殺人なき事件
一野 蕾
全てが終わった後の小休止
【はた目には自涜のような論議】
「あなたは『飯倉家双子殺人事件』を知っているかな?」
「……知らない、なんて答えた暁には、僕は探偵を辞めなくてはならないでしょう」
「ははは。そうだね。少なくとも耳にした事があるはずだ」
「それはもう、鮮明に覚えてますよ。連日ニュースはそれで持ち切りでしたから。あれは、」
「そう、あれはたった半年前に起きたばかりの事件だ」
「……話を仕切りたいのなら先に言って下さい」
「ああすまないね。それじゃあ話を進める前に珈琲でも頼もう。ここの珈琲はとても美味しいから」
「マイペースな」
「これからの談議には必要なものだよ。糖分なくてはままならない。そうだ、小腹も空いたし軽食も取ろう。あなたはどうする?」
「お気遣いなく。珈琲のみで結構です」
「そう。砂糖とミルクは?」
「では砂糖を少々」
「決まり。──店員さん。注文を……、珈琲を二つ、角砂糖とミルクは分けて持ってきてください。できれば多めに。ええ、どっちも。それとチーズケーキを一つ」
「……。なぜ多めに?」
「言っただろう、糖分なくてはままならないと。これから私たちは最大限に頭を使って、討論しなくてはならないのだから」
「先程の事件についてですか。しかしあれは、とっくに解決しているはず。今更話すことなんてあるんですか」
「あるね。大いに」
「──分かりました。では聞いているので、お好きなタイミングでどうぞ」
「あなたもなかなか
「……」
「20××年十二月、飯倉家の双子の男女が相次いで殺害された。遺体発見現場は彼女たちの在学する高校のプール。しかし彼女たちが殺されたのは、同時でもなければ同日でもない。双子の姉、
「十二月では、プールは通常施錠されているはずですからね」
「そう。だからそこで偶然にも、同じ月に二人……それも
「死因は、どちらも溺水でしたか」
「ああ。と言っても、間違いなくそうだと言えるのは弟の方だけで、マナエにおいては頭部にあった殴打痕から、水中で出血が止まらなかったことが一助になったと考えるべきだと聞いたよ。──だからこそ、一件目の時点から殺人の疑いは深まったわけだ」
「発見場所と殺害現場は別にあるという仮説が立った」
「そう。しかし二件目、ヨシウミは発見現場=殺害現場だ。謎は深まり、解決の糸口が見えてこないまま飯倉家の子供達は失われた」
「そして遺族は深く悲しみ、同時に強い憎しみを持って、マスコミを通じて犯人を非難した」
「そう。そのおかげでこの事件は全国的に大きく話題になり、一躍、双子は時の人となった」
「新聞では〝恐怖の双子殺人〟なんて見出しで煽られてましたね」
「誰が、何故、相次いで双子を殺したのか。事件当初は何一つ分かっていなかったからね。しかしある時から、事態は急速に解決へと向かう」
「二ヶ月の捜査の末、確か捕まったのはその高校の警備員だった──」
「千田原という男。彼の指紋が現場から出た上、事件後に千田原は警備員の職を辞していた」
「そして、自供を?」
「千田原英二は双子殺しの真犯人として、無事に逮捕された。という顛末さ」
「……」
「不満げだね」
「……いいえ。ただ、あっさりとした終わりだな、と思っただけです」
「ほう。それは何故? 生徒を守るはずの警備員が密かに双子に目をつけ、満を持して殺害するも、警察の捜査力を
「その『あえなく逮捕』の部分ですよ。こうして順序立てて事件を振り返ってみると、犯人の千田原英二は最後になって、妙に潔い。まるで逮捕されたがっているようだ」
「ふぅん」
「……あなたが議論したがっていたのは、この違和感についてですか」
「ふふふ。さて、事件のおさらいは終わり。ここからは…………、ああ、ありがとうございます」
「どうも」
「ほら、どうだい? いい香りだろう、ここの珈琲は。提供も早いし、味も格別なんだよ」
「そうですね。砂糖、一つ頂いても?」
「どうぞどうぞ。さて、考察に移る前に喉を潤しておくかな」
「……ミルクを入れすぎでは? 砂糖もそんなに」
「飲み物はうんと甘くして、甘すぎないケーキと一緒に食べるのが好きなんだ。今までの生活の反動かな」
「ささやかな贅沢というのは分かりますが、不健康ですよ」
