ぼくと彼女のふしぎな日常~百本ノック

淡青海月

第1日 シュレーディンガーのぼく

 シュレーディンガーの猫。量子力学のことば。

 五十パーセントで機能する毒と一匹の猫を同じ箱に入れる。猫の生死は箱の中身を見るまでわからない。

 端的に言うと、生と死が同時に存在するということらしい。


 ♢


 放課後の静謐な教室。夕陽がぼくと彼女を照らしていた。

「ねえ、きみ。シュレーディンガーの猫って可哀想だと思わない?」

 おもむろにそう言ったのはぼくの幼馴染。さらりと流れる横髪を掬って耳にかける。

 彼女の言葉はいつも唐突だった。もう慣れっこだったけれど、やっぱり意味はわからない。

「どうして」

「だって、半分の確率で死んでいるんでしょ。何もしていないのに」

 かわいそうと彼女はどこか無感情に呟く。

 ぼくはふしぎに思った。死が隣り合わせというのはぼくたちも同じなのに。

「思考実験なんだから、別にいいんじゃないかな」

 少女は小さく溜息を吐いた。それに合わせて夕陽に照らされた黒髪が煌めいて流れる。長い睫毛が揺れる。場違いにもきれいだと思った。


「そうじゃないのよ。これだからきみのような朴念仁は。もしこれが人だったらどうかしら。シュレーディンガーの人間なんて倫理的な問題でアウトじゃない」


 確かにそうだ。そもそも箱に毒と人間を入れるなんてかなりシュール。想像できない。でもぼくらの暮らす現実世界も実はシュレーディンガーの猫と同じなのかもしれない。

 人間、死のうと思ったら簡単だ。死を表す言葉だっていっぱいある。病死、事故死、窒息死、溺死、脳死、餓死、凍死、安楽死……しまいには憤死なんて言葉もある。行き過ぎた感情でさえ死ぬだなんて、人はなんとも脆い生き物だ。むしろ生きているのは奇跡といえるのかもしれない。

 地球、人間、沢山の死因。神様から見たらぼくたちはみなシュレーディンガーの人間だ。確認するまで生死がわからない。生と死が共存する世界。


「そうだね。確かにそれが猫である必要はなかったかも」

 猫が好きな彼女は満足そうに頷いた。

「でしょう? ああ、猫が可哀想。シュレーディンガーは猫が嫌いだったのかしら」

「きっと猫が好きだったんだよ」

「どうして」

「折角なら好きなもので例えたいだろう?」

 好きだったから咄嗟に猫が浮かんだのではなかろうか。そう思う方が楽しい。


「なるほど。……好きなもので例えるのね」

 彼女はふふっと笑った。蕩けるような笑み。


 夕陽が彼女を照らす。輪郭が淡くぼやけていてうつくしかった。

 ぼくがそう感じたのはぼくが彼女を好きだからだ。好きな人は誰よりもうつくしくみえる。

 彼女は桃色の唇から鈴のような声で言葉を紡いだ。


「じゃあきみは、シュレーディンガーのきみだね」


 とびきりの笑顔で彼女はわらう。

 あっ、一本やられた。もう遅い。

 とどめのように彼女はぼくに囁いた。


「ねえ、わたし、きみが好きだよ」


 閉ざされた教室、ぼく、彼女の殺し文句。

 確かにぼくには生と死が共存していた。

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