人獣共通の不安

増田朋美

人獣共通の不安

その日もう秋というか冬の初めと思われてしまう寒さで、もう毛布が無いと寝られないと思われる陽気であった。そんな日は、みんなで楽しくスポーツでもしようというのが通例になっているが、それでもスポーツどころでは無いと言っている人もいる。

「そうですか。全般性不安障害ですか。それでは一日中不安で仕方ないということですよね。まあ最も、このご時世ですからね。どこかの国では戦争を始めてるし、不安になっても仕方ないですよね。」

水穂さんは、利用者の女性の顔を見てそういった。

「まず初めに、薬だけではなんとかしようと思わないでください。こういう疾患は薬だけではどうにもなりませんから。ちゃんと自分で思っていることを口にして、考え方を修正していけるようにしなければなりませんね。そのためには、カウンセリングを受けるとか、ヒプノセラピーのような事を受けることも必要でしょう。こちらでも先生を紹介することはできますし、よろしければいかがですか?」

「でも、カウンセリングって難しいのですよね?私、自分の事をうまく話すことは苦手なんです。」

水穂さんの話に、利用者は申し訳無さそうに言った。

「いえ、大丈夫です。自分の言うことを表現する自由がちゃんと効く人であれば、カウンセリングは受けられます。あなたは少なくとも、そういう事をしては行けない人では無いわけですから、受ける権利は十分あります。」

水穂さんがそう言うと、

「そうなんですか。水穂さんはそういう事言うけど、たとえ憲法で保証されていると言われても、私は嬉しくありませんよ。それよりも、なんでこんなに緊張して不安で仕方ないんだって、気がしちゃうんだろう。」

利用者は小さな声で言った。

「もし、よろしければ、カウンセリングの先生を紹介しますから、言ってください。とにかく、医療だけではなんとかできないものです。そういう疾患って、僕は詳しくないですけど、意外に多いのでは無いでしょうかと思うんです。」

水穂さんは優しく言った。

「そうですかあ、水穂さんにそう言われたら、私もなんとかしなければいけませんね。とにかく不安で仕方なくて、もういても経ってもいられない程なんですよ。夜も眠れないし、食事も満足にとれないですしね。それじゃあ確かにいけないか。」

利用者が考えている間に、水穂さんはメモ用紙に古川涼さんの電話番号と住所を書いた。

「よろしかったら、こちらへ電話してください。ちょっと考え方の癖を訂正するだけで、上村さんの考え方も変わると思います。僕も涼さんに上村和歌子さんと言う女性が電話をかけてくると言っておきます。」

「あ、ありがとうございます。」

上村和歌子さんという利用者は、水穂さんからメモ用紙を受け取った。

「ただいまあ。」

玄関のドアがガラッと開いて、杉ちゃんが戻ってきた。水穂さんは、杉ちゃんかと小さい声で言った。

「おかえりなさい。どうでした、フェレットちゃん。」

上村さんが言うと、

「はい。まあ、全くフェレットも限りなく人間に近い動物だよな。不安障害だって。全く、困ってしまうもんだぜ。フェレットが不安障害にかかるなんてね。」

と、杉ちゃんは、そう言いながら四畳半にやってきた。膝の上に、輝彦くんが乗っていた。普通のフェレットと違い歩けないので、逃げてしまう心配はなく、杉ちゃんの膝の上にちょこんと座っている。

「そうですか。フェレットも精神疾患があるんですね。」

水穂さんがとりあえずそういう。

「一体どういうことですか?精神疾患は人間だけだと思ったんですけど。」

上村さんが言うと、

「あのね。今朝、ここへ連れてきたときにな。朝の掃除をしていたら、キュイーンというおかしな声がして、何だと思ったら、輝彦が足をバタバタさせてきゅうんきゅうんと叫んでたわけよ。それで近くにいたたまが、吠えて知らせてくれて、水穂さんが輝彦抱っこしてなだめてたんだ。なんか惹きつけ起こした人間の赤ちゃんみたいだったよ。だから、様子がおかしいから、動物病院で見てもらったわけ。」

と、杉ちゃんが状況を説明した。

「そうなんですか、、、。いいですね。てるちゃんは、そうやって知らせてもらえるんだから。」

上村さんはちょっと羨ましそうに言った。

「まあ、不安発作で、辛かったんだろうね。お前さんみたいに、口でなにか伝えることはできないんだからさ、ちょっと大めに見てやってくれ。まあ、これからは餌に薬を飲ませて、安定させてあげような。それで、上村さんの方はどうだったの?なにか結果はわかった?」