「健康的な食事しかしてこなかったんだ、許して欲しいな……うん、やっぱりチーズケーキも美味しいね」
「はあ」
「そんな顔しないで。ここからは楽しい討論の時間だよ」
「一体何をどう討論するんですか」
「全てさ。この事件には不可解な点がいくつかある。それを私たちの間で解消し、考察し、事件を全く新しい方向へ導いてみよう」
「……、不可解な点というのは、まず先に挙げた通り、千田原英二の無抵抗な自供。それと、二人の外傷の有無の違いですか」
「
「突発的な犯行だったからでは? そもそも千田原は、殺す気などなかった。供述の一部には、『飯倉マナエが敷地内に戻ってくるのを見て、後を追い、殺害した』とあったはずです」
「じゃあヨシウミの殺害も、突発的なものだったのかな? しかしヨシウミの死亡は午前一時頃、打って変わって深夜だ」
「ふむ。突発的というには、無理があるかも知れませんね」
「とはいえ一貫性を見出すには、要素が少ないとも考えられる」
「プールに遺棄されていた点だけを鑑みれば、一貫性があるとも言えなくはないですが」
「そこで疑問になってくるのが、外傷の有り無しについてさ。マナエの頭部には強打の痕跡があったけれど、ヨシウミには一切外傷らしい外傷がない」
「姉は抵抗し、弟は抵抗する間もなく殺されたという予測が成り立つ訳ですね。しかしそれは、時系列的におかしい」
「家族が死んだばかり、それも他殺の可能性が仄めかされていた中で、警戒心を持っていなかった訳がないからね」
「誰か──仮に千田原でない誰かに呼び出されたとしても、行き先が深夜の学校となれば、普通は応じないでしょう」
「その通り。それにヨシウミはマナエの死後、登校も満足にできなくなっていた。登校時間をずらして保健室に直接向かっていたくらいらしいから……やはり妙なんだ、この殺人は」
「……そもそも飯倉マナエは、どうして学校へ戻って来たのでしょうか。放課後で、警備員の千田原の目についたということは、一度下校していたはず」
「それは彼女の
「チームメイト?」
「女子バレーボール部。あの日マナエは帰宅途中に、『忘れ物がある』と言って一人で学校まで戻ったそうだよ」
「それが八時以降の出来事ですか」
「そうだよ」
「では飯倉マナエの殺害現場は、学校敷地内以外有り得ない。校舎内か、体育館や部室までの道のりの可能性もある。彼女の荷物は一体どこで発見を?」
「三階にある彼女の教室。机の上に放置されていたよ」
「なら現場は校舎内ですね。…………ですが……」
「──ふふふ。気付いたかい? ここでまた一つ不思議が生まれたことに」
「……。」
「……」
「……砂糖、頂きます」
「どうぞどうぞ」
「どうも」
「しかし、入れ過ぎはお嫌いじゃなかったかな?」
「好んでそうしないと言っただけです」
「ははは。なんならケーキも一口」
「それは結構です。──プールは屋外。しかし千田原が飯倉マナエを殴りつけたのは、恐らく校舎内。千田原は殴打から遺棄までの間をどう話しているんですか?」
「『彼女の後をつけ、校舎に入った後、背後から頭をブロックで殴った。気を失って倒れた彼女を背負い、プールに投げた』」
「それは、本当に実行可能だったのでしょうか」
「警察の判断では、当時敷地内に残っている人間はほとんどおらず、実際に校内で千田原を目撃をした者がいなかったことも踏まえて実行可能だった。との事だ。でも、確かに私も無理があるのではないかと思う」
「その心は?」
「お、今度はあなたのターンか。そうだね、マナエの荷物が三階の教室に残ったままだったことを考えると、千田原は教室でマナエを殴ったことになる。そこから屋外にあるプールまで彼女を背負って歩くのは、無理ではないけれど大変だと思うね」
「そうですね。高校生の少女とは言え、身体はほぼ成熟した女性と言って差し支えないですから」
「ふむ。……それはセクハラと捉えていいのかな?」
「…………撤回します」
「ははっ、そんな苦虫を噛み潰したような顔をしないで! 悪かったよ」
「ふん」
「それで、あなたはここまでを踏まえてどう思う? マナエを殺したのは千田原英二なのかな?」
「……、千田原が嘘をついている可能性は、十二分にあるかと」
「嘘、か」
「誰か別の真犯人がいて、庇っている。もしくは脅されている。だから彼は自らに疑いがかかるように、突然怪しげな行動を取り出したんです」
「では、ここから推測できる真犯人像とは?」
「──生徒」
「……。」
「私はこの殺人は一人ではなし得ないと思います。敷地内で飯倉マナエを殴打した生徒は、カモフラージュのため彼女の荷物を教室まで置きに行き、その間、千田原は彼女をプールに遺棄した」
「なるほど。ではヨシウミを殺したのもその生徒かな?」
「……いいえ。いいえ……、彼は……いや……」
「言い淀むね」
「先程から思い浮かんでいる推測はあるんです。ただ、あまりに酷い話で。口に出すのが憚られる中身です」
「構わないよ。あなたの考察を聞きたい」
「……いえ。先に聞きたいことがあります」
「おお。どうぞご随意に」
「飯倉マナエが殺害された時、飯倉ヨシウミはどこにいたんですか?」
「……あなたの考えが読めたよ。疑っているんだね、ヨシウミのことを。──良かろう、十二月一日の午後八時半頃、ヨシウミはまだ校内にいたよ。これは真実だ。彼自身がそう言っていたからね」
「なるほど。では飯倉ヨシウミは、姉を殺すことが可能だった人間の一人なんですね」
「容疑者その二、だ。悲しいことにね」
「けれどもこれは、きっと真実ではないのでしょうね」
「ん?」
「警察がその線を調べなかったはずがない。飯倉ヨシウミ犯人説はすでに否定されているんでしょう? とぼけなくて結構ですよ」
「ははは。手厳しいね。まあその通りだよ。彼は確かに、部活動の関係で校内にいた。けれど彼は八時四十分には自宅に帰宅しているんだ。家までの距離を見ても、少々無理があってね」
「時間的アリバイという訳ですか。全く、お手上げですね」
「おやおや、弱音を吐くなんてあなたらしくもない」
「『らしい』と言えるほど親しくはないでしょう、僕たち」
「こうして一つのテーブルを囲んでいる仲なのに」
「そもそもこの事件、僕が全てを考察するのは無理がありませんか? 貴方と僕とでは持っている情報量に差があるんですから」
「ふむ。それもそうだね。では、あなたの質問に出来うる限り答えようか。考察の上での障害、不鮮明な部分、当事者達にしか知り得ないこと。直接的な答え以外なら教えてあげよう」
「どうも。……」
「甘い珈琲の味はどう?」
「不思議なことに、どうしてか苦いですよ」
「ふふふ」
「ではまず、飯倉マナエはどのような人間だったのですか? 誰かの……殺されるほどの恨みを買うような少女だったのですか」
「彼女はとても愛らしい子だったよ。溌剌として可愛くて。私もあの子の学校での姿は知らないけれど、殺すことはあっても、殺されるようなことはなかったと思うね」
「前半と後半で大きく矛盾してませんか」
「懸想してる相手がいたらしいんだ。だってほら、嫉妬と独占欲に、刃傷沙汰はつきものだろう?」
「結構な言い草ですね……。なら彼女は修羅場の果てに亡くなったと?」
「有り得なくないことだよ。彼女の想い人のことは、私はもちろんヨシウミも知っていた。しかし両親は知らなかっただろうね。きっと応援しない」
「まさか片想いの相手って、」
「
「教師、ですか。いや、子どもにありがちな事です。身近な大人に恋愛感情に近い羨望を抱くことは」
「そうだね。ほら、愛らしいだろう?」
「刃傷沙汰
「そうかもね」
「はぐらかしますか。では二つ目の質問です。飯倉ヨシウミの詳しい行動の変遷を教えてください」
「変遷?」
「一日から、殺される十五日までの間の様子です」
「欲張るね」
「飯倉ヨシウミの死は、姉の死があったからこそ起きたのだと僕は思っています。その為に、彼の心にどのような変化が起きたのか知りたい」
「ふむふむ。では、少し長くなるよ。ケーキも食べ終えてしまったし、珈琲のおかわりでもしようか」
「良いですね。──すみません。珈琲のおかわりをお願いします。どちらも最初のオーダーと同じものを」
「……飯倉ヨシウミは、双子の姉、飯倉マナエが校内へ戻った八時以降、ちょうど部活動を終了していた。彼の話によると、帰宅する途中、階段の踊り場の窓が開いていたことに気付いて、閉めたそうだ」
「窓が。……十二月に、ですか」
