第10話 譲葉の澪しるべ

 寮のラウンジのテレビには、澪の視点から見た戦場が映し出されていた。

 眼前に迫る牙。臆すことなく放たれる銃弾と、抜かれる刀。数十リットルもの悪魔の血が流れる中、澪は未だ一撃たりと受けていない。


 澪が持つ通信端末を介して、青科学による中継を続ける譲葉は、じっと画面を見つめていた。

 青の瞳が映すのは不安ではなく高揚。己の英雄の活躍を前にして興奮を隠しきれない、少女の純粋な憧れ。


「――なんで、古代種がこんなにも」

「澪だからよ」


 生徒が漏らした呟きに、ぴしゃりと答える。


「今のヒトよりも弱い身体で、ひたすらに戦い続けてきた。澪の古傷、見たことがある人は分かるでしょう? あれだけの傷を負っても、戦意は一度も失っていない。澪こそ、本物の修道院の狩人なの」


 ペラギア修道院の行く末を指し示す航路。澪しるべ。

 それが澪という名前の由来なのだと、シトゥリは譲葉に語った。


 その名付けとまさに今、目の当たりにしている未来には、とめどない心の震えを感じる。

 現代においては何の役にも立たないと蔑まれる古代種の女児にそれだけの希望を託したシトゥリと、過剰とも思える期待へ見事に応えて見せた澪。御伽話の英雄譚、その一節のような、けれど現実に存在している強固な絆。


 テレビの大画面に投影される豪雨の戦場を見つめながら、そういえば、と譲葉は思いを馳せる。

 ――そういえば、澪と出会ったあの日もこんな雨だったな、と。





 澪と譲葉が出会ったのは六年前。大雨の降りしきる、森林に包まれた離宮でのことだった。

 バタバタと、従者たちが走り回る。絶望の色を表情に覗かせながら、あちこちとの連絡に奔走する従者の姿を、幼い譲葉は窓際に置いた椅子に腰かけながら冷めた目で眺めていた。


 ──何を今更になって慌てているのだろう。こんな場所にいるんだから、いつか悪魔がやって来ることは分かりきっていたのに。


 悪魔が離宮の程近くに出現する。観測機械からの報を受けて、まったく感情を動かしていないのはおそらく譲葉ただ一人。

 まだ小さな身体から吐き出されるため息は尽きない。迫る脅威を前にしても、馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。


「わたしには戦えって言うくせにね」


 皮肉は誰の耳にも届かない。離宮の主である姫君を気にかける者は一人もいない。その事実を再確認して、譲葉はまたため息をつく。


 狩人になる。それが譲葉が生まれながらにして課せられていた宿命。この離宮も、譲葉を狩人へ仕立て上げる教育のために使われる牢獄だった。

 従者も教師も護衛も、こんな僻地に押し込められる原因となった譲葉を疎んでいた。あるいは譲葉に愛嬌があれば話は違ったかもしれないが、譲葉もそれを自覚しながら媚を売る気はまったくなかったのだからどうしようもない。


 足をぷらぷらとさせながら、雨が窓を叩く景色を眺めることしばし。

 譲葉はふと、思いつく。


「……そうね。ええ、いいかもしれない」


 立ち上がり、歩き出す。向かう先は離宮の外。悪魔が現れようとしている森林。


「わたしは呪いのお姫さまなんでしょう? なら、お望み通り呪ってあげる」


 記録上最大とも称される、神秘的黒科学への適性。口さがない者には呪い姫と呼ばれていることも譲葉は知っている。


 豪雨の中、傘も差さずに譲葉は歩く。

 どうせ、いつかは戦場で死ぬ。どれだけ嫌だと訴えたところで戦場に生きるしかない。なら、ここで死ぬ方が何度も怖い思いをしなくて済む。


 けれど、ただで死ぬつもりもなかった。

 呪い方は知っている。悪魔を呪って、呪って、死ぬまで呪って、最後に殺されるとき。この森のすべてを呪い尽くして、呪い姫の名前を残してやる。


 たった九歳の少女が抱くにはあまりに悲壮で痛ましい、その思考と覚悟。譲葉にとっては当たり前の思考回路。

 譲葉の救いがやってきたのは、その呪いが現実に行われようとした直前だった。


「間に合ったか」

「──え?」


 後方からかけられた高い声。ぬかるんだ地面を歩く音。やってきたのは、不気味なカラスの女の子。


「……誰?」

「ペラギア修道院の者だ。救出に来た」


 背負った銃と、腰に帯びた刀。その少女がただの伝令役ではないことは装備を見れば分かった。でも譲葉には到底信じがたくて、受け入れられない。


 同じぐらいの女の子が狩人であるという現実など、知らない。


 少女は木立の一本に身体を預けて腕を組む。泰然とした動作と雰囲気は、ペストマスクと相まって少女を大人のように見せていた。


「とはいっても、ここにいるのは私だけだ。院長と姉たちはまだ離宮にいる」

「どうしてわたしがここにいるって分かったの?」

「婆様──観測機械から聞いた。お姫さまが無茶をするだろうから、そばに行ってやれと」

「……よく分からない」

「今は理解しなくていい。婆様の話は大抵、後から意味が分かってくる。何日先か、何年先かは誰も知らないけれど」


 婆様、と少女が呼んでいるのは観測機械のことらしい。


 ますます目の前の少女のことが不思議だった。

 科学の極点である観測機械は、人類存続に必要な予測は余すことなく伝えるが、個人のように小規模な範囲にしか関わらない未来だったり、他愛もない話だったりは、観測機械が気に入った特定の人間にしか伝えないと聞いている。


