第6日 しとど

 雨が降ってきた。寝る前、ぼくは部屋の窓を閉めようと思って――やめた。雨が静かに歌っていたから。

 しとしとしとしと。

 灯りを落とすと、忍び寄るように雨の声が良く聞こえてきた。今日は大雨らしい。雨は冷たく人を拒絶する。なのに、雨音がどこか心地よいのはなぜだろうか。実は拒絶しているのはぼくらの方だったりして。

 しとしとしとしと。

 淡々と降りしきる雨音を聴きながら、いつしかぼくは眠っていた。


 ♢


 ひたり。ひたり。

 ホラーの代名詞みたいな音を立ててはやってきた。ぼくはただじっと息をひそめる。こういうのは動かないのに限るのだ。

 ひやり。

 冷え切ったは無言でただぼくの布団の中に入ってきた。それでもぼくは振り返らなかった。だって、ぼくはその正体を知っているから。


 それは――ぼくの彼女だった。


 大雨のなかずっと外にいたのかもしれない。冷え切った体が小刻みに震えている。布団に入ってきたはいいものの、彼女はぼくの背に抱き着くことさえしなかった。

 ただ静かに、それでもぐっしょりと布団だけが湿っていく。

 ぼくは眠ったふりを決め込んだ。彼女がそれを望んでいるような気がしたから。


 しとしとしとしと。

 彼女はぼくに背を向けたままじっと動かなかった。縋ってくれたらいいのに。そう思いながらぼくは肝心な時に踏み込めずにいる。小さい頃はよく一緒に昼寝をしていたというのに。

 保育園のお昼寝の時間。幼き彼女はごくたまにぼくの元へやってきた。


「こわいゆめをみたの」

 ただこわいと零す彼女。当時のぼくはただ安心してほしかったんだと思う。

「だいじょうぶ。ぼくがいるよ」

 今なら恥ずかしくて気絶しそうな台詞。それでも彼女はありがとうと言ってぼくのブランケットに潜り込んできた。そうしてぼくは小さく震えた彼女の手を握って眠りについたのだ。


 あの頃は何の悩みも絶望もなかった。哀しいことがあれば泣いて誰かに縋る。けれどぼくらはもう大人になってしまった。時の流れは残酷。

 ぼくは彼女の手を握ってやりたかった。あの時みたいに。けれどお互い背を向けているから、物理的にお互いの手が遠かった。ぼくはようやく寝返りをうつ。彼女が気付かないようにゆっくり、ゆっくりと。


 そこからの記憶はひどく朧気だ。隣から伝わってくる体温にゆるゆると睡魔が襲ってきたから。あれ。これは夢か現か、どっちだろう。

 ぼくの意識はそこで途絶えた。


 ♢


 朝起きる。眩しい日の光。空いた窓から鳥の声が聞こえる。

 あんなに降りしきっていた雨はとうにやんでいた。ぼくは眠った時と同じようにひとりで寝ていた。もちろん彼女だってぼくの隣にいない。それが普通。それが当たり前。

 やはりあれは夢だったのかもしれない。



「おはよう。今日はいい天気ね」

 いつも通り彼女は寝癖一つない髪をなびかせてぼくに挨拶をする。やっぱり夢だったか。

「おはよう。……ねえ、昨日はどんな夢を見たの」

 駄目元で訊いてみる。彼女は首を傾げた。胡乱そうな表情。

「どうしてそんなことを訊くの」

 それもそうだ。変態みたいだ。でもここまで来たら引き返せない。

 彼女は一瞬身を固くし、それから悪戯っぽい笑みを溢した。

「大丈夫よ。きみがいるからね」

 

 嗚呼、とぼくは溜息をついた。あの時の台詞を覚えられていた羞恥。それからそこはかとない歓喜。

 そう、ぼくは嬉しかったのだ。彼女にぼくのことばが残っていたのが。ぼくが彼女に痕跡を残せたことが。


 紫陽花がぼくを嘲笑うように揺れていた。

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