「妙な話だろう? ヨシウミも不思議に思ったそうなんだが、まあそれだけさ。その後はチームメイトと共に家路に着いたらしい」
「なるほど」
「そしてその日の夜のうちに、マナエの死が判明した。翌日から数日間は事情聴取なんかで忙しかったそうだね。葬儀の用意もしなくてはいけなかったし、精神的ショックも大きかった。彼の両親も含めて、みんな
「無理もないでしょうね」
「ああ。しかし、以降の行動ね。彼は家にこもっていて、ほとんど外出していなかったみたいなんだ。保健室登校をし始めたのはマナエの死後から十日経った頃だし……葬儀に参列できなかった、彼らの叔母に会いに行ったぐらいかな」
「参列できなかったんですか」
「入院中だったからね。随分前から患っていた病気があって、外出許可がおりなくてね。ふふ、とても美人な女性なのだよ? 聡明で麗しいのさ。まさに佳人薄命、
「ああ、はいはい。あ、どうも」
「……もう少し興味を持ったらどうなのかな。ミルク頂戴」
「砂糖は入れますか?」
「いや、今はいいよ。ありがとう」
「それで……、ヨシウミがその美しい叔母の元を訪れたのはいつの話で?」
「彼が亡くなる三日前、十二月十二日」
「保健室登校を始めた次の日ですか」
「学校を終えた後、一人で彼女の入院する病院へ行ったんだ。マナエの訃報を知らせる為に面会に行った時、ヨシウミは行かなかったから。後に迎えに来た両親も彼の勝手な行動を怒っていなかったよ」
「どれくらい……何を話したんですか?」
「確か、二時間くらいかな。何を話していたかまでは教えられない」
「その会話の内容が、直接的な答えに当たるからですか?」
「そうだよ。その時の彼の様子くらいは教えてあげよう。──衰弱していたよ。酷く驚いて、怯えていた」
「……。」
「ねぇ、知りたい? 叔母があの子に言った言葉を。特大ヒントだよ」
「はい。と言って、教えて下さるんですか?」
「言ったろう、特大ヒントだって。彼女が放った言葉はこうだ──『気になるのなら、自らの目で確かめに行くのが良い』」
「!」
「ふふふ。分かったかな、名探偵? ここで一つあなたの言葉を肯定しておこうじゃないか。さっきあなたが言った、〝姉の死がなくては弟の死もなかった。〟これは真相の一つだよ」
「……考察は締めくくりに入ります。解答の用意をしていて下さいね」
「All right. 腹ごしらえは終わっているよ」
「Okey. つまり、十五日、飯倉ヨシウミは──自らの意思で深夜の学校に行ったんですね? 現場を確かめる為に」
「現場は既に警察が改めている。それに通常、学校はその時間開放されていない。そこに何が残っていたというのだろうね?」
「窓ですね。あの日開いていたという、階段踊り場の窓」
「それが、どう関係してくるのかな?」
「飯倉ヨシウミが窓を閉めたのは、飯倉マナエが殺害された推定時刻とほぼ重なります。すなわちその窓は飯倉マナエの死に深く関連する。──少々失礼します」
「……これは、地図?」
「飯倉家の双子が通っていた高校は、確かここでしたね」
「ああ。確かにこの名前だね」
「ここ。見て下さい。遺体発見現場のプールは校舎のすぐそば。そしてプールと校舎が面している場所はちょうど階段の踊り場に当たるんです」
「ふぅん……」
「三階と二階の中間の場所。ここの窓から、飯倉マナエは転落した。そうでしょう?」
「── Excellent. その通りだよ、名探偵。飯倉マナエは殺されてなどいない。彼女は階段で足を滑らせ、そのまま落下したんだ」
「事故、だったんですね」
「……ああ」
「しかし、こんな単純な事に何故誰も気付かなかったのか。不思議です」
「ヨシウミが言わなかったからだよ」
「なに?」
「いや、言えなかったと言うべきかな。彼は自分で閉めた窓のことをすっかり忘れていたんだ。後になって思い出したようだけど……最悪のタイミングだったんだね。真犯人が存在しないこと。マナエの死の一因が自分にある可能性に気付いてしまった」
「それは、本人から聞いた話ですか」
「ああ。酷く狼狽した彼が
「頭の傷は殴打の痕ではなく、落下後の激突による損傷の痕。……ああ、なるほど。校舎の三階から落ちたとて、即死には至らない。飯倉ヨシウミが窓を閉めた時、飯倉マナエはまだ生きていた」
