第39日 溢れんばかりの本にうずもれて

 溢ればかりの本に埋もれてみたかった。


 ぼくの近所には市営図書館がある。幼い頃から今に至るまで随分とお世話になったものだ。しかし、その図書館はビルの一階を占拠しているだけなので左程広くはない。むしろ図書室。

 幼い頃はその狭い図書館を不満に思ったことはなかったが、やがて世界にはもっともっと大きな図書館があることを知ってしまった。同時に憧れてしまったのだ。いつか本に埋もれたい、と。



 ある日、幼馴染の彼女はぼくにこう言った。

「ねえ、今度ショッピングモールへ行こう」


 ショッピングモール。服や食べ物を買うところ。あるいはクレーンゲームや映画を楽しむところ。俗に言う娯楽施設だ。

 ――正直ぼくはショッピングモールにあまり興味がなかった。服には特に拘っていないし、わざわざ隣町へ出かけなくてもいいのではなかろうかと思うのだ。

 そもそも彼女がぼくをショッピングに誘うなんて初めてのことだった。ショッピングに興味はないと言っていたのに、どういう風の吹き回しだろうか。

 まあ何にせよ、彼女に誘われて断るという選択肢なんて初めからないのだけれど。

「うん、行こう」

「やった」

 彼女はにっこりと破顔した。


 ♢


 そうしてやって来たのはショッピングモールの服屋――ではなく、本屋。ぼくが知らなかっただけで、このショッピングモールには大きな本屋があったらしい。彼女のお目当てはそこだったようだ。

「はやく、はやく」

 彼女の足取りはとても軽く、本屋が待ちきれないのか早歩きになっている。かわいい。彼女に置いて行かれないよう急いで歩いていると、彼女くらいの年代の女性たちが服やらアクセサリーの店ではしゃいでいるのが見えた。しかし幼馴染の彼女は一切寄り道することなしに、迷うことなく前に進んでいく。


「……ねえ、ショッピングしなくていいの? 服とか買わない?」

 思わずぼくは問うてしまった。女性というものは、新品のバッグやら服が欲しいのではないのだろうか。

「要らないわ。別に今は特に着る服に困っていないもの。それに服を買うくらいなら、文庫本を買う方がよっぽどいいわ」

「なるほど」

 確かに彼女の服はいつもお洒落で、これ以上買う必要はないのかもしれない。それでも買うのが女性なのではなかろうか。まったく、彼女らしいや。


「ほら、ここよ」

 そうして角を曲がった先に突如現れた広い本屋。ぼくは思わず息を呑んだ。これが彼女の行きたかった本屋。


 木を基調とした温かい色味の本屋。暖色と白の照明に照らされる本棚がうつくしい。そして視界を埋め尽くす本、本、本。こんなに大量の本がたむろしているところをぼくは初めてみた。

