第37日 雑炊のとりこ

 ピピピ、と体温計が鳴った。

 ぼくは脇からそっと細い体温計を取り出す。そうして目に入った、三十八度八分。

「……」

 数字を見ると倦怠感が余計にひどくなるような錯覚に襲われる。「病は気から」というのを身を以て実感していた。どうやら完全に風邪を引いてしまったようだ。

「やっちゃった……」

 ぼくの小さな呟きは誰もいない部屋に溶けて消えた。本当に情けない。大学生にもなって自己管理さえも怠ってしまったのだ。風邪を引かないことだけが取り柄だったのに。


 そういえば、とここ一週間の行動を振り返る。冷え込んできた季節なのに、床での寝落ちが続いていた。衣替えが終わっていない所為で、寒い中薄着で過ごす羽目になっていた。周囲でも風邪が流行っていた。風邪を引いた理由なんていくらでも考えられる。

 そして極めつけは昨日冷たい雨に降られたことだろうか。雨に降られたくらいでは体調を崩す筈がないのだが、ずるずると不調を引きずっていたぼくの体には堪えたのかもしれない。


「大学休むか……」

 友人やらいろんな方面にに休むことを連絡してぼくはもう一度眠ることにした。たまにはこういう日もあるのだろう。どろどろとした睡魔に引きずり込まれるようにしてぼくは眠りに落ちた。


 ♢


 ピンポーン。


 狭い部屋に響き渡るインターフォンの音に、ぼくの意識はすっと浮上した。昼特有の白い光に包まれた天井。それが一番に目に入ってぼくは慌てた。今何時。

 寝坊したかと思い、急いでスマートフォンを手に取った。通知で埋め尽くされたロック画面。

 大学の友人から送られてきた「お大事にな」というメッセージを見て、ぼくはようやく風邪で大学を休んだことを思い出した。

 それからメッセージには幼馴染の彼女からのもあった。「何かいるものある?」という短いメッセージ。意味がわからず首を傾げたその時。


 ピンポーン。


 もう一度インターフォンの音が鳴ったので、ぼくはがばりと身を起こした。頭痛やら目眩やらが襲ってきてひどい気分になったが、それどころではない。慌てて上着を羽織りマスクを付けてぼくはドアを開けた。ぴゅうと吹き抜ける風が冷たい。


「こんにちは。熱、大丈夫そう?」

 そこに立っていたのはビニール袋を持った幼馴染の彼女だった。それだけでぼくはどきりと顔が熱くなるのを感じた。もう少し着替えてからドアを開ければよかった。ジャージに上着だなんて。

「ありがと。……ごめん、さっきまで寝てて連絡できなかった」

「いいのよ。たぶんそうだろうと思っていたから。よかったら、これ使って」

 そう言って彼女はぼくにビニール袋を手渡した。中身を見ると、スポーツドリンクやらゼリーやら熱のときにほしいものが揃っていた。

「いいの、これ……」

「もちろん。そのために買ってきたんだから。ほんとお大事にね」

 ――ああ、もう帰ってしまうのか。

 どうしてか、もう少しだけ彼女と話していたい気がした。風邪を移してはいけないので引き留めるべきではないのだけれど。それに、今話したいことがある訳ではない。ぼくが回らない頭で思いあぐねていると、彼女が再び口を開いた。

「ところできみ、お腹空いてる?」

 途端にぼくの腹が鳴った。仕方がない、昨日の晩から何も食べていないのだから。しかし生理現象だとわかっていても恥ずかしい。今度こそぼくの顔は赤くなった。なのに彼女はゆるりと微笑んだ。

「食べられそうならよかった。ねえ、雑炊食べる?」

 ぼくは熱に茹だった頭でぼんやりと雑炊を思い浮かべる。小さい頃、ぼくが寝込んだ時には決まって母がつくってくれた雑炊。熱のときに食べるあの雑炊の美味しさといったら。もう一度ぼくの腹が鳴った。さいあく。知らないうちに副交感神経が優位になっているらしい。


「ふふっ、それが答えね」

 冷えるわ、と彼女はぼくの背を軽く押して一緒に家の中へ入ろうとする。本当に軽い力。ぼくが嫌だと言ったらきっと止まってくれたのだろう。でも、ぼくは止めなかった。彼女に流されるままに二人で家の中に入った。