「あの子は分かっていた。もしその時、プールのマナエを見つけていたのなら……彼女は助かったかもしれないとね」
「……彼が動揺してた理由は、まだあるのではないですか?」
「ほう? どうしてそう思うの?」
「飯倉マナエがうっかり階段で足を滑らせて落ちたのなら、荷物は階段にあり、飯倉ヨシウミが見つけていたはず」
「しかし彼女の荷物は教室に取り残されていた」
「教室にたどり着き、落下するまでの間に空白があります。それに叔母の元を訪ねたタイミングも気になる。突然、窓のことを思い出した――それのきっかけになる出来事があったからではないですか? おそらく学校の中にいる際に」
「いくつかあるマナエの死の原因。その一つに気が付いた、とかね」
「ヨシウミがマナエを発見できなかったこと。窓が開いていたこと……開いていた窓はおそらく換気をしていて、閉め忘れたのでしょう」
「そういうのって、最終的に確かめる人がいるはずだよね? 校舎内を見回る人がさ」
「! ここでようやく、千田原英二ですか」
「違う!」
「はあ?」
「惜しい、惜しいなあ。そっちじゃないよ。警備員の仕事はあくまで敷地内の巡回だからほとんど校内には出入りしない。ここでの正解は教師だよ」
「シンプルな方でしたか」
「教師といえば、思い出すことがない?」
「あ。飯倉マナエの片想い相手」
「Good! ここからは考察が難しそうだから、答え合わせとしよう。その日の現場近くには、その教師がいたんだ。ヨシウミは本人の口から聞かされたらしい。その教師が、婚約相手の教員と共に校内巡視をしていたことをね」
「……そう言えば彼は、姉の片想いを知っていたんでしたね」
「ああ。そしてヨシウミはこう推論づけた。マナエはその二人の睦言か何かを聞いてしまって、慌ててその場から離れようとした。しかし階段で足を滑らせ、勢いのまま窓から転落したと」
「その後通りかかった自分が窓を閉め、事故は事件になった」
「そう。一件目の真相は本当に
「頼りにした叔母から『自ら真相を確かめろ』と言われ――彼は人のいない時間帯に、学校に行った」
「ここで
「もう間違えませんよ。警備員の千田原英二。手を貸したのは彼です」
「正解。さあ、ここからは私の考察だ――何故なら答えを知るはずのヨシウミはもう故人で、千田原は塀の中だ。だからこれは、本当に私の妄想だよ」
「どうぞ。考察は最終段階に入りました。あとは貴方の番です」
「ありがとう。千田原がヨシウミに手を貸した。これは一番妥当な真実だけれど、千田原は断るべきだったと思わないかい? 姉を失ったばかりの未成年だ、精神が安定しているわけがない。つまり千田原には、彼を手伝う理由があったと思うんだ。私は、千田原英二は
「容疑者その一だった千田原は、実際には全ての目撃者だったと?」
「正確には一部分の目撃者さ。校舎の外で、千田原はマナエの落下を見たんだ。もちろんマナエの元に行こうとするよね? しかしマナエが落下した後に窓を閉める人間を見てしまった。そう、ヨシウミのことだ」
「はたから見れば、ヨシウミが殺害したように映りますね」
「そう。だから千田原はヨシウミのことを真犯人と思い込み、深夜の学校で、勇敢にも追及したんじゃないかな。『彼女を殺したのは君だろう』って。ヨシウミは驚いただろうね、だから彼の話を一から十まで聞いたと思う」
「飯倉ヨシウミは千田原英二の言い分を聞き、千田原英二は飯倉ヨシウミの言い分を聞いた」
「二人は知った。殺人犯はいないけれど、死に至らしめる原因がいくつもあったこと。それは自分たちをも含むこと。二人は口論はしたと思う。互いに責任があるからね。けれど、ヨシウミの身体に争った形跡はなかった。だからヨシウミは殺されてなんかいない。――あの子はとうとう狂乱状態に陥って、自ら命を絶ったんだ」
「……千田原がその後まもなく双子殺人の容疑者として逮捕されたのは、おそらく」
「自責の念だろうね。マナエの落下を目撃しながら、勘違いをして助けに向かわなかったこと。あまつさえ彼女の双子の弟を真犯人と思い込み、そのまま死なせてしまったこと。罪悪感に苛まれるのも無理はない」