杉ちゃんが言うと、水穂さんが、

「上村さんも不安障害なのだそうです。だから僕は、人間もフェレットも、共通点があるんだなといいましたけどね。」

とそっと言った。

「まあいい。とりあえずなったものは、受け入れるしか無いからね。それでは、輝彦には餌に薬を飲ませて安定してもらって、上村さんは、薬飲んだりカウンセリング受けたりして、なんとかしてもらおう。」

杉ちゃんという人は、こういうときに切り替えが早いのだ。なぜかこういう事に対して、後悔したりぐちをいったりすることもない。そういうところが他の人にはできないことだと思う。

「そうかあ、不安障害のフェレットか。人間も結局は動物なのねえ。人獣共通の不安障害か。」

上村さんは、考え込むように言った。とりあえず、輝彦くんは、薬がよく効いて眠っているので、杉ちゃんは彼を水穂さんの近くにあった座布団の上に載せてあげた。そしてご飯にするかと言って、杉ちゃんは台所に移動してしまう。上村さんは、ちょっとうらめしそうに輝彦くんを眺めていたのであるが、

「いいじゃないですか。不安障害にかかるのは自分だけじゃないんだって考えれば、お仲間ができますよ。」

水穂さんがそういったため、上村さんは小さなため息をついた。

それから、杉ちゃんの合図でお昼の時間になった。製鉄所という福祉施設の基本ルールとして、杉ちゃんが作ったものを食べてもいいし、コンビニなどで買ったものを食べる利用者も居るが、大体の者は杉ちゃんの料理を食べることになる。なぜかというと、杉ちゃんの料理は栄養満点でものすごく美味しいからだ。とりあえず、利用者の人数分のご飯が食堂のテーブルに並べられた。

「杉ちゃん今日のお昼何?」

と、利用者の一人が言う。

「おう、今日は和食だよ。鯖の味噌煮だよ。」

確かに、和食が嫌いという利用者も偶にいるが、杉ちゃんの料理が味がいいので、みんな食べるようになってしまうのであった。

「杉ちゃんこれ何?」

別の利用者が、器に乗ったものを杉ちゃんに聞いた。

「それはね、ひじき。」

杉ちゃんが答えると、

「へえ!初めて食べるわ。髪の毛みたい。」

とその利用者は言うのだった。杉ちゃんの料理で食べさせてもらうまでは、ひじきなんて知らなかった利用者も偶にいる。ひじきだけではなくて、漬物や、海藻類などを食べてこなかった利用者も居る。杉ちゃんはよく、お前さんはどうしてこの食材を知らないのかというのであるが、その女性たちは、そういうものを知らなかったのだ。それを考えると、日本の若い女性たちが、こうして日本の食文化を説明できないのはそういうことだと思う。

「ねえ杉ちゃん、これ美味しかった。どうやって作るの?」

と味噌汁の器を持って、聞いてくる利用者もいた。

「誰かに作ってやりたいのか?」

杉ちゃんが言うと、

「ええ。家族に食べさせてやりたいんです。」

とその利用者はいった。

「そうか、そういうことなら、お前さんのお母ちゃんに聞いて見ろ。喜んで教えてくれるから。そういうところでお前さんのわだかまりも取れるといいね。」

杉ちゃんは味噌汁を眺めてそういう事を言った。彼の言う通り、年配の女性であれば味噌汁の作り方は誰でも知っている。なぜ、若い人は味噌汁の作り方を知らないのだろう。その断絶というか、そういうところがなんだか難しいところがある。利用者たちは、白いご飯と味噌汁と、鯖の味噌煮そして、ひじきの和物のご飯を美味しそうに食べるのだった。いつの間にか、利用者たちは、そういう和食を食べるようになっているのである。それはある意味、杉ちゃんの料理の技術かもしれない。

「そうなんですね。あたしの母が、味噌汁のことを知っているとは思えないけど、でも聞いてみようかなあ。」

利用者はにこやかに笑ってそういった。

「なんで、味噌汁の事を知らないと思うんだ?」

と杉ちゃんが言うと、

「だって、うちの母は今まで仕事ばっかりして、ご飯なんて私はインスタントのコーンスープばっかりだったもんね。他に料理作ってくれる人もいないし。うち、母と二人だからさ、そんな事してもらったこと無いのよ。」