「ちょっと座ってて」

そう言ってすぐさま台所に消える彼女。ぼくはその様子をぼんやりと見つめることしかできなかった。ぼくの家に彼女がいるのがとても不思議で現実離れして見えた。

 そうしているうちに、うとうととした睡魔が再び襲ってくる。そのままぼくは寝入ってしまった。


 ふっ。


 ふわりと漂ってきた出しの香りにぼくは目を覚ました。

「あら、起きたのね。丁度できたところだけれど、食べられそう?」

 そう言いながら彼女はぼくのもとにお椀を持ってくる。白い湯気が立っていて美味しそうだ。途端にぼくの腹は再び空腹を主張し出す。

「うん、食べる」

 即答だった。しっかりと眠っていくらか元気になったので、目の前に美味しそうな料理があるのに食べないという手はない。

「ふふ、少し元気そうで良かった」

そう言って彼女はお盆ごと料理をぼくに手渡す。漂う出汁の香りがぼくを幸せな気持ちにした。

「ありがと。……ちなみにこれはなに?」

 ぼくはお椀を指さして問うた。見た目は、汁気の多い茶碗蒸しに米が入ったような料理。ぼくはこの料理の名を寡聞にして知らなかった。

「何言ってるの、ただの雑炊よ。熱で目も見えづらいの? 病院に行ったほうがいいんじゃない?」

 彼女は心配そうに覗き込んでくるが、あいにくぼくの視界は正常だった。きっと異常なのはこの雑炊。しかし堪らなく美味しそうなのは確かだった。

「ううん、大丈夫。ありがとう。……いただきます」

 もう一度雑炊に向き直る。やはりどう見ても黄色が強すぎる。きっと卵を入れすぎているのだろう。彼女は卵料理が好きなので当然の結果といえるのだけれど。一体卵を何個使ったらこうなるんだろうか。うちの冷蔵庫の卵は一つ残らずこの雑炊に溶けたのだろうなと思う。

 そうやってぼんやりしていると、彼女がこちらにふわりと近づいてきた。

「ほんと大丈夫?」

 そう言って見かねたのだろう彼女がぼくの手の上からスプーンを持った。彼女のひんやりとした手が心地良い。そうして彼女は雑炊にスプーンを入れ、ぼくの口元に持っていこうとする。彼女のサボンの香りが至近距離にあってぼくは慌てた。

「まって、まって、大丈夫。自分でできるから!」

 急いでぼくはスプーンをしっかりと持ち直した。ふうふうと息を吹いて雑炊を冷まそうとしていた彼女は、「そう」とあっさり言って手を離す。同時にひんやりとした体温がぼくの手から抜けていった。そこでようやく、彼女の手が冷たいのではなくぼくが熱いのだということに気が付いた。

 

 自分で息を吹きかけ冷ましてから口に含む。熱い。そしてじゅわっとほどける卵。出汁がほんのりと染みていて美味しかった。ほっとする美味しさ。グルタミン酸とイノシン酸とグアニル酸の絡み合い。出汁のある国に生まれて良かったと心底思う。

 ――それにしても卵が多すぎる。雑炊のはずなのに、米より卵の方が多いのではなかろうか。

 そこでふと高校生の時に彼女とオムライスを何回も食べに行ったことを思い出した。結局、近くのオムライス屋を制覇したんだっけ。

 しかし今ぼくが食べているのは雑炊である。オムライスを思い出してしまうくらい卵が多いのだ。いや、多すぎる。それでも雑炊はとてつもなく美味しいので、ぼくはほっと息をついた。

「美味しい……」

 二口食べるともうすっかりこの雑炊のとりこだった。しばらく絶食していた体に染み渡るような感覚。三口目以降は無我夢中で食べていた。


「ごちそうさま。美味しかった……」

 数分も経たないうちに椀は空になった。

「よかった。洗い物しとくからもう一度寝てね。きっと休めってことだろうから」

 ――いや、それは悪いよ。

 そう思いながらも、睡魔は容赦なくぼくを襲う。雑炊のお陰で体がぽかぽかしているのが原因だろう。感謝も碌に言うことができないまま、溶けるように眠ってしまった。


 ♢


 次の日、ぼくは全回復していた。発熱したとき特有の倦怠感はもう消え去っている。むしろ有り余るほど睡眠を貪った体はいつもに増して軽かった。

 もちろんぼくの部屋には彼女はいなかった。あまりに都合のいい出来事だったので昨日の雑炊は夢だったのかもと思う。いや、絶対にそうだ。彼女がぼくの部屋にいるはずがないのだから。熱に浮かされて夢でも見たのかもしれない。


「さてと……」

 今日こそは大学に行かなければならなかった。とりあえず簡単に卵スープでも作って朝ごはんとしようか。

 冷蔵庫を開ける。買った覚えのないスポーツドリンクやゼリーが綺麗に陳列していてぼくはひっくりかえりそうになった。もしや、昨日の出来事は正夢だった……?


 どこをどう探しても卵が見当たらないので念のためゴミ箱を見てみる。見事なまでに空の卵パックがゴミ箱の底に横たわっていた。

 ――嘘だろ。あと四つは残っていたはずなのに。もしかして昨日ぼくは卵四つを食べたのか?


 取り敢えず感謝の連絡はしておいた。昨日の雑炊の味を思い出してそれでは足りないなと思った。何か美味しい菓子でも渡そうかと考えているとすぐに返信が来た。

「よかった。次はオムライス作るね」

 そのメッセージを見てぼくは顔が熱くなるのを感じた。ああ手料理。

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