「……貴方の考察が真相なのだとしたら、千田原は真実を隠そうとしているのですね」
「まさか猟奇殺人犯として世間で扱われている人間が、実際には自責的で自己犠牲の塊のような人間だったなんて。まさに驚きの結末だろう?」
「そうですね……本当に、驚きです」
「ははは。ほら、珈琲でも飲みなよ。残りが冷めてしまうよ?」
「ええ……。」
「……美味しいね。ここの味は、やっぱり格別だな」
「……ええ。とても」
「このカフェには昔、よく来ていてね。ここ数年はずっと来れていなかったから、こうした形でも来れて良かったよ。ありがとう、私に付き合ってくれて」
「いいえ。しかし、もう満足したんですか。ようやく病院の外に出たのに……考察を交わすだけで良いんですか?」
──昼日中のカフェテリアで、二対の男女が真正面に向かい合って座っている。二人は並んで来店し、一つの丸テーブルを共有したが、彼らは恋人でもなければ、仕事仲間でもない。
男は立派な体躯を一目で上等と分かるスーツで包み、いかにも知的そうである。女は長い髪を緩やかに肩に流し、格好は上品な妙齢の女性のそれでありながら、彼女のまとう雰囲気がミステリアスさに拍車をかけていた。
カフェテリアは昼休みを利用して昼食をとっている会社員や、友人とのアフタヌーンティーを楽しんでいる客で、穏やかに賑わっている。誰も彼らを思考の端に留めてはいない。その席はただ静かに珈琲の芳醇な香りを漂わせながら、悠然と時が流れていた。暗い茶色に流し込まされたミルクがくるくると円を描いたところで、角砂糖が二、三個放り込まれる。星の砂を固めた立方体が溶けていく。言葉の応酬が続き、時折サクリと銀のフォークがケーキを切り取る。片方が喋れば片方がカップに口をつけ、沈黙が下りれば、今度はゆっくりと瞬きをして事の成り行きを見守る。
互いのカップが空になり、陶器の皿にフォークが横たえられる頃、周囲の様相は全く変わっていなかった。彼らの会話だけが先へと進み、時計の針を戻し続ける。タネも仕掛けもない、何の変哲もない
温かな湯気がくゆる。
指先を触れる熱に反して、彼らの脳内と紡がれる言葉は冬の冷気を孕んでいた。言葉の端々をチリつく熱は摩耗され、互いに研ぎ合わされる。半年前の冬の出来事が、時間と共に冷めていく熱と反比例して蘇り、装飾されていく。
男に尋ねられ、女はカップを空にして微笑んだ。
「ああ。満足だよ。私は誰かに知って欲しかったんだ。私の可愛い可愛い姪と甥の死の真相をね。ついぞ
傾けた頬から髪が一房流れて肩に落ちる。
私立探偵の男は薄目で彼女の仕草を見つめた。髪の毛を後ろに払った指先がうっすらと背景に透けている。
「……まあ、こうして綺麗な女性とお茶を飲むことができましたからね。この力もたまには悪くない」
「ははは! 私も楽しかったよ。珈琲、ご馳走様」
女は次の瞬間にはその席から忽然と姿を消していた。空のカップと甘い珈琲の残り香だけが彼女がそこに存在していた事実を表している。
男はわずかに脱力して背もたれに体重を預け、テラスから空を見上げた。
この探偵の男には、探偵としての洞察力や観察力の他に、もう一つ特殊な能力があった。既にこの世から去った人間──つまるところ霊との対話である。
生命活動を終えた肉体から抜け出した霊魂はこの世にしばらく残り続け、ほとんどの生者の目に留まることはなく、その後ひっそりと消えてゆくものだが、この男は霊に一時的な実体を与え、生者と同じように活動させることができる能力を持っていた。故に女──飯倉家双子の叔母は、店員に注文をし、珈琲に角砂糖とミルクをふんだんに溶かして飲み、チーズケーキを食べる事ができたのだった。
彼女は病気の為に、先月病院で息を引き取っている。男の元を訪ねてきた彼女の心残りは、件の殺人事件の話をしたいというものだった。
話をしたい、だけだ。
二人の間で明らかになった悲愴な真実は世間に対して
「……どうか安らかに」
カップの縁を合わせて「カチン」と小さな音を立てる。探偵は瞳を閉じ、すっかり冷めきった最後の一口を流し込んだ。
『殺人なき事件』/終
殺人なき事件 一野 蕾 @ichino__
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