 そんな観測機械を愛称で呼んでいるなど、この少女はどのような立場にあるのか。

 生まれて初めてかもしれない好奇心に動かされてさらに問いかけようとしたとき、少女が動いた。


「姫君、あなたはそこに。私が片付ける」

「え?」


 瞬間、雨でぐずぐずにぬかるんだ地面から、四つ首の大蛇が現れた。

 譲葉からすればまったく予兆のない出現。けれど少女は冷静に、譲葉が声を失っていたその一瞬で、二つの首を落としていた。

 半分の首を落とされた大蛇はしかし、まだ生きている。怒りに叫びを上げる悪魔を前に、少女は静かに宣言を上げた。


「ペラギアの澪、楽園証明を開始する」


 銀の刀が振るわれ、蛇の頭を斬り落とす。

 唐突にサブマシンガンが抜かれ、あらぬ方向に銃弾を撃ったと思えば、そこには悪魔の死骸が作られている。

 その場での交戦時間は十分もなかっただろう。澪が一人で対処したのは尖兵も尖兵、先駆けの弱小な悪魔だった。


 けれど譲葉にとってその数分は、すべてを網膜に焼き付ける時間だった。


 豪雨に打たれてもなお残る返り血を全身に浴びる澪の姿はあまりに鮮烈で、狂おしいまでの救いであり、希望だったのだ。


「終わりか」


 澪が刀を鞘に納める。半ば放心状態だった譲葉は、その音で我を取り戻した。


「ひとまず戻ろう、姫君。無駄に体力を使う必要はない」


 右手が差し出される。手袋が悪魔の血で汚れていることに気が付いた澪は慌てたように手を引っ込めるが、譲葉は構わずその手を掴んだ。譲葉が、初めて望んだ他者の体温だった。


 手を繋ぎながら戻った離宮は、やってきた修道院の狩人たちによってすっかり雰囲気を変えていた。

 戦場を前にして張り詰める緊張感と、気心知れた者と共にいるときのリラックスした雰囲気。矛盾する空気が違和感なく同居しているのが不思議だった。


 澪は離宮に着くとペストマスクを外していたが、子供の狩人など一人しかいなかったから、見慣れない素顔でもすぐに見つけられた。


「澪」


 黒い髪と深紅の瞳。古典的な吸血鬼を思わせる純人の少女はすぐに顔を上げる。


「何かあったか?」

「ううん、そういうわけじゃないの。ただ聞きたくて。あなたは、怖くないの?」

「怖い、か」


 澪は腕を組みながら、窓の外に目を向ける。


「うん、怖いよ。弱ければ今日にでも死ぬし、運が悪くても死ぬ。けれど私はそれ以上に、見下げられたまま何も果たせずに生きていく方が怖い。だから、私にとって戦場での狩りは、生きていくために必要なことなんだろう」

「生きるために戦うの?」

「ああ。私だけじゃない。命を賭して目指す楽園があるから戦う。それが狩人だから」

「そう……」


 譲葉は視線を下に向けて、ワンピースの裾を握り締める。目指す未来のない自分では、澪が語る狩人の哲学にはやはり、従えそうもない。


「やっぱり、わたしは狩人になれない。だってわたし、戦いたくないの。大人たちの言いなりになって戦場に出て、いつか殺されるなんて、そんな人生は絶対に嫌」

「そうか」


 澪は短く言って、頷く。次に澪が口を開いたのは、数十秒ほど後のことだった。


「姫君、あなたは弱くない。あなたはとても強い人間だ」

「……え?」

「こんな場所に押し込められて、それでも戦いたくないという主張は簡単にできるものではない。私は戦いたいから戦っている。あなたは戦いたくないから戦わない。ほら、同じだろう?」


 澪の言葉に、譲葉は目を瞬かせる。そのうち、遠くから名前を呼ぶ声に反応して、澪はもたれていた壁から離れた。


「あなたは戦える人間だと私は思う。楽園が見つかりさえすれば、あなたはそれに殉じるだけの意思を持っているはずだ」


 ペストマスクを装着し直して、澪は去っていく。

 ぽつんと佇む譲葉に声をかけたのは離宮の者ではなく、ペラギアの長であるシトゥリだった。


「譲葉姫、澪が気になりますか?」

「……はい。だって、わたしと歳もほとんど変わらないし、同じ純人なのに」

「いえ、澪は純人ではありませんよ」

「え?」

「あの子は古代種。神秘的科学を得る以前の存在。ヒトの祖です」

「古代種──え、そんな、だって。澪、悪魔を狩ってたのに」

「だから私は……いえ、私たちペラギアはあの子を誇りに思うのです」


 シトゥリが穏やかに話し続ける一方で、譲葉は混乱の極みにあった。


 もはや神秘的科学抜きでの狩りなどあり得ないこの時代に、己の身一つで、まだ幼い身体で、悪魔を狩る。

 それが途方もない偉業であることは理解できるからこそ、瞬時に理解できた澪の背景を受け入れたくない。

 今となっては王族や四公家の象徴である古代文字の名前に、赤の瞳と黒の髪。今までは気にも留めていなかった要素が、古代種という事実で結びついていく。


「エルダーガーデンの、ゼロ……?」

「ええ」


 シトゥリは肯定し、譲葉の頭に手を伸ばす。

 すっかり硬くなった手で譲葉の髪を撫でながら、シトゥリは言った。


「此度の狩りをよく見ていてくださいね、譲葉姫。澪こそ、私たちの行く先を示すしるべなのです」



 女学院の寮。そのラウンジで、譲葉は己に楽園を指し示した澪しるべの狩りを見守る。

 共に戦場に立つことはできないし、しない。譲葉が求める楽園は悪魔狩りの先にはないのだから。


「……澪。わたしがいつか、あなたの栄誉を証明する。澪もゼロも、丸ごと証明してみせる」

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