〇第9日 心はいずこに

 ぼくらは機械ではない。当たり前だ。そもそも有機物と無機物であるという点で大きく違う。でも、それにしては似ているところが多い。水に長期間浸けると腐敗するところ。たまに故障するところ。そして――情報を伝達するのが電気シグナルであるというところ。


「ねえ、心はどこにあると思う?」

 幼馴染みの彼女はあいも変わらず不思議な問いかけをする。今日は心の在り処についてだそうな。心臓か脳か。よくある問いでもある。

「……脳かな。思考こそが心だと思うから」

「安直な答えね」

 彼女はにこやかに一蹴する。うーん、捻りが足りなかったか。ぼくはもう一度考えて、やはり脳だなという結論に至った。

「じゃあ、きみはどこにあると思う?」

「電気シグナルに」

 電気シグナル。ぼくらの五感のみなもと。刺激が脳に伝わり、そして動くことができるのはすべて電気信号のおかげだ。神経学の基礎中の基礎。これなら辛うじて知っていた。

「まあ、正確には化学シグナルも使っているけれどね」

 残念ながら彼女のその呟きは全く意味がわからなかったけれど。曖昧に頷いてぼくは彼女の次の言葉を待つ。

 こんなに長い付き合いなのに、彼女の思考回路はてんで理解できない。それが愉しいからぼくは彼女と一緒にいるのだ。


「わたしはきみが好きよ。でもそれさえも電気信号の成れの果て。そう思ったらとても不思議じゃない?」

 彼女はこてんと首を傾げてみせる。いや、きみが世界で一番不思議だよ。そう内心でツッコんで、代わりに別の言葉を舌に乗せる。

「確かに。でも浪漫もへったくれもないね」

「事実でしょ」

「そうだね」

 ぼくはそんな彼女の竹を割ったような性格が好きだった。密かにそれを噛み締めているぼくを置いて、彼女は尚も質問を畳みかける。

「ねえ、閾値って知ってる?」

「……いきち? なにそれ」

 ぼくは寡聞にしてそんな言葉を知らなかった。今日の彼女はいつもに増して予測不能だ。

「刺激が反応に変わる一定のラインのこと。電気シグナルが閾値を超えたら人は反応するのよ」

 正直よくわからない。ぼくの顔にもそれが如実に出ていたのだろう。彼女はふふっとわらって人差し指を差し出した。

 ぴとりと彼女の細い指がぼくの腕に触れる。

 唐突なことにほんの少しぼくは驚いたが、生憎ぼくらは一番ふれあいの多い幼児期から一緒にいるのだ。だからこれくらいじゃ動じない。よくも悪くも。

「……どうしたの?」

「じっとしててね。これじゃあなんともないだろうけれど……ほら、こうしたら」

 言葉と共に彼女のしなやかな指がつうっとぼくの腕の上をすべる。くすぐったくてぼくは反射的に体を震わせる。

「はい、これが閾値。びくっとしたでしょ?」

 どこか艶めかしく彼女は笑う。まあ、これとは少し違うけれど。そう呟く彼女の声なんて聞いていなかった。

 潤いのある唇、艶やかな髪、長い睫毛。それから白くほっそりした指。

 仮にもぼくは男だ。反射的に彼女の腕を掴む。


「……どうかした?」

 彼女はきょとんとした顔をして此方を見た。どこか無垢な表情。嗚呼、それはないだろう。なんてぼくが思っていると彼女はころりと表情を変えた。つまり、にいっと笑ったのだ。

「大丈夫。きみにしかこんなことはしないから」

 細められた彼女の瞳に映るのは独占欲みたいな何か。彼女の独占欲なのか、はたまたぼくの独占欲が映っているのか。


 どくりどくりと心臓が高鳴る。ああ、なんだ。心は心臓にあるじゃないか。

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