前を見据える。
「どうしたの」
静かに彼女は問うた。彼女の澄んだ声はとても小さかったけれど、海の声にかき消されることはなかった。
「いや……」
どうしたの、と問われると困る。でも彼女を止めなければずっと向こうへ行ってしまった気がする。だからぼくはぼくの行動を微塵も後悔しなかった。
「それ以上進むと危ないよ」
ぼくの言葉に彼女はくつくつと笑った。
「たしかに、人は海では生きられないものね」
でもね、と彼女は続ける。
「生命は海から生まれたのに、そこから進化したわたしたちは海で暮らせない。とても不思議じゃない? そしてわたしはとても残念なことだと思うわ」
確かに、とぼくは思った。でも頷かなかった。どうしてか、陸で生きることを残念だとは思わなかったのだ。ぼくは首を傾げる。そして俄かに合点した。
――ああ、海が見られるからか。
このうつくしい海を眺められるのは陸の生き物の特権なのだ。
そんなことを考えているうちに、彼女はまた口を開いてその薄い唇から言葉を紡ぐ。
「それほどまでにわたしたちは脆いのよ。生命を産んだ海にすら溺れてしまう」
そういって彼女はもう一歩沖の方へ歩みを進める。
「ね、わたしたちの存在はこんなにもちっぽけ」
そういって揺らめく月明かりを背景に彼女はわらう。そうして彼女はくるりと振り返る。こちらを向いている筈なのに、逆光で彼女の顔はよく見えなかった。月が眩しいのだ。
「きみはさ、死を考えたことある?」
黒髪を揺らして彼女は問う。ぼくは死、という単語が彼女の口から出てくるとは思わなくて驚いた。でも彼女だって完璧な人ではないし、或いはただこの海の所為かもしれない。どうしても重低音のような海を眺めていると死を連想してしまう。
「……ないよ」
本当は、少しだけあった。どうしようもなく落ち込んだ時。消費するだけの人生に虚しくなった時。それでも、彼女の前では見栄を張ってしまった。たぶんぼくは彼女に頼ってもらえるようにしたかったのだ。――否、ぼくはただ彼女に幻滅されたくなかったのだ。
「そっか。きみはつよい人だね」
彼女が視線を落として言うのでぼくは激しく後悔した。同時にひどく惨めな気持ちになった。ぼくはそんな強い人じゃない。
でも今更ぼくのことばを撤回することなんてできなかった。一度口から迸ったことばはもう帰ってこないのだ。だからぼくは一度張った見栄を貫き通すことにした。
「……きみはさ、死を考えたことはあるの?」
「んー」
彼女は首を傾げて考え込んで見せる。逆光の下で憂いを帯びた顔をしているのだろうか。それでも顎に手を当てる癖がいつもどおりで少し安心した。
「わからない。けど、明日が来なければいいのに、とは思ったことあるわ。わたしの存在はこんなにちっぽけなのにね」
そう言いながら彼女は白い足で海を撫でる。ぱしゃりと音を立てて海はまた静かになった。ぼくは彼女にとっての「つよい人」でありたかったので、落ち着いた声音を心がけて問うた。
「今のきみは、明日を望んでいる?」
無言で彼女は首を振った。
「明日を拒否する理由はないけれど、明日を望む理由もないのよ」
困ったわ、と彼女は無感情に言って見せる。これは相当重症だ。でも、ぼくだってそう考えたことがあるからわかる。こういう時に「大丈夫だよ」とか「生きているといいことあるよ」とか綺麗事は何も効果がない。身を以てぼくはそれを知っている。
海に足を浸してぼくは彼女に一歩近づく。
「ならさ、ぼくの明日の寝癖を楽しみにしててよ。きっと明日は寝坊してヘアセットする時間はないだろうからさ。とんでもなく芸術的な寝癖かもよ」
ふっと彼女が微かにわらった気配がした。
「たしかに、きみの芸術的な寝癖は見たいかも。きみの寝ぼけた顔も面白いし」
彼女のその一言にぼくは幾らか安心する。
「うん。まあ、きみも寝癖つけてる時あるからお互い様だけどね」
途端、彼女は少しだけむっと眉を顰めたのがわかった。何年も一緒にいたのだからこれくらい顔を見なくても容易に想像できる。
「ちょっと。その時に言ってよね、恥ずかしいじゃない」
待って、それはおかしくないか。ぼくの寝癖は見て笑い物にするだけなのに。
「理不尽」
ぼくが短く言った途端、ふっと彼女は声を零した。彼女はそのまま堪えきれなかった、というように声を上げてわらう。ふふふ。あはは。
肩を震わせ、両腕で腹を抱え、さらさらとした黒髪を揺らしながらわらう。
彼女がここまで笑うのをぼくは随分と久しぶりに見た。気付かぬうちに彼女の笑いはどこか澄ましたものになっていて、もう随分と長いこと心の底から笑っているところを見ていなかった。
はは、と笑い続ける彼女の声は果てしない夜の海に吸い込まれていく。
そうしているうちに日の光がぼくらの後ろから射してきた。
途端に彼女の顔が露わになる。そこでようやくぼくは笑っている彼女の頬が濡れていることに気が付いた。けれどぼくは黙っておくことにした。だって、彼女はこういうところを指摘されるのを嫌うから。
ぼくが「泣いているの」と訊いたら必ず「泣いていない」と答えるし、「大丈夫」と訊いたら必ず「大丈夫」と答えるのだ。彼女は小さい頃からずっとそうだった。
それに、海に比べたら彼女の涙なんてちっぽけなものだ。だからぼくは見て見ぬふりをする。彼女がそう望んでいることを知っているから。でも間違っても視線を逸らすのではない。
「冷えるよ。ほら、よかったらこれを着て」
そう言ってぼくは身に着けていたコートを脱いで彼女の華奢な肩にかける。ふわっと彼女の顔が和らいだ。
「あたたかい」
幸せそうにわらった彼女は、そのままぼくの腕の中で寝入ってしまった。
その時ちょうど真っ白な陽の光がぼくらを完全に包み込んだ。朝がやってくるのだ。明日の訪れを感じながら、ぼくも意識を手放した。
ぼくらはあまりにもちっぽけな存在。だから生きてる。
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