第3日 ポタージュ・ポットの中の木屑

 ぼくには難しいことはよくわからない。ただ「ポタージュ・ポットの中の木屑」という言葉は知っている。毒にも薬にもならないという意味らしい。


 ♢


「ねえ、きみはどうしてわたしと一緒にいるの?」

 さらりと世間話でもするようにぼくの幼馴染は問うた。ああ困った。ことばは大事だ。その一言で人と人との関係が変わってしまうかもしれないから。

「……理由なんかないよ」

 たぶん、ぼくにとってはそれが解だった。つまらないの、と彼女は口を尖らせた。

「きみはぼくに理由を求めていたの?」

「ええそうよ。わたしはきみに殺されたいきぶんだったの」

 微妙に噛み合っていないのはこの際どうでもいい。どんな気分だったのだろうか。ぼくにその気持ちは理解できなかった。

「じゃあさ、とびきりの毒を用意してよ」

「どうして」

「きみに殺されたいきぶんだったから」

 彼女の言葉はいつも難解だ。でもそれでいい。彼女をすべて理解することが彼女の隣にいる条件ではないから。

「わかった。とびきりの毒を用意するよ」

「楽しみにしているわ」

 彼女は満足げに頷いた。


 ♢


 意気揚々と外出したが、そんな都合よく毒の店なんてあるわけがない。

 ふわりと風が吹いた。ふと顔を上げる。

「あった……」

 視線の先には、「毒の店」の文字。いかにも怪しい。だからぼくは中に入ってみることにした。

 カラコロ。

 ドアを開けると、鈴ともベルとも形容できない音がぼくを迎えた。

「いらっしゃい」

 そこにいたのは若き女店主。白衣を羽織り、たくさんの薬瓶の陳列した棚の前に佇んでいる。家具は全てアンティーク。ペンダント照明が仄暗く店内を照らしていた。

「ここで毒は買えますか」

「あたりまえよ。きみ、看板を見て入ってきたんじゃないの?」

 頬杖をついて店主は問う。ああそうだったとぼくは頷いた。

「どういう商品をお買い求め?」

「安くてとびっきりの毒を」

「お客さん、変なことを言うのね。とびっきりの毒なんて高いに決まっているだろうに」

 確かにそうだ。世の中そんなうまい話があるわけない。

「やっぱりありませんか」

 そう言うと店主はぼくをじっと見つめた。それからちらと視線を逸らして考えこむ。

「あるわよ」

 あるんだ。ほら、現実は予想外の連続。だからぼくは生きている。

「お客さん、うちに来てよかったわね。これは内緒よ」

 囁くように店主は言うと鍵付きの棚から一つの瓶を取り出した。ラベルも何も貼っていない、透明の瓶。中に入っている液体も、ただの水にしか見えない。

「どんな毒なんですか」

「これはね、DHMO」

 DHMO。聞いたことのない名前だ。そもそもぼくは薬だとか化合物だとかには詳しくない。

「なんですか、それ」

「DHMOは危険な毒よ。経肺すると致死。ガスを浴びると重篤な火傷。長時間当てると細胞の壊死。それから金属の腐食。岩でさえ形を変えるわ」

「すごい毒ですね」

 ぼくは思った。こんなただの薬瓶に入っているにしてはひどく危険な毒だ。

「でしょ? 無色無臭で死体解剖でも毒として検出されない」

「いいですね」

「で、買う? 今なら特別価格で一瓶五千円にしておくけど」

 ぼくは頷いた。黙ってお札を取り出す。

「毎度あり」

 店主はさぞ嬉しそうにわらった。


 ♢


「おかえり。毒はみつかった?」

 ぼくが黙って薬瓶を取り出すと、彼女は柳眉を顰めた。

「それは何」

「DHMOっていう毒。人を死に至らしめる猛毒なんだって」

 途端、ぼくの彼女は軽く吹き出した。

「五千円だったよ。安いでしょ」

 ぼくの言葉に彼女はけたけたと笑い転げた。

「まってまって、それ、本当に買ってきたのッ?」

 信じられないと笑いながら彼女は言う。ぼくはてんで意味がわからなかった。ぼくの手にあるのはこんなに危険な毒なのに。

 彼女は目尻に浮かんだ涙を拭いながら言った。

「DHMO。それは一酸化二水素。別名H2O。つまり、ただの水ね」

「あっ」

 しまったとぼくは頭を抱えた。たしかに肺に入ると溺死。水蒸気を浴びると火傷。ずっと水に浸かっていたらやがて皮膚は壊死する。金属だって錆びる。嗚呼、全てただの水じゃないか。こんな薬瓶一本程度では毒にも薬にもならない。


「きみといると退屈しないわ」

 最後に彼女はさらさらと笑ってみせ、おもむろに自分の財布から五千円を取り出す。

「我儘に付き合ってくれてありがと。これ、お礼」

 その行為にぼくは彼女がどうしてほしかったのかようやくわかった。

「そうだ、一つ言い忘れていたよ」

 少量の水は毒にも薬にもならない。でも、ひとひらの言葉は毒にも薬にもなる。彼女の名前を静かに呼んだ。ぼくらの視線がかち合う。


「ぼくは、きみの隣がいちばん居心地がいいからここにいるんだ」


 その時の彼女の顔を、ぼくは一生忘れられない。

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