と利用者は言った。確かに、最近の家族は、核家族である。年寄りと一緒に住むのは、時代遅れとか、カッコ悪いとか言われている。さらには、単身で母一人子一人という家庭も珍しくない。最近は男性を信用しないで、シングルマザーとして生きる人も多いけど、そういう食生活とか、住生活などの知恵は、年寄がいてくれたほうが、うまく伝授できるような気がする。それは、なんだか時代の流れということもあるんだろうが、それと同時に、便利で余計な気遣いはしなくていいものの、失われたものもたくさんあるような気がする。

「まあ、そういう事言うな。とりあえずお前さんのお母ちゃんにだな、味噌汁の作り方を教えてくれって言ってみな。きっと喜ぶよ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

上村和歌子さんは、そういう仲間に加われなかった。確かに、上村さんのお母さんも、食生活には非常にだらしない人で、上村さんは、ご飯を食べなくてもお菓子で誤魔化しているような食生活であった。上村さんはお父さんの事は知らなかった。なんでも彼女が小さいうちに離婚したらしい。それで、コーラスのピアノ伴奏をしているお母さんは、いろんなコーラス部の練習に参加していて、二人で楽しく会話して食事ということは殆どなかった。上村さんが、製鉄所に来訪するようになったのは、上村さんが高校を卒業して、ある運送会社で働くようになったことがきっかけだった。なぜか、仕事を覚えようとしても仕事が人並みにできない。こうしろああしろと先輩社員に話をしてもらっても、理解できない。上村さんは、結局退社するしかなかった。それで、家にいても仕方ないので、製鉄所に来るようになったのだ。

「和歌子さん。」

杉ちゃんに言われて、上村さんはハッとした。

「もうみんな食べ終わっちまったぜ。早く食べてよ。」

「ああ、申し訳ありません。急いで食べなくちゃね。」

と上村さんは、ご飯にかぶりついた。もう味なんて感じられない。はじめの頃は、不安で味が分からないということにしていたが、最近はそれだけでは無いんだという気がする。

「ごめんなさい、ごちそうさま。」

上村さんは食べ終わった食器を、杉ちゃんに渡した。他の利用者たちは、お昼を食べ終えて、午後の勉強に取り掛かろうという人が多くなってきたが、上村さんはそれに加われなかった。まもなく誰かがピアノを弾いている音がする。水穂さんだ。上村さんは、ちょっと四畳半の方へ行ってみた。

水穂さんは、多分指の練習なのだろうか、ショパンの練習曲を何曲か繰り返してやっていた。母が、すごい難しい曲だと言っていたのを聞いたことがある。それを簡単に弾けてしまう水穂さんは、母よりすごい人だなと上村さんは思うのだった。でも、自分がピアノをひこうという気にはならなかった。本気でなにかにやってみようなんて思ったことはない。というより何をしたらいいのかわからないというのが、本音かもしれない。上村さんは、本当にこれからどうやって生きて行けばいいのか考えてしまう。何も無いから答えにたどり着けない。だから、いつまでもわけもなく一日中不安で仕方ないということになるんだろう。まあ、とりあえず、全般性不安障害という病名を与えられただけでも、一つの進歩かもしれなかった。

また、キュイーン、キュイーン!という声がした。それと同時にピアノの音が止まった。上村さんが四畳半を覗いてみると、座布団の上で輝彦くんが仰向けになって前足をバタバタさせて叫んでいた。多分後ろ足が動いたら、後ろ足もバタつかせていたのだろう。水穂さんは、輝彦くんをそっとつかみ、まるで赤ちゃんを抱っこするような感じで、彼を抱っこして、はいはいなんて声までかけてやっている。なんでこんなに優しいのかなと、上村さんは思うのだった。

「どうしてそんなところで、ぼったって居るんだ。」

と、杉ちゃんに言われて、上村さんは急いで振り向いた。

「ああ、ごめんなさい。輝彦くん、また発作を起こしたみたい。水穂さんが抱っこしてるから、なんか羨ましくなって。」

上村さんは、苦笑いして言った。

「なんで、あの子はああしてかわいがってもらえるのかな。私は、母になにかしてって頼んでも何もしてもらえなかった。」

この部分は、人間と動物の全く違うところかもしれなかった。

「まあねえ、過去はあんまり見ないほうがいい。それは見てもしょうがないことだからさ。」

と杉ちゃんが言うと、

「そうね、過去は見ないか。でも、未来だって何もわからないわ。私は資格も持ってないし、生きるための武器もなにもないのよ。きっと、将来生活保護とかで暮らしていくことになるんでしょうけど、何もすることがないなんて惨めよね。私学校で何をやってきたのかな。そういえば、学校だって、あんまり体力なくて、行けなかったから。」

上村さんは、小さくため息を付いた。

「そういうことか。お前さんの場合は、そういうふうに口に出して言うことができるんじゃないか。きっと、そこを利用すればまた違うと思うよ、とりあえずお前さんには、目がある耳がある、口もある、そういう体がちゃんとあるってことで、それを利用して何かできるんじゃないかなと思うけどね。ああ、体と言って、売春とかそういうものではないぜ。そうじゃなくて、お前さんは、不安障害になった経験があるということだ。それだけだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、いつの間にかキュイーンと泣き叫ぶ声は止まっていた。多分、水穂さんに抱っこされて、輝彦くんは気持ちよくなったのだと思う。

「てるちゃんだって、ああして抱っこしてもらってるんだもんね、あたしは、そういう事は、」

思わず上村さんがいいかけると、

「だからあ、抱っこしてやることだってできるんじゃないか。同じ経験を持っているってことは、病んでいる人にとっては何よりの薬であることをお前さんは知っているはずだぜ。精神疾患の最高の薬は仲間を作ることだからな。それができないからこじれてしまうんだ。そうなる前に、仲間を作ってやることだってできるんじゃないのかな?」

杉ちゃんは、すぐ答えた。

「杉ちゃんって何でも即答なんですね。あたし、びっくりしちゃうわ。なんですぐにそうやって答えがホイホイでてくるのか、私は、不思議で仕方ない。」

と、上村さんが言うと、

「それはただ、事実に対して答えを言ってるだけじゃないか。いいか、人間なんて、できることはこれだけだぜ。ただ事実があって、それに対してどうすればいいかを考えるだけなの。それに嫌だとか、嫌いだとか、そういう感情が入るから人間の能力は難しいものになるんだけどね。だけど、実行できる人間ばかりでもないだろ。実行できないほうが多いだろ。それに対しても考えられるっていうのもすごいところだけど、結局、僕らができることってそれだけなんだよね。だから、すごい大事業をするやつも、そういうところから始めるんだよね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「杉ちゃんそれどこで習ったの?学校の先生は教えてくれなかったわ。そんなこと。私が教えてもらったのは、ただ試験で100点を取ることしか教えてもらえなかった。」

上村さんは学校で教えてもらったところを言った。確かに学校は学問するには最高に良い施設で、素晴らしいものがある。でも、何故か知らないけど、日本の学校はそこを忘れていることが多い。なぜか知らないけど、試験で100点を取ることばかり気にして、生きていくために必要なこととかはまるっきり教えてくれないことになっている。まともに信じてしまうと、学校は、大損をするためにあるような気がする。

「僕は、お寺の観音講だよ。だけど、宗教って、当たり前の事言ってても、通じない事もあるから、それは難しいんだけどね。でも、どんな手段でもいいから、この事を知っておくと、すごく気が楽だぜ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

いっぽう水穂さんの方は、輝彦くんを静かにさせることに成功したからだろうか、またピアノの椅子に座ってピアノを弾き始めた。次はなんとなく物悲しくて、ちょっと憂鬱なところもあるショパンのマズルカだった。母が弾いていたこともあったが、母はここまでできないだろうなとよく分かるくらい、水穂さんのマズルカは上手だった。

「水穂さんって、不思議よね。なんでああして人間にも面倒見がいいけれど、フェレットにまで面倒見がいいんだから。そういうことができるって、やっぱり普通の人とは違うわよ。何か理由があるのかな。あたしは、良くわからないな。」

上村さんはそうつぶやくと、

「まあ、答えはそのうち分かるんじゃないの。それを受け取って、どうするかはおまえさん次第だけど。でも、事実なんてな、変えられないことでもあるけれど、お前さんには感じることができるからそれ次第で、いろんなパターンに変化するんだよ。それが、多分、人間のすることなんじゃないの?」

杉ちゃんに言われて、それ以上言うことはできなかった。

なんだかもう空はうろこ雲がかかり始めていた。そうなると本格的に秋の到来と思われるのかもしれない。秋は短いけれど、いろんなことが充実していて、やりやすい季節なのだと思う。それは、日本にいれば、どこでも変わらないものであった。



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人獣共通の不安 増田朋美 @masubuchi4996

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