第12日 香るしりとり

 学級日誌。日直の仕事。一日の学校の様子を記録するもの。

 今日はぼくが日直当番だった。なのに、日誌の存在をすっかり忘れていて本日の頁はまっさらだった。ああ、ぼくのバカ。ということで放課後の教室で泣く泣く書く羽目になっているのだ。

 今日の出来事を書いていくうちに、走らせるシャープペンシルの影が長くなってきた。夕暮れが濃くなってきたのだ。みんな下校やら部活動やらで、気が付いたら教室にはもう誰もいない。

 ――ぼくの幼馴染の彼女を除いて。


「ねえ、まだなの?」

 待ちくたびれたのか、帰る支度を済ませた彼女は颯爽とぼくの机の前にやってきた。風とともにふわりとサボンのような香り。彼女の匂いだ。

「ごめんごめん、最後の自由記述欄が埋まらなくて」

 ぼくのクラスでは日誌の自由記述欄で絵しりとりが行われている。前回は「ふうしゃ」。「しゃ」からはじまるありきたりな言葉かつ絵で描きやすいものはないかと考えていた。

「もう、そんなの適当に描いておけばいいのに」

 そこで彼女はあれ、と首を傾げた。

「きみ、シャンプー変えた?」

 すん、と彼女は少し屈んでぼくの髪を嗅ぐ。くすぐったいような気持ちになるが、もうぼくは動じない。このくらい序の口だ。

「うん、変えたよ。よくわかったね」

「きみの匂いの変化くらいわかるわ。毎日会っているんだし」

 彼女はさらりと殺し文句をのたまう少女だ。知っている。何年の付き合いだと思っているんだ。平常心、平常心。

「流石だね。ちなみに前とどっちがよかった?」

「うーん……強いて言うなら今の方かな。匂いがきみっぽいかも」

 そう言うなり、彼女は目の前の席にこちらを向いて座った。その仕草とともに再度ふわりと漂うサボンみたいな香り。彼女の匂いは幼き頃から好きだ。意識して嗅いだことはないけれど。

「そっか。ぼくはきみの匂い、好きだよ。きみだなって思うから」

 とたんに彼女は表情を固まらせ、それから頬を赤らめた。

「なっ……びっくりした、急に恥ずかしいこと言わないで」

 え? 何のことだろうか。これくらいぼくらにとっては日常茶飯事だと思うのだけれど。

「何が恥ずかしいの?」

「……ほら、匂いが好きって、その人を遺伝子レベルで好きだっていうでしょう?」

 それはぼくも聞いたことがある。人間の種の保存のために備わった機構。遺伝子レベルで好きな人間の匂いは、自然といい匂いだと感じるのだという。でも、それがなぜ恥ずかしいことなのか。今更じゃないかとも思うのだ。

「うん、そうだね。でも、なんで?」

「遺伝子レベルで好きって……なんだか恥ずかしいじゃない」

 伏目がちにいう彼女は本気で照れているようだった。ぼくは彼女の照れるポイントが全くわからなかった。彼女はもっと大胆な言葉を臆面もなく言っているのに。今まで言われた彼女の言葉が蘇る。ぼくに怖いものはもうなかった。

「わかった、わかった。じゃあさ、きみはぼくの匂いが嫌い?」


 彼女は思いっきり渋面をつくった。どこか困ったような表情。それがぼくには照れ隠しにしかみえない。頬を赤く染めながら彼女は口を開いた。

「好きに決まっているでしょ」

 めずらしく彼女が照れているところを見ることができた、或る放課後のこと。


 ぼくは日誌の自由記述欄にシャンプーのボトルを描いた。

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