第109話 現状確認
お医者様に頭の機械を外してもらって、僕はようやく起き上がることができた。
久しぶりの座り姿勢だ。
最初のうちは、背中や腰の筋肉にうまく力が入らなかった。でも数分もすると、そんな感覚はなくなった。数週間も続いた長い沈黙ですっかり掠れてしまった喉も、水を飲んでしばらくすると、聞き馴染んだいつもの声を出せるようになった。
お医者様は、うろたえている。
「本当になんともないのですか? 体が動かしづらいとか、倦怠感があるとか、ほんの少しの症状であっても、教えていただきたいのですが」
お医者様の話だと、普通、寝たきりになっていた人は筋力が落ちているから、動けるようになるまで、リハビリをしないといけないらしい。でも僕の場合は、腕を回しても足を動かしても、関節がバキッと鳴る程度で、動かせない状態ではなかった。それに体がだるいとか、気分が悪いとか、そういったこともない。
魂だけとはいえグリモーナでは毎日活動的にしていたから、すぐに動くことができたのだろうか。それとも神様が僕のことを現世に戻すときに、肉体も回復させておいてくれたのか。
こんなふうに、なんとなく思い当たる節はあるような気がするけれど、どれも確証はない。でも、これだけは言えると思う。僕は正直に答えた。
「体調は、いつも通りだと思います」
お医者様は不可解な謎にぶち当たったように困った顔をした。
僕にとっては、体が動かないよりは、動いてくれたほうが断然嬉しい。でもお医者様にとっては、手放しに喜んでもいられないのだろう。きっとこれから医者として、なぜ僕の体が動くのか、原因を突き止めないといけない。どれだけ大変な作業になるだろうか。
なんだか申し訳なく思っていると、お医者様はふうと息をついて気持ちを切り替えた。
「まずは現状の説明をしないといけませんね。自覚があるかどうかは分かりませんが、君は先ほどまで原因不明の昏睡状態にあったのですよ」
僕は静かに、お医者様がこれまでの経緯を語るのに耳を傾けた。
ことの始まりは、とある匿名の救急通報だった。その通報によると、少年が胸にナイフで傷を受け、さらに未知の病状に冒されて倒れているという。そうして救急搬送されてきたのが、僕だった。
搬送された時点で、胸の傷には簡易的な処置が施されていたらしく、傷はすぐ完治した。しかし、僕はなかなか意識を取り戻さない。そこで検査をしたところ、脳神経の一部が損傷を受けており、生命維持に必要な最低限の脳活動以外は停止していることが分かった。なぜそんなことになったのか、どうやったらその状況を改善できるのか。お医者様たちは色々試したらしいけれど、どれもうまくいかなかった。
「そして今日、何の前触れもなく、君は意識を取り戻したんだよ」
お医者様の話した内容の大半は、グリモーナで知ったことと矛盾しない。むしろ僕の方がお医者様より詳しい部分もある。たとえば、その未知の病はすみれの彼女が作り出した新種の魔法だ、とか。意識を取り戻したのは、神様がジュリアを切ってしまったからだ、とか。
そしてお医者様は今度は、脳の検査の結果を詳しく教えてくれている。
「脳の中には記憶を保持するための場所があるのですが、その部分にも病の影響による損傷が確認されました。先ほど体調は万全と伺いましたが・・・・・・」
そこで彼は、一瞬ためらう。それから言いづらそうに、僕に尋ねた。
「おそらく記憶の一部に、混乱があると思います。念の為、覚えている出来事をいくつか思い出してみてもらえますか」
そう言われて、僕はしばらく考え込む。そして驚くべき事実に気がついた。いくら頭を絞っても、グリモーナでの出来事以外のことを、思い出せないのだ。
『グリモーナにたどり着いた人間は、死にかけたときのショックで記憶を失うことがよくある』と教えてもらっていたから、僕もそうなのかと思っていた。だから、現世に戻れば勝手に記憶が戻ってくるんじゃないかと、どこか期待していた。
けれどもお医者様の話によると、どうやら記憶喪失の本当の原因は、ジュリアが引き起こしていた脳神経異常のようだ。
当てが外れた僕は、呆然としながら首を横に振った。
「すみません。全然、何も思い出せなくて・・・・・・」
「そうですか」
お医者様の眉が、気の毒そうに下がる。でも彼に悲しい気持ちになって欲しくて、記憶がないのを認めたわけではない。ただ事実として言っただけだ。彼の心配を和らげようと、僕は急いで付け加える。
「あっ、待ってください。ブロンドの癖っ毛で僕より少し年上の、優しそうな女性のことなら、ちょっとは覚えています」
すみれのあの人のことを指して、そう言った。しかし、彼は瞳に浮かんだ気の毒そうな色をますます強くしただけだ。
「よりにもよって・・・・・・そうですか。いえ、なんでもありません。思い出したのは、かなり直近の出来事のようですね」
その言い方にハッとした。お医者様は僕が伝えた特徴だけで、それがすみれの彼女のことを指していると分かったのだ。
間髪入れずに、僕は尋ねる。
「あの、先生。もしかしてあの人の名前とか、今どこにいるとか、ご存じですか? 実は僕、彼女と話した内容は少し覚えているんですけど、詳しいことは分からなくて」
するとお医者様は、どうしたものかと顎に手を当てて黙り込んだ。僕に彼女のことを話していいかどうか、迷っているみたいだ。
その理由は簡単に想像がつく。
彼はきっと、すみれのあの人が僕を刺した張本人だと、知っているのだ。だから気を遣って、彼女の話を出さないようにしてくれている。
でも、そんな心配は無用だ。僕はさらに訴えた。
「自分が刺されたときのことは、覚えています。その上で、僕は彼女のことが知りたいんです。教えてもらえませんか?」
するとお医者様は、ぴくりと身じろいだ。その表情が、緊張を帯びる。僕はまっすぐにその目を見つめ、答えが返ってくるのを待った。
やがてお医者様は気が進まなさそうに、口を開いた。
「彼女の名前は、ジュリエットというらしいです」
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