 それから仄かに香る新しい紙の匂い。どうしてか同じく書物を置いている図書館とはどこか別物に感じる。なんだろう、線があるというか。


「わぁ……」

 彼女も感嘆の溜息を洩らした。きらきらと目が輝いている。それは単に本屋の照明が彼女の瞳に映っているだけなのだけれど。

「ねえ、はやく中に入ろう?」

 そういってはしゃぐ彼女は年相応の表情をしていた。


 溢れんばかりの本に囲まれてぼくらは歩く。どこを見ても本がある。なんて幸せな光景だろう。

「わたし、ずっとここに居られる気がするわ。住みたいくらい」

 幸せそうに彼女は微笑んで呟く。心なしか彼女の足はるんるんと弾んでいた。

「わかる。将来は自分の部屋を本棚と本で埋め尽くしたいな」

 ぼくの言葉に彼女は大きく頷いた。

「わたしも本だらけの家に住みたいわ」

 だからね、と続ける。

「その一歩として、今日は本を買おうと思っているの」


 珍しいと思った。彼女は間違いなく本の虫だけれど、昔から図書館派だったから。ぼくの思考を読み取ったのか彼女は付け足した。

「段々とバイト代が溜まってきたから、ちょっとは奮発しようと思って」

「いいね。……どんな本を買うつもり?」

 うーん、と彼女は視線を虚空に彷徨わせた。あんなに本屋を楽しみにしていたのに、まさか買う本を決めていなかったとは。

「そうね、前からタイトルが気になっていた海外小説を何冊か買おうかしら。ちょっと相談に乗ってくれない?」

 そう言って彼女は歩みを進めた。


「ねえ、あの本取ってくれない?」

 彼女は言葉と共に本棚の一番上の段を指さす。確かに彼女の背丈では届きそうになかった。いつのまにかぼくは彼女の背を抜かしてしまっていた。昔は彼女の方が随分と高かったのになと過去を懐かしく思う。

「どの本?」

「あそこにある、悪童日記って本」

 すすすと白い指を上に伸ばしたまま、彼女はぼくの顎の下に潜り込んできた。いや、近い近い。ぼくは少しだけ慌てたが、なんとか顔には出さずやり遂げることができた。

「はい、これ」

「ありがとう。いつのまにか背が伸びていたのね」

 真面目腐って彼女が言うものだからぼくは笑ってしまいそうになった。ぼくの背が伸びたのは昨日今日の話ではないのに。


「きみはこの本たち、どれか読んだことある?」

 そう言って彼女は集めた三冊の本を見せてきた。一冊は先程のアゴタ・クリストフ著の『悪童日記』。もう一冊はヴィクトル・ユゴー著の『レ・ミゼラブル』。最後はヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。いや、チョイス。

「うん、一応全部読んだことあるよ。どれもよかった」

 ぼくは彼女のセンスが悪いとは微塵も思っていない。どれも名作なのだから。しかしどれを取っても重たい話ばかり。だから内心ツッコんでしまったのだ。


「そっか。きみのお墨付きなら安心ね」

 そう呟いたかと思うと、彼女は頁をめくったり、あらすじを読んだりして三冊を見比べ始めた。そしてぶつぶつと悩み始めた。ここまできて一体何に悩んでいるんだろう。

「……えと、どうかした?」

「ううん、ただどの本を買おうか悩んでいて」

「三冊とも買わないの?」

 些か驚いて問うと、彼女は残念そうに首を振った。

「今日は一冊だけ買おうと思っているの。シリーズ物もあるから三冊とも買ったら破産してしまうわ。あとは図書館で借りる予定」

「なるほどね」

 彼女はぱっと顔を上げて問うた。

「ねえ、どれがいいと思う?」


 ぼくはふとひらめいた。わかったぞ。これは、女性が服を選んでいる時に、男友達や彼氏や夫に言う台詞だ。「どっちの服が似合う?」という超難問と同じだ。ああ困ったな。

「うーん。……読む時間がじっくりあるなら、レ・ミゼラブルかな?」

 ユゴーの大作。確か、文庫本で五巻構成になっていたのではなかろうか。ぼくのお気に入りの作品。彼女は首を傾げた。

「きみはそう思う? んー、わたしは悪童日記も捨てがたいわ」

 あっ、とぼくは気づいてしまった。彼女は悪童日記が買いたいんだ。

「いや、やっぱりぼくは悪童日記をおすすめするよ」

 そう言うと彼女は表情をぱあっと明るくした。

「そうよね。わたし、悪童日記にするわ。ずっと昔から読んでみたかったの」

 ありがと、レジ行ってくるね、と向日葵のような笑顔で彼女は去っていく。

 ううむ。ぼくは何とも言えない気持ちになったが、彼女らしいとも思った。


 手持無沙汰になったぼくは、おもむろに『レ・ミゼラブル』を買った。久しぶりに読み返したくなったし、何より彼女が読みたくなった時にすぐ貸せるから。なんてね。

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