第4日 にっちもさっちもいかない

 二進も三進もいかない。もとは商売で金銭のやりくりが上手くいかないことを指したらしい。ぼくは商売なんてしていないし、する気もないから無縁な言葉かと思っていた。今日までは。


「ねえ、きみはわたしのこと好き?」

 ぼくの幼馴染はいつも唐突にぼくを貫いてくる。


 好きにはいろんな種類がある。

 友達として好き。人として好き。見ていて好き。誰よりも好き。でも、今の質問がどれだったかを問うのは野暮な気がした。


「どうしてそんなことを訊くの」

「んー、ただの気まぐれ」

 彼女は背伸びをしながら呟いた。猫みたいだ。

「……きみはどっちだと嬉しい?」

「さあて。それはきみが考えてよ」

 それは困った。ひどく困った。たぶん彼女はぼくで遊んでいるんだろう。彼女なりの甘え。

「じゃあ、言わないでおくよ」

「どうして」

「だって、この関係が変わってしまうのが嫌だから」


 ぼくは彼女が好きだ。人として好きだ。誰よりも好きだ。

 でもそれを言ったらなにかが変わってしまいそうで。それはきっとぼくたちの関係を表すことば。

 ただの幼馴染から、恋人に。


 嗚呼、こいびとというのは恐ろしい。幼馴染は何人いてもいいのに、今存在する恋人は一人であるべきだ。世界の人口は約八十億人。こんなにたくさんいる人間のなかから唯一無二になるということだ。一夫多妻制は置いておいて。


 彼女がぼくの恋人になってくれるのは嬉しい。でも、彼女の八十億分の一がぼくだというのが、なんとも想像できなかったのだ。ぼくは臆病だから。


「どんな関係がどう変わるの?」

 彼女はにこにことして問う。ああこれは誘導尋問だ。口車に乗せられてはいけない。だから先手を打つ。

「わかった。ぼくは、幼馴染としてきみが好きだよ」

 ああ卑怯だ。

「おくびょうもの」

 案の定、彼女は不満げに口をとがらせる。

「じゃあさ、きみは幼馴染だからわたしが好きなの? ザイオンス効果の恩恵?」

 ザイオンス効果。通称、単純接触効果。いわゆる会えば会うほど好きになるというやつだ。

「ちがうよ」

 もちろん、そんな言葉で言い表せるほど簡単な関係ではないはずだった。

「よかった。わたしたちの関係がそんな軽いものじゃなくて」

「軽いはずがないよ」

 そうねと彼女は頷いた。

「だから、わたしたちの関係は言葉一つで変わりえない。ね、君もそう思わない?」

「そうだね」

 彼女は悪戯っぽくわらう。

「うんうん、わたしたちの関係は言葉じゃ変わらない。だから、本音を言っても大丈夫ね。お互いに」

 あっ、しまった。ぼくが声を上げる間もなく彼女は言葉を紡ぐ。

「じゃあ、きみの答えを知りたいな。わたしをどう思っているか」

 はい、チェックメイト。

「わたしはきみが好きだよ。世界でいちばん。――ねえ、きみは?」

 嗚呼。

 彼女は退路を断つのが得意だった。進退窮まる。にっちもさっちもいかない。

「ぼくは――」



 恋人とは、世界でいちばんの存在である。

 そう定義するなら、ぼくたちはお互いに八十億分の一の存在だったらしい。とっくの昔から。

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