くじらの見える丘できみと

ちゅ、損。

くじらの見える丘できみと

小説家というのは実に難儀なもので食う寝るを惜しんで筆をとる。きっと筆を折るのは死んだ時なのだろうと悟るぼくはだめな小説家のひとりで書斎のカーテンからもれた朝日で朝を知った。また徹夜してしまった。シャワーでも浴びようか、と席を立った時一枚の便箋が床に落ちた。藤田とおる様、と達筆な字で書かれたそれは紛れもなくファンレターで拾い上げて首を傾げる。白い便箋に紺のボールペンで書かれた手紙を見ながら記憶を辿ると、昨日担当編集から貰ったことを思い出す。そうか、それで机に置いたままにしていたのか。シャワーを浴びることを後回しにして手紙の封を切った。


藤田とおる先生へ

初めてお手紙差し上げます。私は十七歳の女子高生で、toktikにて藤田先生の作品を知りファンになりました。好きな作品は「桜なみき」です。可奈が洋介の自転車に乗って桜を見るシーンは読んでいて胸が締め付けられました。なぜなら、私の恋はきっと叶わない恋だからです。

私の好きな人は夢に出てくるひとです。名前は分かりませんが、長い黒髪がきれいな女性です。ひとつ先述させていただくと、私は同性愛者ではありません。ですが、彼女が夢に出る度に胸が高鳴って嬉しくなります。その人が出てくるときは決まって私が早く寝たときで、いちばん最初は半年前だと思います。どこかわからないですが海のまんなかにある丘で私はその人の膝枕で寝ていて、柔らかく髪を撫でられます。話し掛けようとしても声は出なくて、ただ微笑んで髪を撫でるその人を見ることしかできません。でも、一度だけくじらが空を飛ぶのをふたりで見ました。その人はそれを見てきれいだね、と言って髪を撫でました。彼女の声は鈴のように美しくて、私は恋に落ちました。その人に会いたくて毎日早く寝て夢の中で黙って髪を撫でられました。キスやハグは当然出来なくて、名前を聞くこともできないけれど、それでいいってその時は思うんです。でも、夢だからいつか見なくなることもありますよね。大人になったら彼女は出てこなくなるかもしれないですよね、それが不安で彼女にすがりたくなります。夢で会った人に恋をするなんて馬鹿ですよね。私もわかっています。でも、この気持ちを止めることは出来ないんです。

先生の書かれた「桜なみき」では可奈は既婚者で洋介は大学生と禁断の恋が描かれていますよね。前述した桜をふたりで見るシーンで可奈がもう終わりにしよう、と口にするところは私の恋に重なりました。洋介のようにちゃんと終わりを告げられるのか分かりませんが、夢である以上いつか忘れてしまう未来の自分が憎らしいです。この手紙を綴ったのは、彼女を忘れないために先生とこの思いを共有したかったからです。身勝手ですみません、でも私の小さな恋心をどうか先生だけでも覚えていて欲しいです。急に寒くなりましたので、お身体にはお気をつけください。長文失礼いたしました。 坂巻瑠香


最後まで読んでずきんと胸が痛んだ。自分の作品に自らを重ねる人は少なくないが、こんなに切ない話は知らなかった。ぼくは慌てて引き出しから便箋を取り出した。彼女に返事を書かなくてはいけないと思ったからだ。万年筆にたっぷりとインクを染み込ませて、ゆっくりと紙に筆を滑らせた。


「くじらの見える丘できみと」

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