第29日 深夜の空腹

 食欲を抑えたいなら早く寝なさい。


 巷には数々の怪しいダイエット法が溢れているが、少なくともこの説だけは正しいと思う。本当にどういう訳か深夜というのはひどく腹が減る。これは夕食をしっかり食べても結果は同じである。成長期でもないのに、喉が渇くように腹が減るのだ。


 ――時計は深夜零時を示しているというのに、ぼくの目の前には参考書やら教科書。そして途轍もなく腹が減っている。

 ならば早く寝ろと言われそうだが、哀しいことにぼくは今眠れるような状況ではない。試験が明日に迫っているからだ。ぼくとしては眠りたいのだけれど、学生であるからには学業をまず優先させるべきだ。

 いつもであれば、腹が減った時はおにぎりをつくる。どうせ炊飯器に米は残っているから。ぼくは米が主食の国に生まれてよかったと思うくらい白米が好きだ。白米には無限の可能性がある。

 腹が鳴ったのを合図にシャープペンシルを置いてぼくは台所へ向かった。

「……」

 今日に限って炊飯器は見事に空だった。米粒一つさえ残っていない。

 しかしぼくの腹は更に主張を激しくする。静謐な夜の空気を壊す胃の音。これでは勉強騒ぎではない。ああ何かを腹に入れたい。米がないとわかると一周回って脂っこいものが食べたくなってきた。これはぼくのきっと意志力が弱い所為ではない。エンドルフィンの所為だ。ひどい責任転嫁だけれど。

 食事をするとβ-エンドルフィンが分泌されて報酬系が働く。つまり幸せな気分を味わえるのだ。生物は効率良く生き延びるために、食を幸せと感じる機構を習得した。しかし今はそれの悪用だ。睡眠不足によるストレスを食の多幸感によって補おうとしているのだから。

 とは言え、試験前につべこべ言っている場合ではない。ぼくは財布を持ってコンビニへ向かった。とても便利な時代だ。あらゆる欲をいつでも簡単に満たすことができる時代。


「いらっしゃいませー」

 深夜のバイト店員のどこか気だるげな声。この時間のバイトもなかなかに大変だなとぼくは思った。

 さて、何を買おうか。幸か不幸かぼくの胃袋はとてつもなく元気に空腹を主張している。手始めにまずおにぎりを手に取った。さて、ここからが本番である。

 そろそろとコンビニスイーツの棚へと移動する。普段は見ることのないこの棚。色とりどりのケーキやらプリンやらが並んでいてぼくの唾液腺が活発に活動を始める。シュークリームに手を伸ばして――やめた。やっぱり深夜のスイーツは罪深すぎる。でもやっぱり……。

「あれ、きみもお腹が空いたの?」

 突如至近距離から声をかけられたぼくは、思わずおにぎりを手から落としてしまいそうになった。

「えっ……」

 そこにいたのは幼馴染の彼女だった。このコンビニにはぼくと店員しかいないはずだったのに。よりもよって一番見られたくない時に一番見られたくない人に邂逅してしまったようだ。

「なあに、その顔。ちょっと驚きすぎじゃない? わたしは幽霊ではないのよ」

 ジャージを着て髪をおろした彼女。そんな彼女の姿は少し新鮮に映った。

「あ、ああそうだね。ちょっとお腹が空いちゃって」

「奇遇ね、わたしもよ」

 そう言って彼女はぼくが取ろうとしたシュークリームを手に取った。それも二つ。

「はい、これ。きみの分。欲しそうに見てたでしょ?」

 くすくすと笑いながら彼女はぼくにシュークリームを渡してくる。その瞬間、ぼくの中でシュークリームを諦めるという選択肢は消滅した。

「ありがとう。……もしかして一人で来たの?」

 もう日付は変わっている。そんな時間に少女が一人で外出するのは危険だ。他人のぼくそこまで言うのは過剰だと思って口には出さなかったけれど。間違ってもぼくの娘ではないからね。それでも心配になってしまう。彼女はかわいいから。

「ええ、そうよ」

 あっけらかんとして彼女は答えた。それが当たり前のように。だからぼくも当たり前のように付け加えた。

「家まで送るよ」

「まあ、嬉しい」

 シュークリームを胸元で握りしめて彼女はわらった。断られたら少し残念だなと思ったのでぼくは安心した。


「ありがとうございましたー」

 どこかやる気のないバイト店員に見送られてぼくらはコンビニを後にした。

 閑静な住宅街にぼくらの足音が響き渡る。こんな時間に外出するようなもの好きはぼくら以外にはおらず、やっぱりこんな暗い道は彼女一人で歩かせられるわけがないなと思った。

 ふわりふわりと彼女の髪が揺れるたびに柔らかい香りがぼくの鼻腔を擽る。フローラルな香り。

「いい匂いがする。花みたいな香り。もしかして香水でも使ってる?」

 そういうと彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「……変態。ただのシャンプーよ、シャンプーの香り」

 なぜ照れているのかわからないが、彼女の羞恥心を刺激してしまったのだろう。ぼくもなんだか恥ずかしくなってくる。

「そっか。……あの、えと、明日のテスト勉強は順調?」

「まあまあかしら。今からが正念場というところね。だから食糧調達に来たのよ」

 そう言ってシュークリームが中に入った袋を掲げる。

「無理はしないでよ」

 ぼくがそう言うと、彼女はころころと笑った。照れたり笑ったり忙しい人だ。これが深夜テンションというやつだろうか。

「それはきみもね。お互い頑張ろう」

「うん、頑張ろう」

 大したことは話していないけれど、深夜にこうやって歩いていると恋人同士みたいでどきどきした。本当に他愛ない話なのに。ぼくも知らず知らずのうちに深夜テンションなのかもしれない。

 そうして名残惜しくも彼女の家の前まで着いた。ふとぼくは彼女と家が近くて良かったなと思った。否、家が近い幼馴染だからこそここまで仲良くなれたのだ。

「おやすみ」

 彼女が囁くように言った。化粧も何もしていないはずなのに、桃色の唇が艶めく。

「……うん、おやすみ」

 どうしてかぼくの空腹感は増すばかりだった。早く家に帰ってシュークリームとおにぎりを食べよう。それから追加で買った唐揚げと。

 

 ♢


 結局、シュークリームが一番美味しかった。時刻は深夜一時で、ここからが正念場。

 とはいえ調子に乗って食べ過ぎてしまったみたいだ。腹が満たされてぼくはほどよい多幸感に包まれていた。報酬系がきちんと作用しているようで何より。ところで、こうやって食から幸せを享受することにはデメリットもある。

 ――それは眠くなるということだ。

 

 せっかく彼女と頑張ろうと言い合ったのに、ぼくはとろとろした睡魔に引きずり込まれるようにして眠ってしまった。

 まあ、そんなこともある。

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