〇第2日 カルぺ・ディエムをなぞる
カルぺ・ディエム。今日という日を摘め。今を生きよ。
古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場することば。紀元前の言葉が今も伝えられるなんてすごいことだなと思う。
「何をしているの」
「今を摘んでいるのよ」
ぼくの幼馴染は白の世界で花を摘んでいた。白い雲が立ち込める空。仄かに漂う霧。一面に広がるカスミソウ。花言葉は永遠の愛だったっけ。
「どうして摘んでいるの」
「今をわたしの手の中に収めるために」
彼女の手は白い花でいっぱいになっていた。きれいだった。けれどどこか悲哀を感じたのはなぜだろう。
「カスミソウを摘んでどうするの」
カルペ・ディエム。彼女は歌うように呟いた。
「今を摘んでいるのよ」
嗚呼、またはじめからやり直し。ダルセーニョ。終わりは来るのだろうか。
でも、これはぼくの杞憂だった。彼女は正しく前に進んだ。確かに今は絶えず前に進んでいくのだ。
彼女は白いカスミソウを白い指でなぞらえる。
「まあ、この子たちからは今が失われてしまったけれどね」
ああ、それだ。
ぼくはにわかに合点した。白い花を抱える姿がどこか哀しかった理由。摘まれた花はきれいだけれど、もう生命活動を営むことはない。死は悲哀の対象だ。
「確かにそのカスミソウはもう死んでしまったね」
「ええ。この子たちから今を奪ってしまったの。だからわたしの手の中にあるのは今だったなにか」
摘んでしまったら花の時間は止まる。今じゃなくなる。本末転倒。
「それじゃあ、今を摘むにはどうしたらいいんだろう」
ぼくらは首を傾げた。ずっと昔からある言葉なのに、今を摘む方法はだれも知らない。だって摘まれた瞬間、それは今を失うのだから。
だからカルペ・ディエムは今を生きるという意味なのかもしれない。
白い花、白い服、白い肌。
一面の白の中でふわりと風が吹いた。たちまち彼女の白い腕からはらりと落ちる白。
「あっ、今が零れたよ」
ぼくは白い花だったものを拾い上げようと屈んだ。そっと丁寧に。他のカスミソウが散ってしまわないように。それを彼女は静かに制した。
「いいの。零れた今は諦めるわ。大事な今だけ持っていればいい」
確かに。手を伸ばしていたぼくはすぐにひっこめた。あと数センチだったのに、この白い花がすくわれることはもうない。
ぼくは地に横たわるカスミソウをみつめる。この白い花は拾い上げられなかった今。ぼくらは今を浪費して生きている。明日には零れた花なんてもう忘れているかもしれない。
彼女の目にぼくどう映ったのだろうか。彼女はふふっとわらった。
「大丈夫。きみだけは掬い上げるわ」
彼女はぼくの手をやんわりと取り、静かに引き寄せる。カスミソウに混じるサボンの香り。
嗚呼、それはないだろうとぼくは思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます