料理コンテスト
遠藤
第1話
この日、恭介は、5歳の娘と一緒に料理コンテストに出場するべく、その会場を訪れていた。
娘と妻は、先に会場入りしている。
受付を済ませると、待合室に通されたのだが、そこは父親だけのようだった。
妻の説明によると、このコンテストは、父親が娘の料理をする姿を見守り、最後に一皿食べるというものらしい。
これのどこがコンテストなんだと、妻に聞いても要領を得なかったので、たぶん審査員が居て、作り方や味などを判断して点数をつけ、その点数で優勝が決まるのだろうと一人解決させたのだった。
待合室にいる父親達は、皆一様に自信が漲っており、まるで自分が出場するかのごとくオーラを醸し出し、無言のバトルがさっそく始まっていた。
もちろん恭介も愛する娘のため、例え場外であっても、気負いしないよう、虚勢を張ってみせるのだった。
さっそく、自分を含む、最初の組の三人が呼ばれた。
どうやら、三人一組ずつ戦い、勝ち残った者が決勝、という感じなのだろうと思った。
指定された席に着き、他の二人をチラッと見る。
軽く会釈をしながらも、胸元についている名札と服装、姿勢等を素早くチェックする。
相手を分析し、どれほどのポテンシャルがあるのか瞬時に判断するのだ。
1番の佐藤さんは、30代と見る。
服装はラフで、ハイブランドではなさそうだ。
姿勢はやや猫背で、肩回りなどを見る限り、筋トレはしてないだろう。
まあ、普通のサラリーマンというところだろうと、分析をした。
2番の木村さんは、落ち着いた雰囲気があり、見方によっては40代。
でも、もしかしたら30代かもしれない。
服装は、上下スーツでビシッと決めている。
体にフィットしてる感じは、オーダースーツだろう。
生地も良さそうだ。
特別な日に着ているかもしれないが、その時のために、体系を維持しつづけていることを考えると、かなりストイックな人と見る。
こういった存在が一番厄介だと、自分の危険信号が灯っている。
この戦いは、2番の木村さんとの一騎打ちになりそうだと、恭介は思った。
何かしら戦略を立てたいところだったが、妻の説明では要領を得ず、また、会場にきてからも、特にスタッフからの綿密な説明はなく、言われるがまま、この場所に座ってしまった現状に、今さらながら、準備不足の自分を呪った。
そんなことを考えていると、いよいよ娘たちの入場となった。
緊張の面持ちで、三人の娘たちが入ってくる。
この場所は、娘たちが調理するステージの真正面にあり、手元まで辛うじて見える距離にあった。
ガラス張りの空間からステージを見る仕様は、いつかテレビで見た、野球の実況席のような感じだった。
妻の姿が見えないところを考えると、妻たちも、どこか離れたところから、見守っているのだろう。
娘だけで料理ができるのかと焦ったが、きっとこの日のために、練習してきたに違いない。
安堵すると同時に、緊張する娘の姿をみながら、恭介は、ふと思った。
生まれてからこうやって、ゆっくりと娘を見る機会が、はたして、あったのだろうか?と。
家族を支えるために、ひたすら仕事だけに打ち込んできた。
早く出世して、家族が安心できる生活のためにと、朝から晩まで働いてきた。
家族のために、全力で走り抜けた今までの自分に悔いはないが、それと同時に、もう二度と味わうことができない、大切な家族の時間さえも失ったのではないかと、心の奥底から、胸を掻きむしりたくなるような、取り返しのつかない感情が湧き上がってくるのを、感じるのだった。
せっかくの娘の晴れ舞台に考えることではないなと、恭介は湧き上がってくるソレをまた、心の奥へと沈めたのだった。
いよいよ、コンテストが始まった。
娘たちは、それぞれ用意された調理台に立ち、課題の料理、カレーを作り始めた。
カレーは簡単だが、間違えると大変な事になる。
何より野菜の皮を剥いたり、炒めたりできるのだろうか?
恭介には、心配ばかり浮かんできた。
調理台には、たくさんの調味料と、多くの食材が置いてある。
コンテストなので実力を試しているのだろうが、それにしてもかなり多種な調味料と食材だ。
カレーとは、関係なさそうなものも、いくつか見えるが気のせいだろうか?
まあ、妻から一通り教わっているのだろうから、大丈夫だろうと恭介は思った。
最悪、分量など間違えても、カレーのルーさえ入っていれば何とかなる。
そう、たぶん・・・・。
あとは、娘を信じて待つだけだと、心配する自分を黙らせた。
三人の娘たちは、スタートしてしばらくは、何から始めればいいのか辺りを見渡し、母親を探す素振りを見せたが、決心したのか、まず、1番の佐藤さんの娘が先に動いた。
あらかじめガス台に用意されていた鍋に、サラダ油を入れ始めたのだが、想像以上に量が多い。
サラダ油を重そうに持ち、ドバドバと入れている。
チラッと佐藤さんを横目で伺ったが、微動だにせず見守っている。
なんなら、微笑すら浮かべていた。
余裕の表情。
たしかに、これくらいなら可愛いもんだ。
佐藤さんの娘の行動を見て、他の二人が勇気づけられて、動き始めた。
2番の木村さんの娘は、鍋にジャガイモを皮のまま数個入れた。
細かいことが気になる恭介は、イモは洗ってあるのか?、芽はないのか?と浮かんだが、我が家の娘ではないので安堵する。
そして、我が家の娘は木村さんの娘を見てか、ニンジンをそのまま入れる。
きっと、一人で包丁を使うのが怖かったのだろう。
ニンジンだろうがなんだろうが、何なら、そのまま食ってやると、父性が爆発するのだった。
父親三人は、愛おしい娘の頑張る姿に、愛情が体中から溢れ出しており、皆一様に瞳が潤み、命を懸けて守りたい宝物を手にできた喜びに包まれていた。
そう、5歳児のポテンシャルを味わうまでは・・・。
佐藤さんの娘が、生肉を鍋に投げ入れる。
更に、玉ねぎの皮を剥き始めたのだが、目に染みたのか泣き出してしまい、剥き途中の玉ねぎとまったく剥いていない玉ねぎを、数個そのまま入れた。
佐藤さんは、じっと腕組みをしたまま微動だにしない。
隣の木村さんの娘は、ナスのヘタを取ることもなく、また、切らずにそのまま数個投入していく。
まだまだ余裕の木村さんは、微笑みすら浮かべている。
しかし、だんだんこのコンテストの恐ろしさを、三人の父親は、心のどこかで気づき始めていた。
他の二人の娘に気を取られ、自分の娘の行動を見ていなかった恭介は、慌てて娘を確認する。
両手で醤油ボトルを持って、鍋に少しずつ入れている。
ちょこっと入れて止めて、また、ちょこっと入れて止めて、少し何か考え、また、ちょこっと入れて止めてを繰り返していく。
最初は微笑んで見守っていた恭介も、あまりにも、ちょこっと入れが続くので、だんだん恐怖にかわってきていた。
(もう、十分じゃ・・・)
我が家のカレーに、醤油が入っているのかは知らないが、例え入れてたとしても、隠し味程度なはず。
よーく見ると、醤油ボトルの半分くらい減っている。
(・・・カレーのルーを入れれば、まだ、なんとかなるはず・・・)
「ルー」は無敵だと、信じる気持ちが、ますます強くなっていく。
どんなモノも、美味しく包む・・・、いや、食べられるモノに変えてくれる、魔法のカレーのもと。
無意識で、佐藤さんの娘を見ると、また、油のボトルを持ち、鍋にドバドバ投入している。
始まってから、あたたかく見守っていた佐藤さんが、前のめりになり、頭を抱える仕草をしている。
恭介は怖くなり、視線を2番の木村さんの娘に向けると、卵を持って、鍋の淵で割って入れようとしているところだった。
なぜ、このタイミングで卵なのか、疑問意外浮かばなかったが、目を逸らせずにいると、恐る恐る割ろうとしていたが割れずに、勢いよく卵をぶつけたら、殻ごと鍋に落ちた。
上手く割れなかったのか、手に付いた、生卵の感触が嫌だったのか、手を振りながら泣き出してしまったが、その姿を見る木村さんは、まだまだ余裕なのか、微笑すら浮かべていた。
またしても、娘から目を逸らしてしまったと急いで確認すると、何か容器に入った、白い粉のようなものをスプーンで入れている。
(塩か?砂糖か?はたまた小麦粉だろうか?)
何なのかわからないが、娘がまた、ちょこっと入れを繰り返していく。
1杯、2杯、3杯。
鍋の中を覗き込んで、また1杯、2杯、3杯・・・。
我が家の娘は、引っ込み思案で、少々臆病なのだろうかと思った。
いや、たぶん妻には似ず、自分に似て慎重な性格なのだろう。
妻は自分と真逆な性格で、細かいことを気にしない大雑把なほうだ。
悪く言えばガサツだ。
だから、家事全般気になる部分が多い。
言い出したらきりがなくなるので、今は、妻の事より娘のことだ。
娘の、その繊細な性格は、時に傷つきやすく、脆いものであるかもしれない。
でも必ず(1杯、2杯)、生きていく大きな(3杯、4杯)、武器として(5杯、6杯)・・・何を何杯入れてるの?!
「どうした?!」
突然、1番の佐藤さんが声を出した。
今まで、皆静かに見守っていただけに、突然声を出され恭介の体は、ビクッとなった。
佐藤さんを見ると、椅子から腰を上げ、ガラス窓に突進しそうな姿勢で、瞳孔がおもいっきり開き、娘を凝視している。
その凝視する先を見ると、佐藤さんの娘が、ゴマ油をドバドバ入れていた。
それを見た恭介は、スグに同じ気持ちになった。
佐藤さんの心の声の意味が、自分にも痛いほどわかったのだ。
そう、ただただ、「どうした?!」なのだ。
誰に教わったのか?はたまた、どこで見て覚えたのか知らないが、何故、ソレをカレーに入れているのか?
しかも、ドバドバと。
妻が、他の料理を作っている際に覚えたのかもしれないが、このカレーを作るにあたって、しっかりと教えてもらっているはずだ。
緊張で、忘れてしまったのではと、思いたいところだが・・・。
その時、恭介はふと、嫌なことが浮かんでいた。
(妻からのプレゼント)
これは、もしかして普段仕事ばかりで、子育てに全く参加しない夫への、皮肉のこもった、妻からの愛のプレゼントなんじゃないだろうか?
一瞬、「あの野郎」という怒りの感情が湧いたが、冷静になって考えてみれば、自分は毎日、外から巣に帰って眠るだけの獣だった。
家族で夕飯を食べたのは、いつだっただろうか?
家族で笑いながら、おしゃべりしたことがあっただろうか?
娘が生まれてからの生活を振り返れば、妻を妻としてみることが無くなり、いつからか、家政婦のような扱いをしていた。
妻と娘を、自分の人生の脇役に追いやってしまった。
いつまでも、温かい家族を築いていくと固く誓ったあの頃の自分は、いつからか消え去っていた。
どうしようもない事実に打ちのめされ、本当に大切なものに気づいた恭介の両目から、とめどなく涙が溢れ出した。
今からでも、まだ間に合うだろうかと、恭介は心の中で神様に問いかけた。
「大丈夫、まだ何とかなりますよ」
それは偶然なのか、その神様への問いの瞬間、隣の木村さんからハンカチと一緒にその言葉が、そっと恭介に差し出された。
恭介は一瞬驚いて、木村さんを見上げ、この人は神様なのかと思った。
しかし、どうやらそうではなかった。
木村さんの見つめる先は、我が家の娘を見ているようだった。
恭介も娘を見てみると、鍋の横に空になった酢のビンがあった。
娘は酢の匂いが耐えられなかったのか、その場から離れはじめた。
(・・・・)
恭介の体が震え始めた。
ここまで、何かを怖いと感じたのは、いついらいだろうか。
怖い、逃げたい。
家族のことを思い、涙を流していた自分など、どこかに吹っ飛んでいた。
今は恐ろしさしかない。
あれはカレーでもなければ、もはや食べ物でもないだろう。
「なんでーーーー!!」
またしても、1番の佐藤さんが絶叫した。
見ると、佐藤さんの娘がマーガリンをごっそり入れていた。
ほぼ油でできた、謎の料理が出来上がっていく。
ヘナヘナと力を失った佐藤さんは、そのまま机に倒れこんで涙を流した。
恭介は、励ますことも、慰めることもできずにいた。
このコンテストの衝撃に打ちのめされ、ライバルを励ませる力が湧いてこなかった。
「まだだーーーー!!」
またしても、恭介は驚いてビクッとした。
突然、隣の木村さんが叫んだからだ。
今まで、冷静に見守ってきていた神様、木村さんが、ついに取り乱したのだ。
木村さんの娘を見ると、いかにも、もう完成しました、みたいな態度で佇んでいる。
なんなら、エプロンも外そうとしているように見えた。
恭介は、ますます、ワナワナと体の震えが、強くなってきていた。
そう、ある疑念が、とても強くなってきたからだった。
それは、とても大切な核心であって、今大会の主役。
「ルー」が入っていない。
急いで、調理台のカレールーの箱を探す。
どこだ?
まさか無いのか?
そんなわけないと思うが、スパイスから作るカレーなんて無理だ。
5歳児に、本格カレーは無理だろう。
なんなら、味見すらできないんじゃないか?
こんなの5歳児の大会ではないと、恭介はスタッフを探しに外に出ようとした。
そのとき、1番の佐藤さんがまたしても叫んだ。
「たのむ!火をくれーーー!!」
恭介はハッとした。
確かに、コンロの火が付けられた気配がない。
木村さんも、ついに涙を流しながら取り乱している。
火・・・
もっとも、恐れていたことだ。
加熱もされず、カレールーも入っていない、あの謎のモノを食べる勇気などない。
そして、まさか一から十まで娘のみで行うとは、思ってもいなかった。
コンロの火を付けることなど、5歳児にはほぼ無理だろう。
なぜ、補助者を用意しなかったのか、疑問というより、悪意があるように思えてきた。
さらに、1番の佐藤さんの鍋には、生肉が入っている。
何の生肉か知らないが、ほぼアウトだろう・・・。
佐藤さんの心の声が、またしても恭介には痛いほどわかった。
そんなことを考えていると、終了のブザーが鳴り響いた。
沸々と沸き起こる、怒りがついに沸点に達しようとしていた。
こんな茶番に付き合う義理など無い。
とにかく、スタッフと妻に一言言ってやろうとドアノブを回したが、鍵が掛かっているのかドアが開かない。
閉じ込められたと焦ってると、突然、スピーカーから女の子の声が聞こえてきた。
「パパへ。いつもお仕事頑張ってくれてありがとう。いつも、早く寝ちゃうからお話できなくてごめんね。パパが帰ってくるまでいつも頑張ろうと思っているけど、どうしても寝ちゃうの。お休みの日も、忙しいから、本当は一緒に遊びたいけど、パパは疲れているから。無理しないでね。いつか一緒に遊べると嬉しいな。パパ大好きだよ」
佐藤さんが声を上げて泣いていた。
気づくと三人とも泣いていた。
佐藤さんの娘が、まるで自分の娘が言っているような気がして、恭介も涙が止まらなかった。
次に、木村さんの娘が手紙を読んだ。
「パパ元気だった?美佳はこんなに大きくなったよ」
今度は木村さんが大声で泣き出した。
「幼稚園の運動会で一位になったよ。パパにも見て欲しかったな。またママとパパと美佳で・・・」
そこまで読むと、木村さんの娘が泣き出した。
木村さんは、涙を拭うこともせず、大粒の涙を流しながら、ただ「すまない」と謝るだけだった。
恭介は、そっと木村さんの背中に手をあて、さきほど借りたハンカチを差し出した。
恭介も涙を流しながら、ふと思った。
このコンテストは、もしかしたら、何かを守るためにと、一心不乱で走り続ける父親達に、本当に大切なモノがなんなのか気づかせるために、開催されたものなのかもしれないと思うのだった。
「パパ」
恭介は、その声に、ビクッとまたしても体を震わせた。
「パパと遊んだ、公園楽しかったよ」
公園なんて、いつ行っただろうかと、ほんのわずかな大切な時間さえ、思い出せない自分がクソ野郎に思えて、噛みしめる奥歯がギシギシと音を立てて、必死にその衝動を抑え込んでいた。
「またあの公園で遊びたいね。でも、今度はブランコだけにするよ。パパ忙しいから、疲れているから・・・」
「グオーー!!」
猛獣のような絶叫が、自分の意思に反して、恭介の口から飛び出した。
魂が泣いていた。
恭介は思い出した。
一度だけ、二人で行った近所の公園。
娘が笑顔で、遊具で遊ぶ中、自分は面倒そうにベンチに座り、スマホを操作していた。
すぐに飽きてしまった自分は、まだ遊びたいと駄々をこねる娘に怒って、置いていく素振りをしてしまった。
怖くなった娘は、走って追いかけてきた。
それいらい大切な休みの邪魔をされたくないと、休日も仕事と偽って家に居ないようにしていた。
やっぱり自分は、駄目な人間だったと、目の前が真っ暗になった。
そのとき、鍵が開けられてスタッフが声をかけてきた。
「それでは、娘さんの思いを受け止めに行きましょう」と。
膝から崩れ落ちている恭介を、これまた打ちのめされている木村さんがなんとか抱きかかえ、ゆっくりと歩きだした。
佐藤さんは、スタッフが抱えて連れ出された。
打ちひしがれた父親三人は、何とか席に着いた。
そこに娘達が、お皿に盛られた、あの、カレーとは名ばかりの、謎のものを持ってきた。
娘達は、お皿をそれぞれの父親の前に置くと、少し離れた壇上から父親達を見つめた。
目の前に置かれた皿を見た恭介は、またしても得体のしれない感情が、涙として溢れ出してきたのだった。
その痛みを共有するかのように、三人の父親は静かに涙を流した。
「それでは、娘さんからのたくさんの愛を、残さず、美味しく頂いて下さい」
進行役と思われる女性の声が、会場内に響いた。
三人の父親は、誰も動けずにいた。
誰もスプーンを持てずに、ただ、うな垂れて涙を流している。
静まり返る会場内の時間は、刻々と過ぎていく。
痺れを切らしたのか、佐藤さんの娘が声を上げた。
「パパ!頑張って。一生懸命作ったよ」
佐藤さんは震えていた。
己の罪と、目の前の恐ろしい料理の狭間で、心が崩壊寸前のところにきていた。
恭介は、佐藤さんの心が痛いほどわかった。
絶対に、罪は償いたい。
どんな形であろうが、許されることはなくとも、なんとしてでも償いたいんだ。
でも、目の前にある地獄の釜に飛び込むのには、もう少しだけ、時間が必要なんだ。
そう、もう少しだけ。
そうだろう、佐藤さん、と恭介は、心の中で佐藤さんの肩を抱いた。
「パパ・・・」
佐藤さんの娘さんが、ダメ押しの、パパ大好き娘ボイスで仕上げにかかった。
佐藤さんが、顔を上げ娘を見つめる。
やがて震える手で、スプーンを持ち上げた。
恭介はハッとした。
そういえば、佐藤さんの鍋には生肉が入っている。
ヘタしたら、そのまま天に上がってしまう。
それは危険だと止めようとした瞬間、佐藤さんは大声を出して泣き出した。
すまない、すまないと何度も言いながら。
良かったのか、悪かったのか、なんとなく後味が悪い結果となってしまった。
佐藤さんの娘を見ると、少し不貞腐れたような顔をしていた。
「パパ!美佳、頑張ったよ!」
木村さんの娘が、絶対食べるように遠回しに促す。
木村さんは、わかっていると言わんばかりに一つ頷くと、スプーンを手に持った。
スプーンを持つ手は、微妙に震えていたが、覚悟の覇気が、体全体を覆っていた。
木村さんは、スプーンでカレーらしき魔物を、ゆっくりとすくった。
具がないスープのような液体のところがすくえていた。
恭介は、目が離せなかった。
本当に食べれるのか?
木村さんは、本当に食べる気なのか?
木村さんは、溢さない様になのか、はたまた本能が拒絶しているのか、ゆっくりと口元へスプーンを運んでいく。
見ている恭介も、震えてきそうだった。
口元手前でスプーンは止まり、木村さんは深呼吸を一つした。
木村さんは、一瞬笑みを浮かべると、一気にスプーンを口の中に含んだ。
それは数秒間だったのだろうが、酷く長い時間に思えた。
何とも言えない沈黙が続く。
時が止まったのかと思った次の瞬間、木村さんが噴出した。
(ブフォーーー!!!)
「木村さ――――ん!!」
魂も、一緒に出てしまったのではないかと思えるのほどのその衝動は、ゆっくりと天に上るように消えて行った。
木村さんは恍惚な表情を浮かべ、辛うじて息はしているようだった。
スタッフが駆け付け、木村さんを抱え会場を後にした。
恭介は、正直わからなくなっていた。
頭の中が、激しく上下する感情についていけず、今、何で、ここにいるのか、わからなくなっていた。
早く、あの家に帰って眠りたいと浮かんだ時だった。
娘が恭介を呼んだ。
それは、逃げていく魂の尻尾を、がっちりと掴むように。
「パパ!」
思考が、急激に現実に引き戻されていく。
恐怖しかない現実が、鮮明になっていった。
ああ、俺は恐怖と向き合っていたんだと、ついに気づいた。
目の前にある魔物は、自分においでおいでをしているように、そこに当たり前に存在している。
どうしても、この目の前の事実から逃れたいと、気づくと食べる事以外のことを考えてしまう。
父親とはなんだろうか?
男なんか、今の時代、何の役に立つのだろう。
女性が社会進出し、働きながら子育てもしている。
そんな、頑張っている女性を助けるために、テクノロジーや、社会インフラが急速に発達していってる。
男でなきゃとか、父親じゃなきゃダメな時代など、もうとっくに終わっているのかもしれない。
ミツバチのような世界になっていくのかな。
男はただ、その一瞬だけ存在すればいい。
ただ、それだけの存在。
「パパ!頑張って!」
娘に逃げの思考を強制終了されて、またしても目の前の恐怖と対峙した。
恭介は思った。
まだ男にやれることは、きっとある。
父親じゃなきゃ、与えられない愛もあるはずだ。
今がその時なのかもしれない。
男して、父親として、生きた証を残すときはきた。
恭介は意を決して、スプーンを持った。
(見ててくれ。これが父親の姿だ!)
恭介にはわずかな勝算があった。
娘がこの魔物に入れた材料は、だいたいわかっている。
多分、強敵は「酢」だけだ。
酢なら、普段から料理にかけて食べている。
酸っぱいぐらいなら死なないだろう。
イケると確信した恭介は、魔物にスプーンを入れた。
(えっ!?)
妙な違和感を感じスプーンを、ゆっくりとすくい上げた。
ドロッとしてるような、すくい上げることができるほどの粘度がスープにあった。
まるで、ヌタウナギが出した粘液のようなものが入っている。
(なんだこれは?)
いつ入れたのだろうか?
いや、こんなの入れていたとは思えない。
娘が、こんなものがあの場にあっても、入れれるとは思えない。
片栗粉を使った可能性もあるが、こんなような粘度にはならないだろう。
色々調味料を入れて、科学反応がおきる偶然が無いとも言えないが、いや、まず無いだろう。
疑り深い性格が、徐々に、表に出てくる。
(もしかして、差し替えられた?)
これは、娘が作ったものではないのではないか?
もしかしたら、確実に仕留めるために、あらかじめ用意された魔物。
でもまてよ、それなら見た目をもっと優しくして、劇物を混ぜれば済む話。
わざわざ、食べるのを躊躇させる理由などない。
ていうことは、やはり娘が作ったもの・・・いや、やっぱり怪しい。
「パパ!どうしたの?」
恭介はハッと娘を見る。
俺は何で、そのまま受け止めるとこができないんだ。
父親ではないのか?
どんな結果になろうとも、娘からの愛を全て受け止めるのが、本物の父親じゃないのか。
さあ、もうあれこれ考えるのは終わりだ。
己の魂に従い、この愛を受け止め・・・まてよ、木村さんはなぜ、仕留められたのだろう?
見ていた限り、そんな危険な物は入っていなかったはずだ。
おかしい・・・やっぱり差し替えられている・・・。
何が、目的だ?
やっぱり、ただただ、役立たずの夫を懲らしめるための、妻の、愛の劇場なのか?
懲らしめられる筋合いはないと、この期に及んでも覚悟を決めれず、なかなかスプーンを口に運ばず、抵抗し続ける恭介に、娘は蔑んだ目で見つめた。
娘の視線がいい加減痛くなり、いよいよ決断する以外、道が無いところへきていた。
スプーンですくったそのヌルっとした魔物を、恭介はあらためて見つめた。
見た目は悪いが、食べれないものではないのではないかと、時間とともに恐怖が和らいできていた。
いいかげんいくしかないと、恭介は目を瞑った。
やがて、目を見開くと、一気に口の中に流し込んだ。
味など何もわからず、抵抗も空しく、ゴクリと喉が鳴って、奥へと流れていった。
(ブフォーーーーー!!!)
恭介の口から、魔物と一緒に魂が噴出された。
恭介は夢を見ているようだった。
目の前に、公園で笑いながら過ごす家族があった。
笑顔が絶えず、穏やかな季節が家族を優しく包んでいた。
当りまえの幸せがそこにはあった。
自分が目指していた理想像は、しょせん他人を真似た虚像であった。
わずかに残る意識の中、恭介は思った。
せめて、ただいまと言える人間でありたいと。
そう思いながら涙が頬を伝った。
「勝者、1番佐藤さん!決勝進出です!」
父親の旅は、まだまだ続いていく。
料理コンテスト 遠藤 @endoTomorrow
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