第112話 一人の夜

それから少しして、お医者様は慌ただしく病室を出ていくことになった。彼の受け持っている患者さんの容態が急変したらしい。看護師さんが真っ青な顔をして駆け込んできて、お医者様にそう伝えていた。


彼は去り際に言った。


「すみません、今はもう行かなくては。君が意識を取り戻したことは、あとでご両親に電話でお伝えしておきます。きっとご家族の方が会いにきてくださいますよ」

「ありがとうございます」

「他に何かあれば、看護師を呼んでくださいね。では」


そうしてお医者様が出ていくと、この病室は急にしーんと静かになった。


何だか気が抜けてしまって、僕はベッドに仰向けで倒れ込んだ。


信じられないけれど、現世に帰るために管理局を訪れたのは、まだ今朝のことだ。それからハリスがジュリアの果実を見せてくれて、直後、ジュリアがいなくなった。その後、ウィルの助けを借りて何とか現世に戻ってきたけれど、会いたかったジュリエットはもういない。


「なんだか、疲れちゃったな」


つぶやいたけれど、誰も答えてくれる人はいない。


やるせなくなって窓の外に視線を移すと、もう夕暮れの時刻は終わりかけで、これから夜になるところだった。窓から見えるのは、コンクリートで固められた灰色の角ばった建物たち。その壁面に、一つまた一つと小さな明かりがつくいていく。その様子を眺めている間に、しとしとと雨が降り始めた。雨音が軽い音を立てて窓を打つ。やがて雨粒がガラスにいくつも筋を作って、薄暗い景色を覆い隠した。


こうして記憶にある中で、最も孤独な夜が始まった。





それは、僕が本当の意味でたった一人になった初めての夜だった。なぜならグリモーナで過ごした夜は、自室で一人でいても、隣の部屋にはオリオがいた。それに、その向こうにはウィルもいた。植物園にはジュリアだっていた。寂しくなったら、彼らに会いに行けばよかったのだ。


でも今は違う。

オリオとウィルは死神の世界にいるから、会えない。

それに、ジュリアはもう・・・・・・。


かといって、僕は現世にも全く拠り所がなかった。現世で唯一よく知っている人といえば、ジュリエットだ。でも彼女も、もうこの世にはいない。


他に顔をはっきり覚えているのは、お医者様ぐらいのものだ。けれども、彼はさっきの患者さんにつきっきりなのか、一向に戻ってくる気配がない。


お医者様のことを想像して、僕はあることに思い当たった。


そういえば彼は、両親に連絡してくれると言っていた。それなのに、家族の誰かが会いにくる様子は一切ない。


お医者様が忙しすぎて、まだ連絡を入れられていないのだろうか。それとも僕の家族の方に、来られない事情があるのか。


理由はわからないけれど、とにかく僕へのお見舞いは深夜になっても現れなかった。


星も見えない雨の夜がしんしんとけていく。





やがて窓の外に見えていた灯りは、ついたときと同じように、一つまた一つと消えていった。ときどき病室の外を行きすぎていたはずの、看護師さんたちの足音も、気づけば途切れてしまっていた。


そして、世界がすっかり寝静まってしまった頃。


コンコン、とノックの音が聞こえた。


扉が叩かれた音ではない。音は窓の方から聞こえた。

誰かが、外から窓をノックしている?


僕はびっくりして、ベッドの上で横たわったまま身を固くした。

シーンとした病室の中に、雨音だけが響く。


気のせいだったのかな。

僕はゆっくりと息を吐いた。


するとまた聞こえた。

コンコン。


やっぱり気のせいじゃない。

たまらず、体を起こした。


「誰かいるの?」


雨音にすら掻き消えそうなほどか細い声で言いながら、窓の方に首を向ける。その瞬間、僕は息が止まりそうになった。


ガラスの外には、黄色く光る目玉が二つ、暗闇にぽっかり浮かんでいたのだ。


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